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鳴き砂  作者: 昼夜
1/2

前編

過去にあげた作品の再投稿です。

 美波は白砂の上に座り、小さな蟹と戯れた。

 海月島の砂浜は、踏むと子犬の鳴き声のような音を発する。

 鳴き砂と言われるその現象は未だに仕組みが解明されておらず、大人たちは子供に最もらしい伝承を教えてお茶を濁している。


 砂にも命が宿っていて、人や魚と同じように生きているんだよ。

 じゃあ砂は痛くて泣いているの?

 そうかもしれないね。でも、美波みたいな元気な子供に踏まれると砂も元気になるんだ。誰かが足跡を付けてあげないと、砂はいずれ鳴かなくなる。昔、爺ちゃんが美波くらいだった頃にはもっと大きな音で鳴いていたんだけどね。思えばあの頃は子供が多かったし、もっと海も綺麗だった。なあ、美波。いつか――。


 うろ覚えだが、美波が聞かされたのは大よそこんな伝承だった。

 十七になった今考えてみると「海を綺麗に保てよ」と暗に伝えたかっただけのように思う。いわゆる教訓というものだ。

 ちなみに、他の友達の家では鳴き砂は踏んだ時に起こる振動によるものだと教えていた。そっちのほうが合理的な説明なのだろう。

 美波は祖父の教えの強かさを可笑しく思うと共に、誇りに思った。

 祖父の教えには美波、そして何より砂浜への愛を感じる。

 砂糖のような白砂と翡翠色の青海。

 こんなに美しい海岸は他にあるだろうか。少なくとも本土にはないだろう。美波は水平線を睨んだ。

 掴もうとすると、蟹は得意の横歩きで逃げていった。

「こんな所で何してるの」

 聞き慣れた少年の声がした。大人になる瀬戸際くらいの、低く気取った声だ。

「蟹と遊んでたの。逃げられちゃったけど」

「暇人かよ、お前。それとも蟹しか友達がいないのか?」

「自分こそ暇人のくせに。どうせやることもないんでしょ」

「そうでもないよ」

 少年は美波の隣に座った。

 彼の名前は湊という。数少ない同い年の友達だ。目つきが鋭く、常に鷹が獲物を狙う時のような目をしている。

 何を考えているのかよくわからない奴だが、気兼ねなく話せるから相談相手には丁度良かった。

「聞いた? 鳴海の話」美波は波を見ながら呟いた。

「ああ、外地の専門学校に行くんだっけ? あいつが美容師志望だなんてね」

 島の人間は本土のことを外地と呼ぶ。無論、内地は島だ。

 隔絶された島の人間にとって本土はほとんど異国同然で、その呼称には此方と彼方を明確に差別化する意図があった。島民は自分たちの生き方に誇りを持っているのだ。実際、老人たちの中には外地の文化が入ってくることすら拒絶する者もいる。

 最も、美波の親世代以降ではそんな誇りは形骸化していた。

 携帯やインターネットの解禁で外の煌びやかな流行に触れやすくなり、島の若者は自分の世界がいかに退屈なものか思い知らされたのだ。 

 当然、若者は外地に憧れを抱く。

 最初に外に憧れた親の世代とその子供世代。ここまで来れば小さな島の誇りなど塵芥のように呆気ないものだった。

 美波の知り合いは皆、十八になると競い合うように島を出ていった。島を出る青年たちの目が共通して輝いていたのが印象的だった。

 かくいう美波もすでに十七歳だ。

 近いうちに自分の進路を確定しなければならない。このままでは時間の波に置き去りにされてしまう。

「美波はどうするつもり?」

「私は絶対に外に出たくない。だって嫌だもん」

「何が嫌?」

「それは……なんか嫌なの。この海から離れたくない」

 本当の理由は別にある。美波はそれに気付きながらも敢えて言わなかった。

「ふーん。美波って本当にこの砂浜が好きだよな。小さい頃からいつもここで遊んでたし。蟹と」

「ふふ、蟹はもういいよ。湊はどうするの。やっぱり出ていくの?」

「俺? わかんないねえ」

 湊は手で砂を掻いた。きゅん、きゅん、と音が鳴る。

 鳴き砂を知らない人が聞けば、近くで小動物が鳴いているのだと思うに違いない。

「でも、湊はいいよね。家が古株の網元だし。それに比べてうちは辺鄙なボロ食堂」

「でも俺は船酔いするから」湊は俯いた。

 美波は堪えきれず吹き出した。漁師の息子が重度の船酔い持ちとはよくできた話だ。美波からすればそんなことは些細な問題としか思えないが、湊は真剣に気にしている。

 美波はポンと湊の肩を叩いた。

 顔を上げた湊につられて水平線を眺めると、いつのまにか夕日が沈みかけていた。

 太陽が半分に割れ、空が鮮やかな蜜柑色に染まる。

 青の縁は黄金の果てにぼかされ、何物にも例えることができない景色がそこに現出した。

 この光景を見る度、祖父の背中で夕焼けを見た時の幼き記憶がありありと甦る。それは間違いなく美波の心の原風景と言えた。


 もう夜がそこまで来ている。

「家の人が心配するだろ? 一緒に帰ろう」

「誰も私の心配なんてしてないよ」

 美波は言った。

 こんなに狭い島だ。少し帰りが遅いからと言って何があるわけでもない。

 しかし一瞬、湊がとても寂しそうな顔をしたので、美波は慌てて「やっぱ帰ろうかな」と言った。

「俺に気を遣ってるなら余計なお世話だ」

「そっちだって私に気を遣ってたんじゃないの? こんな時間にこんな所に来るなんて」

 美波は自虐っぽく言った。

「俺は蟹と遊びに来たんだ」

「湊って意外と照れ屋だよね」

 二人は笑い合った。


 家に帰ると両親が居間でカレーを食べていた。

 父は何やら難しそうな本を読みながら、母はバラエティ番組を見ながら、それぞれのペースでカレーを食べている。

「おかえり」

「ただいま」

 その二言を社交辞令のように交わし、美波は洗面所へ向かう。顔や手を洗った後、居間に戻ってカレーを皿によそう。

 美波はカレーを頬張った。腐っても飲食店を営んでいるだけあって味は中々いける。

 昔からこのカレーを食べている。どの家の食卓にもローテーションメニューはあるものだが、美波の家では三日に一回はカレーが食卓に並ぶ。特別好きなわけでもないし、嫌いなわけでもない。

 要するに惰性なのだ。惰性でカレーを食べている。

 まるで家風を象徴しているようだ、と美波は思った。別に仲が悪いわけでもないが、一家団欒を楽しむこともない。

(この番組、どこが面白いんだろう。しがない食堂の店主のくせに、どうして学術書なんて読む必要があるんだろう) 

 ただ、そんなことを思っても言うことはしない。

「美波、らっきょ食うか?」

「いらない」

「そう? 美味しいのに」父親は苦笑した。

 ああ、まただ。美波は胸に嫌な痛みを感じた。

 この閉塞感の原因は自分にもある。自分の閉鎖的な性格が、家族の会話を阻害している。

 どうしてそうなるのかはわからない。理由はわからないが、もう一人の未熟な自分が本心を包み隠してしまうのだ。

 村の老人たちが外地の合理的な文化に拒否感を示すように、美波も家族に対して素直になれずにいた。

「そういえば、郵便局の息子さんが明日帰ってくるらしいよ」

「え? 渚くんが?」

 美波はスプーンを落とした。郵便局の息子である渚は二つ年上で、美波が密かに想っていた青年だ。しかし、外地の大学に行って以来ほとんど帰って来ない。

 きっと勉強が忙しいのだ。美波は自分をそう納得させていた。

 渚は島でも一、二を争う秀才で、司法試験に受かって島専属の弁護士になると豪語していた。渚ならきっと可能だろう。

 美波は根拠もなく渚を信じている。

「美波はあの子と仲良かったもんな。楽しみだな」

「うん。でもどうして今年に限って帰ってくるのかな」

「今年は盆祭りを盛大にやる予定だから、外地に行った子供たちも大勢帰ってくるんじゃない?」母が言った。

「盆祭りじゃなくて海月祭」父が訂正した。

「同じようなものでしょ」

 母は大雑把な性格で、何事も大体合っていればいいというスタンスを持っている。実際、島の名を冠した伝統的なお祭りでも、夜明けまで飲み明かすという点では普通の盆祭りと大して変わらない。

 違うのは人の数だけだ。

 三年に一回催される海月祭には、外地に移住した人も大勢帰ってくる。都会の忙しない暮らしに慣れた人々が、束の間の羽休めに戻ってくるのだ。

 まるで、戻れない少年時代を懐かしむような顔をして。

 ここは過去の場所じゃない。自分にとっては紛れもない現在だ。

 海月祭が行われるたびに美波は言い知れぬ寂しさを覚える。

「今年の祭りは本当に賑やかだろうな。子供舞踊も力が入ってるし、神社の神主も気合十分だ」

「美波も何か参加したら?」母は言った。

「私は家を手伝うよ」 

 演劇でもオペラでも、観客は華やかな演者たちに心を奪われる。しかし、一番涙ぐましい労力を費やしているのは黒子たちだ。恵まれた才能や容姿は必要ないが、その代わりに失敗は絶対許されない。その上、劇が成功しても喝采を浴びることはない。

 美波は主役よりも、そういった脇役のひたむきさを好んだ。

「小さい頃は海月祭で歌ったりしてたんだから、また出ればいいのに。美波なら主役を張れるぞ」父は言った。

「親馬鹿はやめて」

 美波の一言に父は苦笑した。母は憂いを帯びた目で美波を見つめている。

 バラエティ番組の司会者がゲストをいじり、客がどっと湧いた。嘘くさい、筋書き通りの笑い声だ。

「美波、もう少し自分に自信を持ちなさいよ。何事もポジティブに考えなきゃ上手くいくことも失敗するよ」

「言いたいことはわかるけど、これが私の性格なの。人ってそんな簡単に変われないよ」

 人は簡単には変われない。お伽噺やメロドラマみたいに、愛や夢で生まれ変わることができるならばどんなにいいものか。人格は経験の蓄積から形成されるもので、一度完成してしまえば歪ませることすら難しい。

 外地に行った人だって、口では色々言っても本当は島人の心は忘れられないはずだ。それなのに滅多に帰って来ないのは島にいても金が稼げないからだろう。それには美波も反論できない。

「ごちそうさま」

 美波は立ち上がり、カレーを片付けた。

 明日は渚が帰ってくる。

 夕方になったら会いに行こう。以前よりずっと賢そうな顔立ちになっているはずだ。

 そして尋ねてみたい。外から見る内は、そんなにみすぼらしく見えるのか。

 美波は洗面所へ行き、鼻歌を口ずさみながら風呂に入った。


 翌日、美波は叩き起こされた。

 叩き起こしたのは両親ではなく隣に住む鳴海だった。

「眠いよ……寝起きドッキリ?」

「もう昼前だよ、美波。それより大変なの。渚くんが帰ってきたんだよ!」

 鳴海は勢いよく布団を剥がした。

「知ってる。親に聞いた」

「ただ帰ってきただけじゃなくて、とんでもないお土産を引っ提げてきたらしいの!」

「土産なんてどうでもいいよ。それよりもっと声小さくして」

「そんなこと言って、絶対驚くんだから」

 せっつかされたように話す鳴海の口ぶりに、美波は渋々起き上がった。まだ寝ていたいが、枕元で囃し立てられては仕方ない。

 休日の昼だというのに鳴海はがっちりお洒落をしている。

「渚くん、海坊主でも連れてきたの?」

「違うよ。いや、中らずと雖も遠からず、かな」鳴海は腕を組んだ。

「はあ?」

 最近覚えた言葉だろうか、いつになく難しい言葉を使う。これは

 確かに異常事態かもしれない。

 鳴海は容姿こそ透明感があって愛らしいが、頭脳には難がある。

 それは彼女の愛嬌でもあった。その愛嬌を彼女は今自ら打ち崩そうとしている。

 止めなきゃ、美波が密かに決心した時、鳴海は意外なことを言った。

「渚くん、女の人を連れてきたみたい」

「え」

 鳴海の予想通り、美波は驚愕した。得体の知れない震えが足の先から脊髄を伝い、喉元までせりあがるのを感じる。

 先ほどまでの眠気は最早夢のようだ。

「……そうなんだ。どんな人なの?」

「ちらっとしか見てないけど、いかにも都会の人って感じ。髪が外国人みたいな色で、目が凄く大きいの」

「ふーん。なんか宇宙人みたい」

 美波は必死に笑顔を取り繕った。

「下らないこと言ってないで早く挨拶に行こうよ。美波は渚くんと仲良かったでしょ? 色々聞いてみてよ」

 鳴海に下らないと言われたことに美波は少し傷心したが、気を取り直して着替えを始めた。

 久しぶりに会うのだからお洒落な恰好をしていこう。口紅なんかも塗っちゃって、成長した自分をアピールするのだ。

 ひょっとしたらただの友達かもしれない。

 そうだとしたら、今まで一緒に過ごした時間を考慮すればこっちに分がある。可能性がゼロでない限り挑戦するのが島人魂だ。

 たとえ美人だろうが関係ない。

 ここは内地だ。渚との思い出は断然自分の方が多い。

 普段大事な時にしか着ない、とっておきの白いワンピースを着ていこう。念のため、黒いブラウスも持っていこうか。

 美波は久々に自分の乾いた乙女心が煌めくのを感じた。


 郵便局は港の近くにある。屋根にはカモメがとまり、潮風をその身に纏わせながら羽を休めている。

 ポストの側で島民が集まって噂話をしている。まるで郵便局を監視しているみたいだ。

 人並みを掻い潜って硝子越しに郵便局を覗くと、見慣れた鹿爪顔の局長と垢抜けた青年が何やら話をしている。

「渚くん、変わったね」

「うん」

 美波は青年が渚だと気づくのに数秒を要した。

 渚は髪を鮮やかな茶色に染め、眼鏡を外していた。恐らくコンタクトにしたのだろう。都会の人は見た目を気にしてよくそうすると聞く。

 記憶の中の渚はいつでも茶縁の眼鏡をかけていた。眼鏡を指で弄りながら、美波にはタイトルも読めない本に夢中になっている姿が印象に残っている。美波にとって、渚は初めてみる聡明な男性だった。

 今はもう、あの眼鏡で本を読まないのだろうか。

「美波、渚くんが出てくる! 手振ってるし」

「本当だ。私達のこと、ちゃんと覚えてたんだ」

「当たり前だよ。幼馴染なんだから」鳴海は笑った。

 渚は引き戸を開け、首を伸ばして辺りを一瞥してから漸く美波達のほうへ視線を向けた。

 美波と目が合うと、見る見るうちに相好が崩れた。笑うと目が糸のように細くなって、顔が皺くちゃになる。大人しそうな佇まいとは裏腹のその笑顔は紛れもなく渚のものだった。

「久しぶり! 二人とも元気だった?」

「こっちの台詞だよ。どうして二年も帰って来なかったの?」

 咎めるような口調で訊ねると、渚はなんとなくバツが悪そうに頭を掻いた。

「向こうにいるとつい時間感覚を失っちゃうんだ。やることが山積みでさ」

「お嫁さん探しとかね」

 鳴海が茶化すように言った。

 渚は逡巡したように見えたが、すぐに首を横に振った。

「やめてくれよ。僕と彼女はまだそんな関係じゃない」

 自分のことを僕と呼ぶ、荒くれ者ばかりの島では風変わりな一人称を使うところに、懐かしさを感じる。見た目は変わってもやはり中身は変わらないんだ。美波は思わず破顔した。

 しかし、美波の胸中は複雑だった。拙い予想が当たったことの嬉しさと、明らかに女性への好意を匂わせる渚の態度に対する焦りが入り混じり、気持ちが混沌とした。

「それで、噂の彼女はどこにいるの?」美波は尋ねた。

「今は家で休んでいるよ。船に酔いやすい子でね。心配しなくても必ず紹介するから、その時のお楽しみね」

「あは、超楽しみ!」

 鳴海は楽しそうに手を合わせた。

 船に酔いやすいと聞いて、美波は湊のことを思い出した。

 湊も渚と仲が良く、本当の兄弟のようにいつも一緒につるんでいた。一人っ子の渚は湊が余程可愛かったのか、よく頭の良くなりそうな本を読み聞かせていた。たまに度が過ぎてしまって、明らかに凡人には理解できない内容の本を読まされていた時は正直同情したが、それでも湊は嬉しそうにしていた。

 あれだけ仲が良かったのに湊は姿すら現さない。久しぶりに渚が帰ってきたというのに、寝坊でもしているのだろうか。

 見た目通り極悪な奴だ。美波は思った。

「でも、どうしてその人をわざわざ海月島に?」

「物好きな子なんだよ。ほら、この島って色々珍しいものがあるだろ?灯篭流しとか、夜光虫もそうだし」渚は言った。

「あと、鳴き砂」

 美波はポツリと付け加えた。

 灯篭流しも夜光虫もため息が出るくらい美しい。この島に生まれて十七年も経つが、何度見ても感動は全く色褪せない。

 鳴き砂はそれらに比べると地味だ。

 でも、夏の夜空の静寂の下で密やかに鳴く白砂には何にも例えられない切なさがある。それはまるで、刻一刻と失われゆく生命の儚さを嘆いて本当に泣いているようだった。

 三年前に祖父を亡くしてから、美波はいっそう鳴き砂に思い入れを感じていた。

「都会の人でもこんな田舎に魅力を感じるんだ」

 鳴海は意外そうな面持ちで言った。

「逆だよ。都会育ちだから田舎に憧れるのさ。実際彼女は自然が好きで、大学でも環境学を――」

 がらっ! 内臓を揺らすような開閉音が会話を遮った。

「渚! いつまで待たせるんだ。まだ話の途中だぞ」

「父さん。もう少し待ってよ。今、美波たちと話してるんだ」

 突如現れた郵便局長は興味無さげに美波を一瞥した。

 渚の父親は昔の偉人のような口髭を蓄えている。本人は威嚇のつもりなのかわからないが、島の子供の間では専ら「髭男爵」と呼ばれている。髭男爵は基本的に穏やかだが、癇癪持ちで怒るとたちが悪い。美波は幼い頃から彼を畏怖していた。

「ま、まあ今度ゆっくり話そうよ。私達は夏休みでいつでも暇だから。ね、鳴海」

「うん。海月祭の準備もしなきゃだし、今日はもう仕方ないよ。それじゃ、今度必ず素敵なお友達を紹介してね」

「悪いね、二人とも」渚は苦笑した。

 半ば逃げるように二人は体を翻した。びくびく怯える背中越しに、髭男爵が何やら怒鳴る声がした。

「もう」

 美波は憤慨した。

 あんなに優秀な息子がいて、何をそんなに怒鳴る必要があるのだろうか。確かに、二年も帰って来なかったことは渚にも非がある。 

 しかしそれでも久々に帰ってきてくれたことに変わりはないのだから、いっそ笑顔で迎えてやればいいのに。それが父親の器量というものじゃないのか。

 美波には親の気持ちがわからなかった。親の心子知らずとはよく使う言葉だが、子の心親知らずもまた成立するだろう。子供だって意外と親のことで頭を抱えている。

 結局、親も子も他人なのだ。皆、お互い解っているつもりでいるだけだ。美波は唇を噛んだ。

「美波? 大丈夫?」鳴海は美波の顔を覗き込んだ。

「ああ、ごめん」

「また何か悩んでるの? 美波は本当に心配性だもんね。まあそれも無理ないか。なんたって渚くんが女連れだもん」

 鳴海は肘で美波を小突いた。この幼馴染は人の痛いところを突くことが本当に上手い。勘が鋭いというか、そういう意味では極めて女性的と言える。

 鳴海の勘に従って動けば、大体の物事はうまく進んでしまう。最も、それだけ感が鋭いのに試験の山張りだけは外すという抜けた一面もある。

 進路についても彼女はほとんど悩むことなく、美容師になるために島を出ると堂々宣言した。

 理由を聞くと一言「楽しそうだから」とだけ呟いた。

 何事も考えすぎてしまう美波とは正に対照的な性格だ。

「二人は別に恋人じゃないんでしょ」

「恋人でもないのにわざわざ一緒にこんな退屈な島に来るかな?」

「……それもそうだけど」

 美波の心を再び曇り空が覆った。渚とその女性の関係性、どうしてもそればかりが頭を過ぎってしまう。

 こんな時、美波はいつもの場所に向かいたくなる。そこで独りになって、ひたすら声なき海に問いかけるのだ。

 半ばヒロイズムに酔いながら、波の行方を追いかける。

 これといって打ち込めるものもない美波にとって、それだけが精神を落ち着かせる方法だった。

「ねえ美波、今からでも女舞踊に参加しない? そこで活躍すれば島中の男子を虜にできるかもよ。多分、渚くんだって」

 鳴海は下衆な笑みを浮かべた。

「家を手伝う予定だからそれはやめとく。誘ってくれてありがとう。じゃあ、またね」

「へ? 何よ、もう帰るの? 一緒にお昼食べようよ」

 鳴海の誘いを目で軽くいなし、美波は颯爽と歩き出した。

 一刻も早く、この場を去って一人になりたかった。


 砂浜に着くと、美波は不穏な違和感を覚えた。

 緊張の面持ちで辺りを見回す。やはり何かがおかしい。もう十年以上慣れ親しんだ砂浜なのに、今日は異様な匂いを感じる。

「あっ!」

 美波は叫んだ。

 違和感の正体は波打ち際にある黒い物体だった。逃げだそうと逸る足を抑え、美波は一歩ずつ砂を踏みしめた。

 物体との距離が五メートル程になると、美波は固唾を呑んだ。

 打ちあがっていたのは海豚だった。大きさは目測だが二メートル足らずで、海豚としては小型だ。

 恐る恐る顔を近づけるとばたばたと鰭が動いた。幸運なことに生きているようだ。美波は胸を撫で下ろした。

「今助けてあげる。頑張って。頑張ろうね」

 美波は海豚に海水をかけ、背中に触れた。想像していたよりもずっとすべすべしており、ゴムのような弾力性がある。初めて感じる不思議な感触に美波はすっかり心奪われた。

 きゅー……。モスキート音のように甲高い呻き声が鼓膜を刺激し、美波は我に返った。

「ごめん!」

 すぐさま海豚の横に回り、力の限り引っ張った。しかし、冷静に考えれば二メートルの巨体を非力な少女が動かせるわけもなく、わずかに体をずらすだけに止まった。

 美波は狼狽した。自分は何をやっているのだろう。こんな時こそ誰かに助けを求めなければいけないのに。刻一刻と目の前の海豚は弱ってゆく。自分の好きな砂浜で、一つの命が失われてゆく。

 海豚は力なく蠢いた。

 自分の無力さと情けなさを思うと、消えてしまいたくなる。

 もしも海豚がこのまま息絶えてしまったら、私はもう純粋な気持ちで砂浜に来れなくなるのではないか。美波はそう思った。

「美波!」

 浜の方から声が飛んできた。変声期を終えたばかりの聞き慣れた声だ。美波は天啓に導かれた気がした。

「湊? 助けて湊! 海豚が座礁してるの!」

「見りゃわかるよ。全く、お前のやり方は最悪だよ。もしコイツが暴れて体当たりでもしたら、お前まで座礁してたぞ」

「じゃあどうすればいいのよ!」

 半ばヒステリーを引き起し、美波は叫んだ。心の堤防が決壊し、溜め込んでいた気持ちが間欠泉のように噴射した。

 そんな美波を前にしても、湊は落ち着き払っていた。

「まず、噴射口を塞いじゃいけない。それと絶えず水をかけてあげること。絶対に人間が巻き込まれないように無理な救助はしないこと」湊は反芻するように呟いた。

 湊は手際よく海豚の後ろに回り込むと、尾鰭の手前の細い部分を両手で掴んだ。そして、引きずり込むようにして海へ後退しはじめる。

「美波、水かけてやって」

「わかった」

 美波は力一杯に腕を振り上げ、丁度子供が水をかけあうような塩梅で水をかけた。

 悲壮な形相とその動きの組み合わせが滑稽だったのか、湊は少し苦笑していた。

 海豚はじりじりと海に引っ張られてゆく。そのつぶらな瞳はまるで、自分の行く末を諦めているようだ。海豚にしたら、得体の知れない陸上生物に体を預けることは恐怖だろう。

 美波は手の動きを少し緩めた。

 湊の下半身が完全に海水に浸されるくらい水位が上がると、海豚は自らもがいて、水を蹴りはじめた。「まだ生きたいよ」と必死に駄々をこねているように見える。

 海豚の身体が粗方水に浸かると、湊は素早く前に回り込んで海豚の頭部を押し始めた。落ち着きを取り戻した美波は湊の行動の意図を察し、意外にも筋肉のついた浅黒い腕に真白い細腕を添えた。

 二人で押すと海豚は頭から滑るように回転し、懸命に首をもたげて勢いよく海へ潜った。

 押し返す波にもめげることなく、浅海を優雅に泳ぎはじめる。泳いでしまえばもう海豚の独壇場だった。

 息を呑み、その様子を眺める。やがて海豚は黒い点になり、踊るように海面を跳躍した。

 二人は肩で息をつきながら漸く安堵した。

「もう来るなよ」湊は淡々と言った。

 潮に濡れたその横顔は今まで見たことがない顔だった。


(そっか)


 ここにいる彼はもう、親に甘えた少年などではない。立派な一人の海の男だ。美波が気付かなかっただけで湊は随分と逞しくなっていた。

 呼吸を落ち着かせ、二人は黙々と砂浜に戻った。

「このことは俺達だけの秘密な。皆に知れたら怒られる」

「いいの? もしまた同じことが起きたら」

「大丈夫。親父にだけは言っとくから。まあ、見たところ網に引っかかった形跡はなかったし、偶然浅瀬に乗り上げちゃっただけじゃないかな」

 あーあ濡れちゃったよ。そう言いながら湊はシャツを脱いだ。病弱そうな見た目からは考えられないくらい逞しい体をしている。

 美波は慌てて俯き「ごめん」と言った。

「私、ほとんど何もできなかった」

「何でお前が謝るんだよ。美波がいなかったら今頃手遅れだったかもしれないぞ? 発見が早かったから元気だったし、水をかけ続けたから弱らなかった。最後は海豚自身の力に任せるしかないからな。美波はいい仕事したよ」

 湊は優しく笑った。その笑顔を見た瞬間、緊張の糸が一気に切れた。美波の頬を一筋の涙が伝う。

 その涙が自分の安堵から来る涙なのか、それとも違うところから溢れる涙なのか、何故か自分でもわからなかった。

「それにしてもあいつ、海に戻った瞬間一気に調子に乗ったよな。まさに水を得た魚ってか」湊は珍しく冗談を言った。

 湊はきっと私が涙を流していることに気付いていない。せいぜい、海水が頬を流れ落ちているだけだと思っているだろう。

 それならそれでいい。むしろずっと気付かないでいて欲しい。泣き顔なんて人に見せたくない。

 美波は膝を抱えて突っ伏した。

 涙は砂の上に落ち、汀へと攫われてゆく。

 なんとなく、お互い何も言わない時間が流れた。その静寂の間にも誰かが浜に来ることはなく、ただ波の音だけがいつもと変わらず潮騒を奏でている。あの海豚は無事に帰れただろうか。

 湊は砂の上に大の字で寝転がった。


「さっきの海豚の呻き声、鳴き砂の音に似ていたの」

 美波は呟いた。

「言われてみれば少し似ているかも」

「昔、お爺ちゃんが言ってた。海月島の砂には命が宿っていて、人や魚と同じように生きているんだって。もしそうだとしたら、ここの砂もあの海豚と同じように苦しいから鳴くのかな」

「それはちょっと捻くれすぎじゃない? 俺はそんな高尚なことは教わらなかったからわからんけど、踏まれるのが苦しくて泣き続けるくらいなら、砂の命なんてとっくに死んでるさ」

 湊は投げ出した足で砂を叩いた。

 きゅんきゅんと鈍い音が静寂を儚く破いた。

「そうかな。私、正直ちゃんと伝承を覚えているわけじゃないんだけど……あんまり明るい話じゃなかった気がするな」

 陰々滅々とする美波を見て、湊は苦い顔をした。

「美波は考えすぎなんだよ。俺の家だったら『理由はわからねえが鳴きてえ奴は勝手に鳴かせとけ!』の一言で片づけられるよ。全く、烏かっての」湊はからからと笑った。

 美波は湊を見た。

 目が合い、数秒の沈黙が流れる。

 湊は気恥ずかしく思ったのか突然変顔をした。猛禽類のように鋭い顔が無残に崩れるのを見て、美波は真面目に会話するのが馬鹿馬鹿しくなった。

 真似をして変顔を試みたが、いまいち面白い顔にならない。

「練習したでしょ。湊」

「部屋では常にしてるよ、表情筋体操」

 美波はたまらず吹き出した。

 この鋭い顔が美顔になろうと鏡に向かっている様子を想像すると、どうにも笑いがこみあげてくる。

 湊は眉にかかった前髪をかき上げ、首を左右に一捻りした。格好つけているようにしか見えないその仕草も、今はなんだか様になって見える。

「海月祭、もうすぐだな。楽しみ?」

 湊は尋ねた。

「うん。今年は全体的に舞踊の質が高いらしいし。鳴海も女舞踊に参加するってさ」

「嘘だ」

「本当だよ。さっき本人から聞いたし」

「違うよ。お前、本当は海月祭なんて楽しみじゃないんだろ」

 湊は再び美波を見つめた。一転して蛇が蛙を睨むような厳つい視線に、美波は少し怯んだ。何故急にそんなことを言うのだろうか。

 実際、海月祭に複雑な思いを感じているのは紛れもない事実で、美波はうまく話の穂を継ぐことができなかった。

「そんなことないよ」

「嘘つけよ。お前、明らかに最近辛そうだから。海月祭が嫌なんだろ?理由は多分、外地に行った人間が大勢帰ってくるから」

「だから違うって!」

 美波は声を荒げた。自分は確かに島を愛している。それ故に外地へ移住した人間に一抹の寂寥を覚えたこともある。

 だからといって彼らが嫌いなわけではない。島民はみな同じ種から育った仲間で、離れていても根っこでは繋がっている。

 そう信じていたいし、実際に信じている。

 美波は渚の顔を頭に思い描いた。

 同じ島で時間を共にした友人たちに対して嫌悪感を抱くなど、冗談でも考えたくない。海月祭に悄然とした気持ちを抱くのは、恐らく自分が極度の寂しがり屋だからだ。

 振り返れば、おかしいのはいつだって自分だった。

「別に怒らなくてもいいのに。図星なの?」にべもなく湊が言う。

「それ以上言うと本当に怒るよ」

 美波は立ち上がり、尻についた砂を払った。それに合わせて湊も起き上がり、美波の袖を掴んで、

「もし俺が外地の学校に行くって言ったらどうする?」と言った。

「は?」

 美波は凍りついた。

「例えばの話だよ。俺も完全には進路決めてないから。正直、漁師を継ぐのは大学を出てからでも遅くないと思ってる。だから俺も一度くらいは外地で暮らして、自分の知らない世界を見てみたいなって」

 同じだ。美波は眩暈を感じた。

 もう何度同じ言葉を聞かされたことだろう。そう言って、誰もが島を去って行った。まるで島での暮らしは最後の手段だと言わんばかりに、退屈だと言わんばかりに。

 そして大半は帰省すらしなくなる。

 誰かが帰って来なくなる度に、美波は残された人々の悲壮な愚痴を聞かされた。息子は神隠しにあったのだ、と嘆く人までいた。

 外地での数年間は、この島で過ごした青春時代を忘れさせてしまうほど愉快なものなのか。

 美波は島を出ていった全員に問いかけたかった。

「出てけばいいじゃない。島を出ていきたい人は皆、出ていけばいい。自分の人生なんて自分で決めればいいの。その代わり、自分が今まで島にどれだけのものを貰い、そして置き去りにしていくかは忘れないで」

 まるで散文詩を朗読するように、すらすらと言葉が流れた。本心から湧きでた言葉は糸のように紡がれ、膨れた感情を束ねる。

 美波は逡巡している湊に背を向け、力強く砂を踏みしめた。鳴き砂は踏み方が悪いと上手く鳴かない。そのことに苛立ちを感じて、より強く足を振り下ろしてみた。

 砂は鳴かなかった。


後編へ続く

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