第6話「喧嘩」
「……っんあ⁈ ああ、朝か。今何時…………」
壁に立てかけてある時計を見ると、時刻は午前七時。
七時には席に着いて朝飯を食べる習慣があった俺が、どういうわけか寝過ごしてしまった。昨日の疲れが響いたのだろう
「まあ、どうせまだ寝てるだろ、あいつ。あいつが起きるまでに、ちゃっちゃと朝飯作るか」
作ると言っても、昨日の野菜スープの残りと素朴なパンをテーブルの上に並べるだけだが。というかよくよく考えてみれば、昨日おばちゃんが野菜くれなかったら、俺は夕飯をどうするつもりだったんだ?
金もなけりゃ、家に食べ物もない。
ここから導き出される答えは、餓死。
「今日中に、何か金策を練らないとな」
ミスラが金を持っているかもしれないが、信頼関係もくそもない俺にあいつが素直に食費の金を渡すとは思えない。
町長に相談、で脅せばなんとかなるか?
「どっちにしても、俺が自由に使える金がいるな」
この家はある程度の設備は揃っているし文句はないが、食器や細かな小道具が足りてない。
「よし、朝飯の支度は大体終わったな。あとは、あいつが起きるのを待つだけ」
数分待って、ミスラがやってきた。
…………軽鎧を見に纏い、どでかい大剣を背負って。
「……」
そういや、こいつ勇者だったな。
その事実を理解しつつも、驚きで声が出なかった。
もし声が出せたなら、きっと「綺麗だ」などと口走っていた。
それぐらい立ち姿が様になっていて、綺麗だった。
初めて出会った、あの深紅のドレス姿よりも。
「ジロジロ見ないで、妊娠しそうだから」
「んなわけあるか!」
「うるさい」
ミスラはどでかい大剣を背負いつつも涼しい顔で俺の前を横切ると、スープを無視してパン一つを鷲掴んだ。そのまま、口にパンを詰め込むようにしてパンを早食いした。
「けほっ! けほっ!」
結果むせた。
「おい、大丈夫か?」
慌てて俺が水をコップに注いで持って行くも、ミスラはそれを右手で制す。
「やめて! あんたに優しくされても、嬉しくないから……ッ!」
ぷつんと、何かが切れた。
「…………は? ああそうかよ。わかったよ。もうお前には優しくてやらない。後悔するなよ腐れ勇者」
「く、腐れ勇者? …………取り消して」
「え、なんだって?」
「取り消せって言ってんのよ!」
ミスラの声に、大気が揺れる。俺は、ミスラの右腕が背中側に回って、大剣の柄を握る瞬間を見逃さなかった。咄嗟の判断で、一歩後ろに身を引いたその刹那。真正面の大気が、さっきの比じゃないほど大きく揺れた。鞘に収まったままの大剣は空を切る。
「お、おまっ……危ねぇだろ! 俺を殺す気か!」
「鞘に収まってるから死なないわ。それより、取り消して。腐れ勇者って言葉を」
「嫌だ」
俺は即答する。
向こうから謝ってくるまで、俺は絶対に取り消したりしない。
ガキだって?
ガキで結構だ。
「…………手加減、できないから」
「は?」
ミスラの大剣が、キラキラとした燐光を放ち始める。
なんかやばそうだ。
ミスラは上段で構えた大剣を、躊躇なく俺に向かって振り下ろす。
あっ、これはやばい。
鞘に収まってるから死なないとか言ってたけど、さすがにこれは死…………。
「やめなさぁああああああああああい!」
突然の横からの声で、振り下ろされた大剣は俺の目と鼻の先で静止した。九死に一生を得たとは、まさにこのこと。
あの声は、俺を助けてくれたあの声を一体誰が発したのかは、ミスラの背後に目を向ければそれとなく分かった。
翡翠色の綺麗なロングヘアーの可憐なお姉さんが、ミスラの背後にいつの間にか立っている。露出が多いようで多くない黒っぽいクールな服を身につけ、下は動きやすさを考慮しているのか短パン。
右手には、物理攻撃が得意そうなゴリゴリなステッキ。
この女性を一言で言うなれば、アダルティな妖精。
あるいは、翡翠の魔女。
その翡翠の魔女は数歩前に出てミスラに向き直ると、ミスラの頬を強くひっぱたいた。音で、よほど強く叩かれたのが分かる。
「私が止めなかったら、彼、死んでたんだよ」
「…………………………………………ごめん、なさい」
ミスラは表情を曇らせて、か細い声で言った。
その姿は、さっきまでと違ってとても弱々しい。
翡翠の魔女は、そんな弱々しいミスラを元気づけるように、ミスラを強く抱きしめた。「大丈夫だよ」と、何度も耳元で囁きながら。
「ミスラ、もうやっちゃ駄目だからね。……さてさて、そっちの君、何か私に言うことは?」
突然、首だけ回して、翡翠の魔女は俺に視線を向けた。
「……助けてくれてありがとう」
「そうだね、感謝の気持ちは大切だよね。でもさぁ…………」
「え?」
目の前でミスラを抱きしめていた筈の翡翠の魔女の姿が、煙の如く掻き消える。霧散する。
「……その言葉じゃないんだよね、私が聞きたいのは」
姿を見せず、何処からともなく聞こえてくる翡翠の魔女の声。
どんなに目を凝らしても、翡翠の魔女の姿が捕捉できない。本当に、マジで、空気と同化するように消えている。空気と同化しているのなら、勝手に人の家に侵入できた訳も頷ける。
そうやって勝手に一人で納得していた時だった。
「……私の可愛いミスラを悲しませたことに対しての『ごめんなさい』なんだよね」
突如として、翡翠の魔女が俺の目の前に現れる。と同時にメリメリメリと、何かが、俺の腹部を真正面から押し潰した。
「アガッ……アッ……ァ」
俺の腹部を押し潰す何かは、翡翠の魔女が右手に持っていたゴリゴリのステッキ。
やっぱり見た目相応で物理攻撃特化のステッキなのかよ!
魔女なら魔法使えよ!
「くっそ……ッ!」
腹部へのダメージが大きすぎて、俺はその場で両膝をついて地面にうつ伏せに倒れた。苦しい。死ぬほどじゃないが、死にたくなるぐらい苦しい。
息をすることさえ、ままならない。
俺が、……何をしたってんだよ。
「お姉さん、君ならミスラを幸せにできるかと少し期待してたんだけど、期待はずれだったね」
……は? まだ二日だぞ。異世界に来てから二日だぞ⁈
ミスラと出会って、まだ二日だぞ⁈
異世界に召喚されてからたった二日しか経ってない人間に、勝手に期待して勝手に落胆してんじゃねえよ。
「早く行くよミスラ。早くしないと間に合わない」
「う、うん。わかった……」
うつ伏せに倒れている俺には何も見えないが、二人分の足音が聞こえ、程なくしてドアが閉まる音が聞こえてくる。
どうやら何処かに行ったようだ。
だいたい小一時間。体感でそれぐらい経った頃、腹には未だ形容できない激痛が走るものの、ようやく立ち上がれるまで回復した。
俺は震える足に鞭打って立ち上がり、テーブルの椅子に体を預ける。
「……ふぅ」
おそらくあと一時間は休憩しないと、体は本調子には戻らないだろう。朝飯を食べるのも、体が本調子に戻ってからが好ましい。今食べたら、きっと吐く。それは勿体無い。
そんなことより結局あの騒ぎは、
「……俺が悪いのか?」
確かに、ミスラの癪に触ることを言ったのは俺の落ち度だ。あの時の俺は頭に血が上りすぎて、あまりにも子供すぎた。過去の自分を客観視してみると、恥ずかしくて死にそうだ。『ガキで結構』。穴があるなら入りたいね。そして、そのまま土葬してくれ。
「だとしても、ミスラの俺に対する態度はなんだ?」
ミスラの俺に対しての態度が失礼だとか、そういうことを言いたいわけじゃない。突然、何処ぞの馬の骨とも知れない男と結婚したんだ。警戒するのは至極当然のことで、態度がキツくなるのも分かる。
だけど、ミスラの俺に対しての態度は、警戒の域を軽く超えているように思える。ミスラのあの態度は、
「俺に嫌われようとしてる?」
いや。それはいくらなんでも考えすぎだ。
俺に嫌われて何になる。
むしろ、俺をメロメロにさせて、家事全部をやらせる奴隷のように扱った方が思考としては健全だ。
「…………何もわかんねぇよ」
あいつの考えてることが、あいつの本心が。