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15.天才と狂気2

遥は真琴の手を離さなかった。

家に着くまでずっと姉の手を握り続けていた。


リモコンのボタンを押すと、幼馴染の少年が、テレビのディスプレイに映っていた。

マイナーなピアノコンクールなんて、通常はテレビで放映されるようなものじゃない。

でも今年は、藤原麗華の息子で、モデルでもあり、音楽家としても、作曲家としても、さらには絵の世界でも将来を嘱望されている一条遥が参戦したことで、あり得ない数の報道陣が会場に詰めかけていた。


一位の副賞は百万円。

裕福な家の一人息子が、実は賞金目当てでコンクールに参加していると知ったら、誰もが目を剥くに違いない。


日本人離れした自分のルックスを、遥は密かに嫌っている。

自分が脚光を浴びれば浴びるほど、姉との距離が遠くなってゆくことも知っている。

それなのに、中学生の頃からモデルのバイトを続けているのも、出たくもないコンクールに自ら進んで参加するのも、金めあてに他ならない。


「一生働かなくても生きていけるように、なるべく多くのお金を、なるべく早く貯めたいんだ」


大きなキャンバスに油絵の具をぶちまけながら、遥はそんなことを言っていた。


遥と貯金。

遥と将来設計。

これ以上、奇妙な組み合わせもないだろう。


「そんな不純な動機でその絵をコンクールに出すつもり?」

「不純な動機だなんて決め付けないでよ。純粋とか不純とか、正しいとか間違っているとか、そんなこと、どうでもいいだろ?」


どうでも良くないと思うけど、言い返すのはやめておいた。

屋上に来た目的は、答えの出ない問答をすることでも、芸術を鑑賞するためでもない。

聖は手すりに歩み寄り、わざと強引に揺すってみせた。


「前にも言ったと思うけど、手すりの一部が古くなって腐食しているんだ。こんな所で絵なんか描いてたら……」

「この絵と一緒に地上に真っ逆さま?」

遥はくくっと笑い、キャンバスを抱えたまま、手すりから身を乗り出した。


「おい、やめろよ! 冗談で言ってるんじゃないんだから!」


取り上げたキャンバスには、白い手が描かれていた。

指の隙間からこぼれ落ちる花びらが、累々と横たわる無数の死体の上に降り積もってゆく。

きれいで幻想的な作品だけど、まともじゃない。

こういう絵を描く人間の精神構造は、一体、どうなっているのだろう。


「この死体の中に、俺がいるんじゃないか」


冗談っぽく告げると、遥は不思議そうな顔をした。


「だって、邪魔だろう?」

「どうして? そんなことないよ」


微笑した遥は、静かに空を仰ぎ見た。

今日の天気予報は「晴れ時々曇り一時にわか雨」。

重く垂れ込めた雲が太陽を覆い隠し、今にも雨が降り出しそうだ。


「ヒー君と付き合うようになってから、マコは僕を避けなくなったからね」

「避けるようなこと、したんだ」


聞き流されるかと思ったけど、遥は小さくうなずいた。


「ピアノのある離れの部屋で、抱きしめて、キスしようとして……。自分でもよくわからないんだ。どうしてあんな馬鹿なことをしたんだろう?」


風をはらんだ白いシャツの端に、油絵具がついていた。

黒みがかった赤い色は、点々と散る血痕のようだ。

こんな色ばかり塗りたくっているから、おかしくなるんだ。

力なく垂れた少年の手から、聖は絵筆を取り上げた。


「それからしばらくして、離れの部屋に行ったら、ピアノの上に父親の写真が飾られていた。マコが置いたんだ。笑っちゃったよ。僕たちが生まれる前に死んだ男だよ。忘れるともなく忘れていたけど、マコにすごく似てるんだ」


その写真なら、聖も見たことがある。

漆黒の髪と瞳をした青年は、東京芸大の音楽科を主席で卒業し、奨学生としてアメリカへ渡ったその日、何者かによって殺害された。


麗子に妊娠がわかったのはその後で、結婚だってしていない。

堕ろすことだってできたのに、麗華はたった一人で、二人の子供を育ててきた。


「マコが嫌がることはもうしない。でも、心はどうにもならないだろう? こんな風に思われることすら、疎ましいというのなら、僕は消えていなくなる」


あの言葉は本気だったのか、それと冗談だったのか。


液晶画面の中で、黒のタキシードをまとった遥が、舞台の中央に進み出る。

満場の拍手。

貴公子のような姿にうっとりと見入る審査員たち。

みなの視線を一身に浴びながら、賞金のことでも考えているのだろうか。

涼しい顔で弾き始めたのは、難曲中の難曲とされるショパンのエチュードOP.25-6だった。


そう言えば、数日前、放課後の音楽室で、遥はこの曲を弾いていた。

音楽特待生たちが、超絶技巧だと大騒ぎしていたけど、あの時だって、今弾いている速さの半分ぐらいじゃなかったと思う。


真琴がピアノを投げ出してしまった気持ちがよくわかる。

自分だって、こんな弟がいたら堪らない。


「百万円は決まりだな」


だが、わからないことがある。

一生働かなくても生きていけるぐらいの金が貯まったら、遥は何をするつもりなのだろう?

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