37.眠り薬
気がつけば、あたりはすっかり暗くなっていた。
ステンドグラスの模様を映した光の花も、いつの間にか消えている。
「紅茶でもいかがです?」
そう声をかけられて、真琴は無言で頷いた。
どうやら直己は、真琴を最終列車に乗せること断念したらしい。
でも、最終列車に乗らないということは、ここに泊まるということだ。
直己が一条家にいた頃は、二人きりの夜など珍しくなかった。
でも、今は、どうなのだろう。
教会の礼拝堂の裏は、小さな食堂を備えた牧師専用のスペースになっていた。
カセットコンロで沸かしたお湯を、食堂に置き捨てられたカップにそそぎ、ティーパックで抽出しただけの紅茶を飲みながら、少女は小さく吐息をついた。
三年前に無人になったという教会は、すみずみまで掃除され、ステンドグラスは磨き上げられ、オルガンもきちんと調律されていた。
直己がやったことは間違いないけど、オルガンの調律までできるとは知らなかった。
「これからどうするの?」
「そういうあなたはどうなさるおつもりなんです? この村にはまともな宿なんてありませんが」
「まともじゃない宿ならあるの?」
「山を越えた所にラブホテルが一つ」
意味深な瞳を向けられて、真琴はカップを取り落とした。
「冗談ですよ」
ハンカチを持った手が伸びてきて、こぼした紅茶を手際よく拭いていく。
からかうような青年の笑顔から目を逸らし、真琴は唇をとがらせた。
一条家との雇用関係などとっくに切れているのに、青年の態度は変わらない。
優しい眼差しも、穏やかな微笑も変わらない。
病気のことも、自分は裏社会の人間だと告白したことも、その後で交わしたキスのことも、なかったことにしてしまうつもりなのだ。
「直己さんが、もっと、いやな人だったら良かったのに……」
真琴は椅子から立ち上がり、テーブルを回って青年と向き合った。
「私はずっと、あなたがが私に優しいのは、優しくするのが仕事だからだと思っていたわ」
「どうして過去形なんです?」
「あなたが私を愛していることに気づいたから」
青年の目がゆっくりと逸らされた。
「真琴さんを一番愛しているのは遥さんです」
弟の名前を持ち出されて、かっとした。
橘直己という青年は、優しいくせに時々残酷だ。
それに一番とか、二番とかって……。
「そんなことがどうしてわかるの? 第一、ハルは弟よ! でも、たとえ血がつながっていなかったとしても、私はハルを選ばない。ハルは……弟は……私が足枷にならなければ……どこまでも高みにのぼれるのに……」
少女の言葉が唐突に途切れた。
「……ごめんなさい……何だか……」
真琴は眉を寄せながら、こめかみに手を当てた。
急速に襲ってきた睡魔が、思考力を奪っていく。
話に集中しようと思うのに、頭にクモの巣が張っていくで、なかなか言葉が出てこない。
ぐらりと上半身が傾いだ時、青年の腕が伸びてきた。
ふわりと抱き上げられた時、薬を盛られたのだと気がついた。
(私を眠らせて、また、いなくなるつもり?)
もしも今、訊ねたら、青年は微笑して頷くだろう。
大切なことを、まだ伝えていないのに。