1.きらきら星
叩きつけるようなピアノの音。
それは、とてつもなく不本意な目覚めだった。
思い切り手を伸ばし、ナイトテーブルの上にとぼけた顔で座っている、クマの目覚まし時計を取り上げた。
文字盤が示す時間は午前二時。
草木も眠る丑三つ時だ。
真琴はぎゅっと目を閉じて、右へ二回、左へ二回、寝返りをうった。
続いて身体を折り曲げ、耳をふさぎ、枕の下に頭を突っ込んだ。
寝たのはほんの三十分前なのに。
明日は実力テストなのに。
遥は……双子の弟は……。
(何、考えてんのよ!)
空しい努力をしばらく続けた後、真琴は気力をふりしぼり、ベッドから這い出した。
長い髪をひと揺らしし、パジャマの上に薄手のカーディガンをひっかけて、一つひとつ照明のスイッチを入れながら、どこかおぼつかない足取りで、ゆっくりと階段を下りていく。
予想したとおり、廊下の突き当たりのドアが、少しだけ開いていた。
目尻の少し上がった切れ長の目が、心持ち険しくなる。
防音設備は完璧でも、きちんとドアをきちんと閉めなくては意味がない。
ドアを押し開け息を吸い込んだ。
怒りを爆発させるつもりだったのに、せっかく吸い込んだ息は、次の瞬間、力なく唇からこぼれて落ちていた。
照明を消した部屋の奥。
開け放った窓から淡く光る満月が覗いていた。
夜風に翻るカーテン。
窓で切り取られた幻想的な月の夜。
だか、月光を浴びながら、グランドピアノに向かっている少年の姿は、美しい月よりもなお美しかった。
狂気をはらんだ演奏は、真琴が部屋に足を踏み入れると、美しい旋律に変化した。
幼い頃から神童の名を欲しいままにしてきた弟が、気まぐれに披露する即興曲。
その完成度の高さは高名な音楽家も舌を巻くほどで、真琴はただ圧倒されたまま、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「……ハル……」
弟は顔を上げ、甘く整った白皙の美貌に、無邪気な微笑を刻んでみせた。
「マコ、おいで、一緒に弾こう?」
その言葉を合図に、鍵盤に触れた少年の指先で、新たな音がポンとはじけた。
転がるような軽やかな旋律は、モーツァルトの『きらきら星』。
ピアノを習い始めて間もない頃、毎日のように一緒に連弾した曲だ。
誘うように音がはずんでいる。
真琴の頬が紅潮し、指がうずうずし始める。
ためらいを追い払い、弟と並んで椅子に腰掛けた。
一呼吸置いて二つの音が絡み合い、音楽となって流れ出す。
真琴が大好きだったピアノをやめたのは、他ならぬ遥のせいだった。
でも、弟が悪いわけじゃない。
先にピアノを始めたのは真琴の方だった。
真琴がピアノに熱中すると、弟もやると言い出した。
真琴が間違えれば、遥も間違える。
真琴がスランプに陥ると、遥も同じように弾けなくなる。
当時はあまりに幼くて、そのことを少しも不思議とは思わなかった。
だから弟が自分に合わせてくれているのだと気がついた時、ピアノに触れることができなくなった。
曲を最後まで弾き終えて、真琴は椅子から立ち上がった。
「弾くのは構わないけど、ドアはちゃんと閉めなさいね」
当たり前のことを言っただけなのに、遥は鍵盤に視線を落としたまま、動かなくなった。
捨てられた仔犬のように、背中がしょんぼりと丸くなっている。
思わず伸ばしかけた手を引っ込めて、そのまま部屋を出て行こうとした時、それまで身じろぎもしなかった弟に、いきなり腕をつかまれた。
「ドアを閉めたんじゃ、意味がないんだ!」
つかまれた腕が熱くて痛い。
とがめるように眉をひそめると、遥は傷ついた目をしたが、それでも手を離そうとはしなかった。
「マコの気を引きたかったんだ、マコが僕のことを避けるから……」
いつもは明るい瞳の色が、闇を映して闇色に見える。
無意識に後ずさった時、強い力で抱き寄せられた。
「僕のことが嫌い?」
どこかすがるような声だった。
真琴は口を開いたが、どうしても言葉が出てこない。
長く形の良い指が伸びてくる。
震えているのは自分だけかと思ったら、弟も小さく震えていた。
そっと顎を持ち上げられた時、潤んだ瞳に怯えを含んだ焦燥を見つけ、真琴は辛うじて理性を取り戻した。
「ハル、嫌いじゃないわ。でも……」
心臓が爆発しそうで息ができない。
互いの体温が上がっていく。
真琴とは少しも似ていない、母親譲りの美貌が近づいてくる。
形の良い唇が自分のそれに触れそうになった時、真琴は渾身の力を込めて弟を突き飛ばしていた。




