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3.A boy meets a girl.

美山家の跡取りだった聖の伯父が自動車事故で他界したのは、聖が五歳の時だった。


三十歳で亡くなった伯父は独身だったから、母校の大学病院に勤務していた父が、急きょ実家に呼び戻され、一家でこの町に引っ越してきた。


美山御殿と藤原屋敷。

この町で知らぬ者のいない二つの邸宅は、高級住宅地の中でも特に富裕層が集まる場所に建っていた。


かつては藩主の御殿医をしていたという美山の家は、広々とした庭を持つ重厚な日本建築。

そしてその規模には到底及ばないものの、日本を代表する大女優である藤原麗華の家は、瀟洒な白亜の洋館だった。


当時、美山の家にはアイリッシュ・ウルフハウンドが飼われていた。

犬の散歩係だった伯父が亡くなって、父は慣れない仕事でてんてこ舞いで、母は犬が苦手だったから、祖父が学界などで出かけてしまうと、犬の相手をする者がいなくなる。

使用人は何人もいるが、皆それぞれに忙しく、餌やりと犬小屋の掃除以外の世話をしようとはしなかった。


一日中、鎖につながれている姿を見ていられなくて、聖は犬を連れ出した。

散歩をさせてやろうと思ったのだが、その日に限って、滅多なことで吠えたりしないおとなしい犬が、ものすごい勢いで駆け出した。


「助けて!」


自分よりはるかに大きな犬に引きずられながら、思わず悲鳴をあげた時、今まで人っ子一人いなかった家の前の通りに、忽然と何かが現れた。

聖は愕然として息を飲んだ。

道をふさぐようにして目の前に立ったのは、自分と同じぐらいの年頃の、若草色のワンピースを着た少女だった。


「逃げて! 早く逃げて!」


必死で足をふんばったが、相手は大きな狩猟犬だ。

転んだはずみに、握っていたヒモが手を放れ、自由になった巨大犬は、猛然と少女に突進した。


直視できずに目を閉じた。

もうだめだ。

あの子は、きっと、かみ殺される。

助けなくてはと思うのに、恐怖のあまり、どうしても身体が動かなかった。


だが、いくら待っても、少女の悲鳴は聞こえなかった。

うずくまったまま固まっている聖の頬を、湿った生暖かいものがベロリと撫でた。

ハアハアという動物独特の荒い息を耳元で聞かされて顔を上げると、若草色の少女と目が合った。


目が合うと、少女はにこりと微笑んだ。

自分と同じ年頃の、真っ直ぐな黒髪を持つ、お人形みたいに可愛い子だった。

でも、人形なんかじゃない証拠に、少しだけ目尻の上がったつぶらな瞳は、優しい光をたたえている。


「びっくりした? でも、大丈夫、シェリーは友達なの」

「この犬、シェリーっていうの?」

「自分の家で飼っているのに、名前も知らないんだ?」


少女がくすりと笑うと、天使の輪が浮かんだ髪がサラリと揺れた。

その間もふっくらとした小さな手は、愛しげに茶色の毛を撫でている。


嬉しそうにしっぽを振る猛犬と、小さな女の子の組み合わせは、幼い少年の目に、ひどく現実離れして見えた。

この子はいったい誰だろう。

登場の仕方からして、普通じゃない。


「君は誰? 犬と友達って本当? 犬と話ができるの?」


矢継ぎ早の質問に、犬を抱きしめた少女は、きょとんとした顔で聖を見上げた。

じっと瞳を合わせているうちに、聖は耳まで赤くなり、さらに墓穴を掘り始めた。


「あ、ありえないよね。で、でも、この通りには、さっきまで誰もいなくて、助けを呼んだ途端、君が現れて……」


湧き上がる羞恥とためらいを振り払って、聖は少女に向き直った。


「君、ま、まさか……て、天使じゃない!?」

たぶん、当時読んでいた、本か何かの影響だ。

あの時のやり取りは、思い出すたびに、顔から火が出そうになる。

真琴はシェリーの毛に顔をうずめて楽しそうに笑い、茹でダコのようになっている聖の手を取って駆け出した。


白亜の洋館。

その周囲を取り巻くフェンスに縦横無尽に絡まる木香薔薇。

咲き誇る花で重く垂れ下がった枝をそっと手で払いのけると、そこだけフェンスの下の方が壊れていて、子供一人がちょうど通れるほどの小さな空間が口を開けていた。

少女は洋館の住人だった。


「ハルがやったの。ここを通れば、門まで行かなくても、ピアノ室から簡単に出入りできるのよ」

「ハルって?」


疑問を口にした時、少女の名前をまだ聞いていないことを思いだした。

それどころか、助けてもらっておきながら、礼はおろか、自己の名前だって告げていない。


「あ、あの、僕の名前は……」

「知ってる。ヒジリくんでしょ。私はマコト。天使じゃないわ。ただの人間。でも、ハルはね……」


少女の髪を彩る若草色のリボンがふわりと揺れて、聖の頬を撫でた。


「ハルは本物の天使なの」


耳元でそっと囁かれた秘密の言葉。

あれば、冗談だったのか、それとも本気でそう思っていたのか。

聖は今でもたまに考えることがある。


真琴に訊ねても、答えることはできないだろう。

訊ねる気もないけど。



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