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鳴き砂  作者: 昼夜
2/2

後編

 美波は暫らく家に引きこもることにした。

 最近、外へ出ては思い悩んでいる気がする。このままでは精神を病みかねない。鬱で迎える海月祭など、高熱に浮かされたまま臨む卒業式のようなものだ。

 引きこもって一日目に、法被姿の鳴海が遊びにきた。しかし仮病を装って会わなかった。

 二日目には湊が謝罪に来た。一瞬、会ってやろうか悩んだが大儀そうに持っていた品物が安いスナック菓子だったので門前払いした。

 三日目には母が怒った。いい加減拗ねるのをやめろと叱られたが、勉強に集中しているだけだと嘯いたらあっさり引き下がった。

 美波は寝そべり、天井を見つめた。

 もういっそ、このまま夏が終わってしまえばいい。

 そうすればまたいつも通りの日常だ。ここまで自己嫌悪に晒されることもない。

 父が余計な計らいをしたのは、美波がそう思っていた矢先のことだった。


 父は自己満足の「贈り物」を残すと、母と二人で海月祭の決起集会へ行ってしまった。

「……」

 美波は目の前で仲睦まじそうにしている二人の男女を見た。

 何故家の食卓で、親戚でもない彼らが一番盛り上がっているのか。

 不満を感じつつも羊羹を頬張る。どっしりとボリュームのある羊羹は、口の中にいれると豊潤な甘みを醸しだした。

 こんなに美味しいお菓子がこの世に存在しているなんて。

 美波は戦慄を覚えた。もしも湊がポテチではなくこれを持って来たなら、きっと何度でも許しただろう。

 一つ不満なことは、できれば目の前にいる渚と二人きりで食べたいということだった。知らない人に見られていては舌も落ち着かない。

「美味しいだろ? 都会でも有名な店の羊羹だから。優美が教えてくれたんだ」

 渚は隣に座っている茶髪の女性を見た。目が大きく、薄っすらと桜色のチークをつけている。瞳は絵に描いたように見事な二重瞼で、十人中八人は振り返りそうな美人だ。

 見た目では勝てない。美波は一目で悟った。ここまで差をつけられるとむしろ清々しいくらいだ。

 優美と呼ばれた女性は微笑を湛えながら、ひたすら頷いている。正直、本当に同意しているのか怪しい。

 渚曰く、彼女は極度の照れ屋だという。

 その割には随分と大胆な旅行を練ったものだ。

「優美は環境学を専攻していてね。海月島の自然に興味を持っているんだよ。美波も良ければ彼女に協力してあげて欲しい」

 渚は顎で美波を促した。

「海月島は特に面白いものはない島ですよ。強いて言うなら、夜光虫と灯篭流しくらいです。どっちも海月祭の日の夜に見れると思います」

 美波は意地悪してみようと思い、敢えて鳴き砂には言及しなかった。

「そうだね。あとは鳴き砂も面白い。ま、普通の人はすぐ飽きちゃうと思うけど」

 渚はそう言うと豪快に笑った。

 以前はここまで明るく笑う人じゃなかった。

 静けさの中にある朗らかさ。そんなイメージだったが、今の渚の表情には朗らかさが最もくっきりとでている。

 渚は朗らかに美波の意地悪を覆した。

「鳴き砂を体験するのは初めてなので、とても楽しみです」

 鈴のように綺麗な声で優美がいった。律儀な丁寧語が自然に出てくる辺りに、育ちの良さが窺える。

「そうか、まだ優美は浜に入ったことないもんな。後で案内してあげる。美波も一緒に行くだろ? なんたって島一番の浜マニアだもんな」渚は快笑した。

「浜マニアって、変態みたいな呼び方しないでよ。浜ガールって言ってくれなきゃ」

 美波のジョークに渚はさらに大笑いした。優美は鳩が豆鉄砲食らったような顔できょとんとしている。外地の人間には島民ジョークはハイブロー過ぎたかもしれない。

 ひとしきり笑ったところで、渚は急に真剣な面持ちになった。

「それで、浜ガールは高校を卒業したら島を出るのか?もし都会に来るなら遠慮なく僕達を頼ってくれよ」

 美波は苦笑した。大方、母親あたりの差し金だろう。

 しかし、渚は偽善的な雰囲気を全く感じさせない。彼は本当に心から美波のことを家族のように思い、気にかけてくれている。

「僕達」という部分が若干気にはなったが、美波は真摯に受け止めることにした。

「気持ちは嬉しいよ。でも私は外地には行かない」

 美波は外地という言葉にアクセントを置いた。

「本当に? ずっとこれからも島に止まるつもり?」

「別にそんな悪い選択でもないでしょ。私は内地が好きだからさ。えい!」美波は悪戯っぽく笑いながら渚の羊羹をとった。

「真剣に聞いてほしい」

 渚は一気に鹿爪顔になった。真顔になるとやはり郵便局長に似ている。

「はあ、もう。何さ?」

「島に居ても未来の保証はない」

 ああ、まただ。また私は傷つかなければならない。

 美波は竹串を置いた。

「なんで今そんな辛気臭いこと言うの? せっかく優美さんが来てるのに。ねえ? 優美さん」

 さっきまで腫物のように思っていた優美を遮蔽物として利用している自分に、美波はますます自己嫌悪を抱いた。

 優美は困ったように笑い、小鳥のように首を傾げている。

「美波、これは大切なことなんだ。鳴海や湊にも言った。この島は少子高齢化がだいぶ進んでるし、漁獲量だって昔ほど良くない。どう考えても斜陽だよ」

「そんな難しいこと言われてもわかんないよ。私は渚くんみたいに頭良くないから。それに、もしそうなっても渚くんがいれば安心でしょ? だって島専属の弁護士になって、皆を守ってくれるんだもん」

 美波は微笑んだ。

 対する渚は明らかに逡巡していた。開いた口を塞ごうともせず、狼狽したように視線を泳がせている。隣にいる優美までもが気まずそうに床を見つめている。

 美波は音を立ててコップを置いた。その様子からは反駁する気配が滲み出ており、場の空気が一気に重苦しくなった。

「……ごめん。僕はもう島には帰らない」

 美波は耳を塞いだ。一番好きな人の口から、考えられる中で最悪な言葉を聞くことはあまりに忍びない。

 過酷な現実が目の前に存在するとして、それを直視しなければならない道理が果たしてあるのだろうか。

 美波はとにかく平静を装った。

「そっか。渚くんも、外地の人になるんだ」

「もう外地って呼ぶのはやめないか?」

 渚は美波の瞳を射るように見つめた。

「外地とか内地とか、そんな呼び方をしているから変な距離感を感じるんだ。どっちも同じ国の一部だよ? 船に乗ればあっという間の距離だ」

 渚は美波の顔を覗き込んだ。

「でも、それならどうして皆いなくなっちゃうの? そんなに近いならもっと帰ってくればいいのに。渚くんと会うのだって、もう二年ぶりくらいだよ?」

 渚は押し黙った。握った手が徐々に熱を上げて汗ばむ。

 どんな無理難題でも、渚に聞いてみれば何かしらの答えが返ってきた。勉強でも、悩みごとでも、時には哲学的なことにも。

 渚はその答えを即座に明察することができた。

 それなのに、今の渚はこんな素朴な疑問にすら答えてくれない。

 もういないのだ。茶縁の眼鏡をかけたあの純朴な秀才は、都会の絢爛に奪われてしまった。精いっぱい体裁を取り繕うと努めている渚を見て、美波は悟った。

 それでも、一度好きになった人を嫌いになることなどできやしない。それどころか思いは募る一方だった。

 隣に座る優美は居心地の悪そうな眼差しで渚を見ている。

 美波は名残惜し気に視線を逸らした。

「もう、そんな顔しないでよね。別に渚くんを責めてるわけじゃないの。私はただ……本土には行かないってことを主張したいだけ。だって島を出たら新鮮な魚を食べられなくなるでしょ?聞いたよ、都会で売ってる魚って外国産ばかりなんだってね。いくら値が安くても、私は国産がいいよ」

 藁をも掴みたかった渚は、美波の助け船に必死で擦り寄った。

「はは、確かに。都会の魚は安いけど、固くて食えたもんじゃない。一度でも島の魚の味を知った人間なら、出たくないのも無理はないかもな」

「美味しいですよね。私も驚きました」

 優美も流れに便乗し、場の雰囲気は和らいだ。

「余計なお世話だったね。もう偉そうなことは言わないよ」

 引き潮が砂のお城を台無しにするように、渚も美波の期待を無下にした。

 重い雰囲気を茶化そうと試みながらも、美波は渚が食い下がることを少しだけ期待していた。

 渚は優しく、頭の良い青年だ。でも彼はもう島を、美波を見ていない。あるいは昔からどうでも良かったのかもしれない。退屈だったから難しい本や勉学に没頭していた。いつか都会へ羽ばたく為に、

 未来の愛する人を守る弁護士になるために。

 もしそうならば、美波が渚のためにできることは一つしかない。

「優美さん、鳴き砂を見てみたいんですよね? じゃあ今から行きましょうよ。この時間帯は夕暮れの海が一望できて、浜からの景色も最高ですよ。確か、日本百景にも入っていたような」

「本当に?」

「ちゃっかり嘘つくなよ、美波。確かに綺麗だけどさ」

 三人は黄昏の浜へ向かった。

 美波が最も愛する夕方の砂浜。遥かな水平線の彼方で夕焼け空と緑海が混じり合い、藍と山吹のグラデーションが見る者すべてを圧倒する。

 その光景をじっと見つめ続けると次第に美波の精神は飛んでゆく。時折、自分と空間の境目もわからなくなるまで意識がぼかされる。

 波打ち際では、優美が一眼レフで写真を撮っている。鳴き砂に感嘆の声を挙げながら、渚にツーショット写真を求めた。

 美波は自ら進んでカメラを受け取り、シャッターを切る合図をした。

「はい、ちーず」

 シャッター音が静寂を切り裂く。

 写真を撮り終えると次は優美が美波と渚を撮ると提案したが、美波は「写真写りが悪いから」と言って丁重に断った。

 仲睦まじそうに波打ち際で騒ぐ二人を見て見ぬふりしながら、美波は鳴き砂を手にすくった。

 指の隙間から零れ落ちる砂粒を砂時計に見立て、自分がどれだけの時間を無駄にできるか数えてみる。

 そうしている内に、太陽は完全に海に隠れてしまった。



 ひゅるひゅると賑々しい笛の音、申し訳程度に海月を模したつるし飾り、鼻腔を撫でる焼きそばの匂い。

 ついに海月祭の日がやってきたのだ。

 祭は夕方六時に始まり、夜更けまで止むことなく乱痴気騒ぎが行われる。反抗期の子供も倦怠期の夫婦も、この日に限っては無礼講だ。老若男女全て一様に、出店での飲食や出し物鑑賞を楽しむ。

 海月島にもこんなに沢山人がいたのか、美波は海月祭の度にそう感じる。無論、人々は蟻のように湧いてきたわけではなく、外地から帰ってきただけだ。

 美波は出店で両親と共にカレーを売っていた。我が家ではすっかりお馴染みのお手製カレーだ。虚勢を張るために少しだけ肉を多く入れている。

「よおし、余興にひとさし歌おうじゃないか! 恋人よ~、僕は旅立つ~」美波の父親は酒乱僻があった。

 曲がりなりにも商い中なのに、無礼講を満喫している父を母は冷たい目で眺めている。その双眸には鬼のような光が灯っており、美波に嵐の到来を予感させた。どうやら母は無礼講でないらしい。

「美波、ありがとう。もう手伝いはいいよ。お父さんあんなんだし。お小遣い上げるから自由に遊んできなさい」

 そう言うと母はポケットから千円札を三枚だした。

「いらないよ。別に欲しいものもないし」

「いいから。子供が遠慮しないの」

 母は美波の頭をぽんと一撫でして、無理やり札を握らせた。そこまで言われたら断るのも申し訳ない。美波は自分を納得させながらポケットに札を詰め込んだ。

 エプロンを脱ぎ、店を出る。何を見に行こうか、やはり舞踊を見なければ鳴海は拗ねるだろうか。美波は考えた。

 舞踊を見に行く前に、美波は思うことあって後ろを振り返った。

 そこには、出店の看板も下ろさないで無邪気に父と腕を組んで歌い狂う母がいた。美波には二人が歌っている曲の名前すらわからないが、二人の趣味的に恐らく昭和のヒットナンバーだろう。

(なんだ。案外うまくやってるんじゃない)

 美波は前に向き直って歩いた。何故だかわからない笑いがこみあげ、それを抑えきれずに口角を不自然に引き攣らせている自分がいる。

 とりあえずこの場を離れよう。自分がいる限り、両親はきっと子供に戻りきれない。祭りの時くらい、親孝行してみてもいいかもしれない。


 伝統舞踊は海月祭の主眼の一つで、島民達は総出で舞台を特設する。舞台は毎回ごとに装飾が異なり、それぞれの年のテーマが色濃く強調される。美波は舞台周辺につき、人並みをかきわけた。

 今年のテーマは「絆」らしい。

 舞台の周囲には、いつの間に集めたのか沢山の似顔絵が飾ってある。島の幼い子供達が頑張ったのだろう。歪な似顔絵には「お父さんへ」「お母さんへ」といった具合に宛名が添えてある。

 肩車された女の子が、一つの絵を指さして笑っている。その小さな指の先を辿ってみると、「じいちゃんへ。長生きしてね」と描かれたひとひらの絵が飾ってあった。

 少女のいじらしさに、美波は思わず胸を打たれた。

「美波!」

 突然何かが背中に抱きついた。この体温の暖かさは間違いなく鳴海だ。美波は振り向かずとも確信できた。

「鳴海。この間はごめん」

「謝んなくていいって。風邪、もう大丈夫なの?」

「うん。寝てたらすぐに治った」

 仮病という嘘をついた自分への後ろめたさが心を支配する。

 美波は視線を合わすことができずに、ただひたすら鳴海の萌木色の法被を見つめることに終始した。

「なら良かった。美波は些細なことで落ち込み過ぎなんだよ。私と違って頭が良いんだから、もっと堂々としてればいいの」

 鳴海はそう言うと、背伸びをして美波の頬をつついた。

 頬をつつかれた瞬間、美波が抱えていた後ろめたさが和らいだ。純粋無垢な鳴海が憂鬱の暗雲を振り払ってくれたのだ。美波は鳴海の頬を優しく引っ張った。

「あ! 美波酷いよー。私より背が大きいからって」

「ふふ。柔らかそうだったからつい」

「しょうがないな。今日は無礼講だもんね。でも、許す代わりにちゃんと踊り見ててよ?私の島民生活最後の晴れ姿なんだから」

「大袈裟だなあ。ちゃんと見るって」

「約束だよ。じゃあ、また」

 はきはきとした口調でそう言うと、鳴海は疾風のように法被の一団に加わった。同じような格好の集団に混じってもなお、鳴海は光り輝いていた。カリスマとはまさに彼女のような人のことだ。

 女舞踊が始まってもそれは変わらなかった。数十人の美しい花々が舞う中、萌木色の少女は常に異彩を放っている。

 最後と宣言したわりには、寂しさの影すら感じさせない堂々たる佇まいだ。


 舞踊が終わり、夕立の如く拍手喝采が巻き起こった。

 きっと彼女は良い美容師になれる。美波は拍手の渦の端っこでそう思った。

 何故なら頭など良くなくとも、彼女には素晴らしい人間性があるのだ。

 美波は拍手の雨から逃れた。疲れた足を休ませたいと思い、神社へ向かうことにした。

 確か、神社の境内には灯篭が準備されているはずだ。ライトアップされたお社と相まって、さぞ神秘的な光景が演出されているだろう。

 美波は自分が意外とロマンチストなことに気付いた。

 お盆ということもあって、普段は廃村のように寂れている参道もいつになく鮮やかだ。

 足を弾ませて階段を上がると、七段ほど先に渚と優美がいることに気付いた。

 美波は声をかけようか迷ったが、やめた。

 二人は手を繋いでいたのだ。

 二人の後ろ姿に美波は在りし日の自分と渚を重ねた。

 幼い頃は無意識に手を繋いでいた。しかし、年を重ねると次第に二人の距離は遠のき、何時の間にか姿すら見えなくなってしまった。

 美波は俯く。

 本当は渚が島を出たあの日から分かっていた。将来、恋愛を本気で意識するような年齢になったとしても、自分が渚の隣にいることはない。

 しかし、帰ってきた渚を見た瞬間、どうしても諦めたくない自分に気付いてしまった。だから足掻いてやろうと思ったのだ。

 しかし、その自分もたったいま完全に死んだ。

 二人の姿はいつのまにか視界の外へ消えていた。

「さようなら。渚くん」

 美波は独り囁き、踵を返した。


 美波は夜の帳を駆け抜けた。

 愛を語る男女を追い越し、金魚の入ったビニールを夢中で眺める少年の背後をすり抜け、見知った顔を見つけても平気で無視した。

 何も考えずに駆け抜けた末、辿りついたのはやはり砂浜だった。 

 砂浜だけが、自分が本当に心安らげる場所だ。島でも、外地でもない。この砂浜だけなのだ。

 美波は歩を緩めた。

 何の才能もなく、性格も卑屈で、恋も成就しない。生きる目的すら見つけられない。私には本当に何にもない。どうしてこんなに空っぽな人間になってしまったのだろう。

 道行く全ての人に後光が差してみえた。彼らは皆、それぞれ人生の目的を持っていて、それを成就するために必死に生きている。だから輝けるのだ。そして、一度輝けば誰かが必ずその人を認めてくれる。

 波打ち際まで歩むと、ついに足がもつれて転んでしまった。唇に鈍い痛みがはしり、口の中で錆の味がした。

 美波はふらふらと起き上がり、崩れるように座りこんだ。

 夜の海は暗く、漁火がなければ黒しか見えない。今日は三年に一度の海月祭だというのに、一体どうして漁などするのだろう。そこまでして魚を獲りたいのだろうか。

 思考停止した美波の虚ろな瞳に、浅黒い何かが映った。

「……蟹」

 ここの蟹とも、もうすっかり顔見知りになった。種類も分からない小さな蟹だが、幼い頃からずっと見ていると百年の知己のように思えてくる。

 美波は甲羅に触れてみようと思い、砂に塗れた腕を伸ばした。

 あと数センチ、それだけの距離で触れ合える。

 しかし、無情にも蟹は逃げていった。

 所詮、蟹にとって人間は巨大な狩猟者でしかないのだ。そんな野蛮なものと触れ合うわけがない。

 美波は嗚咽した。

 周りの人々が変わりゆく中、自分だけが取り残されている。

 鳴海、湊、そして渚も。皆が手を振って別れを告げるのを、自分はいつだって内側から見つめているだけだ。

 いつか近い将来、自分は一人ぼっちになる。家族にも孤独を打ち明けられず、嘘だらけで予定調和の暮らしを送る毎日。

 もう耐えられない。

 美波は鳴き砂を踏みしめ、海へ向かった。

 きゅん、きゅん。鳴き砂が音をたてる。

 その時だった。

「入水でもするつもりか」

 振り向くと、微笑を湛えた青年がいた。美波は慌てて涙を拭い、必死に笑顔を作った。

「湊ってもしかして私のストーカーなの?」

「馬鹿言うなよ。浜は親父の仕事場に近いから、どうしても通らざるを得ないんだよ。それで、毎日のように砂の上でぼさっとしてる美波を見つけると」

 湊はそこまで言うと言葉を切り、意外そうな顔で美波を見つめた。

「何よ。私の顔に文句でもあるの?」

「勿論あるけど、その前に血でてるぞ」

「え?」

 美波は顔をまさぐった。さっき転んだ時に血の味はしたが、予想以上に深く唇が切れていたようだ。白い手の平がべっとりと朱に染まった。

「馬鹿、無闇にいじるな。ほら、拭いてやる」

「ありがとう」

 湊はポケットからハンカチを出し、美波の唇を優しく拭いた。刺すような痛みが走ったが、不思議と心地よかった。

 拭き終えると、二人は神妙な顔で波打ち際に座った。

 誰もいない夜の砂浜。あるのは月明かりと、波の音だけ。

「夜の砂浜もたまにはいいもんだな」湊は背伸びした。

「……聞かないの?」

「何を?」

「どうして私がここにいるのか。今日は海月祭なのに」

「どうせ盗み食いでもして店を追い出されたんだろ」

「違う」

 美波は湊の肩を叩いた。

 湊は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、鳴き砂を手で鳴らした。

「冗談だよ。まあ、泣き虫な美波のことだから、また落ち込んでたんだろうな」

 湊は微笑んだ。

「凄い。なんでいつも分かっちゃうの」

「いつも?ああ、この前のことか。やっぱ図星だったんだ」

 美波は唖然として口に手をやった。本当に湊には敵わない。

「驚いてるね。でも、俺には本当にお見通しなんだよ。美波のことなんて。何年一緒にいると思ってるんだよ」

「それはそうだけど」

「まあそうだな。後は強いて言うなら、砂かな。親父の手伝い帰りに、鳴き砂が鳴いてると思って浜を眺めると大体お前がいるんだ。しかも大体泣きそうな顔をしてる。実際に涙を見たのは今日が二回目だけど」

「二回目?」美波は首を傾げた。

「この前の海豚事件の時だよ。お前完全に泣いてたじゃん」

 美波は記憶の糸を手繰り寄せた。確かにあの時泣いていた。でも、湊は気付いていないはずだった。

 あれは気付かないふりをしていただけだったのか。

「ああ」

 そう思った瞬間、ふと美波の心の中である言葉が甦った。

「思い出した」

 美波は微笑み、湊の鋭い顔を見つめた。

「な、何だよ。俺の顔に文句でも?」

「ないよ。まあまあ良い顔だと思うし」

 湊は驚嘆の表情で口を開き、横に仰け反った。そんな湊の照れを知ってか知らずか、美波は懐かしい言葉を心の中で反芻した。


 砂にも命が宿っていて、人や魚と同じように生きているんだよ。

 じゃあ砂は痛くて泣いているの?

 そうかもしれないね。でも、美波みたいな元気な子供に踏まれると砂も元気になるんだ。誰かが足跡を付けてあげないと、砂はいずれ鳴かなくなる。昔、爺ちゃんが美波くらいだった頃にはもっと大きな音で鳴いていたんだけどね。思えばあの頃は子供が多かったし、海ももっと綺麗だった。

 なあ美波。いつか美波の心が空っぽになって、どうしようもなくなったら、その時は必ず砂浜に来るんだ。そうすれば砂が大きな声で一緒に泣いてくれて、気付いた誰かが美波を見つけてくれる。

 本当に? お爺ちゃんも美波を見つけてくれる?

 もちろんだ。でも、もしもお爺ちゃんが見つけられなくても、必ず誰かが美波を見つけてくれる。

 その人はきっと美波の大切な人だ。

 だからその人を大切にするんだよ。


 私は空っぽで何も特別なことなどない。それでも、確かにこの砂浜と一緒に育ち、ここまで歩んできた。

 そしてきっと、この砂浜と共に死にゆくだろう。今までも、そしてこれからも。辛い時はまたここへ来て泣くにちがいない。

 その時も、鳴き砂が大切な人を私の元へ導いてくれる。

 今と同じように。

 真夏の夜、涙のような潮の匂いに満ちたそよ風が美波の髪を撫でた。


おしまい

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