18.秘密3
会いたいとケータイで告げた時、母親が指定した場所は、某高級レストランだった。
恭しく通された奥の一室。
アールヌーボー様式のクラシカルな店内は、世間一般の高校生であれば、足を踏み入れることに躊躇するに違いない。
真っ白いテーブルクロス。
窓に配されたステンドグラス。
エミール・ガレのテーブルランプが投げかける光が、何の注文もしないのに出てきたブラッドオレンジジュースの色と交じり合って現出させる幻想的な赤。
十五分ほど経った頃、その色よりも更に浮世離れした空気をまとい、女優「藤原麗華」が登場した。
息子と会うのに大胆に胸の開いたドレスを着る心理はよくわからない。
少し目のやり場には困るけど、アールヌーボーの内装には見事に調和していて、ひょっとすると、壁に飾られたミュシャの絵の美女よりきれいかも知れない。
「真琴は一緒じゃないのね」
「うん。マコはいいんだ。それよりさ……」
給仕が下がったのを横目で確認し、遥は軽く身をのりだした。
「直己さん、出て行くってさ」
そっと耳元で囁くと、艶やかな微笑が一瞬で剥がれ落ちた。
「母さんを一緒に連れて行くつもりだったそうだけど、やめたんだって。ひょっとして、駆け落ちでもするつもりだったの?」
わざと軽い調子で告げると、怖い目で睨まれた。
母親がどうして、そんなに必死なのか、遥にはさっぱりわからなかった。
ワインボトルを恭しく捧げて来たソムリエに二言三言告げてから、麗華は店の外に飛び出した。
息子の腕を強引につかみ、地下の駐車場に止めていた、真紅のフェラーリに身を滑らせた。
耳に押し当てたケータイを握る手が震えている。
いくら待っても、相手が応える気配はなさそうだ。
「そんなに直己さんが大切? あの人が母さんを愛しているとは思えないけど」
「愛されていないことは、わかっていたわ。でも、そんなことはどうでもいいの!」
麗子はずっと罪の意識にさいなまれていた。
裕福な家に生まれた苦労知らずの自分と違い、子供の頃に両親を亡くし、ずっと施設で育てられた青年は、血のにじむような努力と引き換えに、輝く未来を手に入れたはずだった。
十八年の時を経て現れた木島武彦にそっくりな青年。
穏やかな微笑とともに差し出された手を、麗華は一片のためらいもなく掴んでいた。
「今度は誰にも渡さない。たとえ相手が死神でも……」
鬼気迫る横顔に、思わず目を奪われた。
実の親子であるにも関わらず、遥は母親のことも父親のこともあまり知らない。
聞く機会がなかったと言えばそれまでだが、我が子を顧みることもなく、華麗な恋愛遍歴を重ねる母親の過去など、知りたくもなかったというのが真相だ。
経済界を牛耳る実業家の娘で、大学一年の時、同じ大学の先輩だった木島武彦と恋に落ちた。
恋人の死後、大学を中退。
周囲の反対を振り切って、恋人の忘れ形見の双子を生み、その二年後に芸能界入り。
それ以後は、親とも親戚とも縁を切り、女優として第一線であり続けた。
全てマスコミの受け売りで、真実かどうかさえわからない。
橘直己は、麗華がどんな人間なのか、知りたかったのだと言っていた。
わざわざ本人に近づかなくても、麗華のプロフィールも、恋愛遍歴も、週刊誌のバックナンバーをめくれば、いくらでも載っている。
父親と似ているのは、単なる他人の空似だろうか?
ぼんやりと考えた時、妙な感じに車が揺れた。
逢魔が時の薄闇の中、カーブの向こうから突如あれわれたのは、大型トラックだった。
中央線を超えて、こちらに迫ってくる。
接触を避けようと、麗華が大きくハンドルを回したのはその時だ。
遠心力に引かれるまま、車はガードレールを飛び越えた。