第五話:奪われたもの、そして得たもの
大猿を倒した俺は、その余韻に浸ることなく、高ぶった感情をそのままに貯蔵小屋へ急いだ。
殴り合いなど、小学生のときのケンカくらいしか記憶には無い。
ましてや、殺し合いの経験などあろうはずもない。
そんな俺が、どうみても簡単に人を殺せるような野獣と、命をかけて戦ったのだ。
あの大猿は、油断すればすぐにでも命が吹き飛ぶと思えるほどの殺気を放っていたし、恐ろしく硬くてタフで力強かった。
戦うしかない状況だったとはいえ、そんな強敵をはじめて相手にし、勝利を収めた俺のハートが燃え盛るように高揚するのは自然なことだろう。
しかし、今は高揚感などに浸っている場合ではない。
遥が心配だ。
そんな心境を胸に、急ぎ駆けつけてみれば。
そこには、三匹の小猿を相手に、手斧をふり回している遥の姿があった。
そして俺はといえば、彼女の無事を確認し、胸をなでおろした。
大猿と戦ってみて分かったことだが、コイツらはとにかく腕力があって硬くてタフだった。
遥がいくら武器を持っていようと、複数の敵を相手に無事でいるのか、それだけが気がかりだったのだ。
遥は元気なように見えるが、どこか痛めているかもしれない。
「大丈夫か、遥!」
「なんと、かっ!」
空振りすれば風切り音が聞こえるような速度で、遥が手斧を水平に振りぬいた。
しかし敵もさるもの、強烈なその一撃をまともに喰らって吹き飛ばされたというのに、かぶりを振っただけですぐさま立ち上がり、ほとんど効いていない様子だ。
ただ、手斧が当たった側頭部から血がにじんでいるのを見ると、あの大猿よりは固くないのだろう。
「加勢するぞ」
「アイツは?」
「もちろん倒したさ」
「あんたって人は…… 素手で山猿を倒すなんて、スゴイというか、ホント常識外ね」
あからさまな呆れ顔を作った遥を横目に、俺は二匹の敵を相手に対峙している。
強烈な手斧の一撃を喰らって遥を標的に定めた一匹は、そのまま彼女にまかせるつもりだ。
もちろん、遥がピンチになれば、加勢するつもりなのは言うまでもない。
が、いくら格下とはいえ、コイツら相手に中途半端な戦いはできない。
それは大猿と戦ってみて十分に理解した。
二匹が大猿より小さいとはいえ、普通のニホンザルに比べれば、大きいことに変わりはないのだから。
遥のことも気になるが、今は目の前の俺に威嚇するように興奮している二匹に集中しよう。
コイツらを俺が引きつければ、それだけで遥は楽になるはずだ。
そう考えながら視線を二匹に固定したまま、大猿を倒した時と同じように拳に”気”を送り込んで強化する。
その瞬間、拳から溢れる”気”を感じ取ったのだろう、二匹は左右から同時に飛びかかってきた。
まったくこらえ性の無い奴らだ、なんて悠長なことを考えている暇はない。
コイツらの攻撃は、キバのある強靭なアゴでのかみつきだということが、大猿と戦ってみて予想できた。
そしてその前には、かならずしがみつこうとしてくる。
しがみついて動けなくしたうえで、喉笛にかみついて敵を倒すのだろう。
どうでもいいことだが、猿風情に抱きつかれて喜ぶような変態的嗜好は持っていないし、敵の攻撃を受けきって反撃にうつるような、魅せる戦い方もする気はない。
さておき、両腕を広げて飛びかかってきた二匹が近づいた瞬間、俺は瞬間的に体勢を低くして地を蹴り、後方に跳び退った。
おそらく、小猿共には俺が消えたように見えたことだろう。
標的を見失い、かといって、跳躍して飛びかかろうとした体勢を変えられるわけもなく、二匹は互いに抱きつき合うように空中で激突していた。
そんな隙を黙って見逃す俺ではない。
瞬時に間合いを詰め、大猿を倒した時と同じように”気”で強化した右拳を、抱き合って顔と顔をぶつけた格好になった、向かって右側の小猿の後頭部へと叩き込んだ。
あの頑強な大猿でさえ、その頭を爆散させるしかなかった俺の拳だ。
下っ端どもが耐えられるわけがない。
直撃を喰らった方はもちろん、もう一匹もろとも、俺の拳はその頭を吹き飛ばしていた。
とりあえず目の前の二匹は始末できた。
が、まだ勝利の余韻に浸る場面ではない。
「遥!」
加勢しなければ。
そう思って名を叫び、遥のほうに目を移すと、首筋から血しぶきを上げながらちょうど猿が倒れたところだった。
普段は、おしとやかとまではいかないが、遥は普通の女の子だった。
しかし、彼女の戦いぶりを思いだしてみれば、その戦闘力はなかなかのものだった。
というか、はっきり言って強い。
強すぎる。
冷静になって考えてみれば、彼女は俺の”気”の師匠なのだ。
俺の何倍も”気”の使い方が上手いし、あの大猿を相手にしてもまったく怯んだ様子は見せていなかった。
俺の心配は余計なことだったのかもしれない。
「ふぅ」
それはまるで、一仕事終えたような仕草だった。
一息ついて浴びた血を二の腕でぬぐい、俺の方にふり向いた遥は、血のりがべっとりとついた手斧を片手に、肩で息をしている。
「怪我してないよな?」
「わたしはへいき。空はだいじょうぶ?」
「ああ、どこも痛くないよ」
「助けてくれてありがとう、空…… それにしてもヒドイ恰好ね」
ほっとしたような笑顔でそう言われ、はじめて俺は自分が血まみれになっていることに気がついた。
しかし。
存分に返り血をあびた遥も、人のことを言えた柄じゃないと、このとき俺は思った。
「遥も血だらけだよ」
「分かってるわ。それより…… ごめん、空」
そう言ってきた遥からは、さっきまでの笑顔が消え失せていた。
急に神妙になった彼女に、俺はなにごとかと不安に駆られる。
「急にどうした?」
「空の干物を奪われたわ――」
遥によると、襲ってきた猿どもの数は倍以上いたという。
貯蔵小屋を荒らしていた猿の群れに気づいた遥は、手斧を持って追い払おうとしたが、例の大猿に邪魔をされて小屋に近づけなかったらしい。
しきりに謝ってくる遥をなだめ、俺は小屋の中を確認することにした。
「だいぶ持って行かれたな……」
「ホントごめん」
「もういいって、遥が悪いんじゃないから」
修行がてらに釣った魚を、俺は干物にして貯蔵小屋に蓄えていた。
街に下りたときに、売って金に換えようと考えたからだ。
しかし、その三百くらいはあった干物が、半分以下にまで減っていた。
幸い、吊るしてあった大鹿の肉は無事だったが……
ヒカル爺によると、干物は一匹五十円程度の金になるらしい。
一万円弱、盗まれた計算だ。
遥やヒカル爺にいろいろ聞いてみたところ、物価は十分の一くらいだったから、結構な金額だ。
しかしそんなことより。
「魚はまた釣ればいいさ。それよりも、遥が無事だったほうが俺は嬉しいよ」
お世辞などではない。
下心があったわけでもない。
これは俺の本心だった。
「空……」
このとき、見上げてきた遥の瞳には薄らと涙が浮かんでいた。
はっきり言って俺は動揺した。
こんな遥は見たことがない。
このときの彼女からは、言いようのない色気と儚さが感じられたのだ。
このまま抱きしめてしまいたい。
そう思えるほどに愛おしく思えた。
しかし。
女の人とつきあったことなど一度もなく、ましてや女性経験など皆無でDTな俺が、そんな甲斐性など発揮できるはずがなかった。
「血、流そうか」
「うん、でもその前に……」
このとき俺は、自分のことを本当に情けない男だと思った。
心からそう思った。
遥に言われたとおり猿どもの死体を深く掘った穴に埋め、それから井戸水を浴びることになった。
なにせ、俺も遥も血みどろになっているのだから、このヌメヌメとした嫌な感覚と匂いを、綺麗な井戸水で早いとこ落としてしまいたかった。
そういうことだからしかたがない。
と、俺は心の中で自分に言い聞かせた。
そんなこんなで、交互に桶で水を掛けあって返り血を落としている最中に、ヒカル爺が山から下りてきた。
「何があった?」
若干慌てたように駆け寄ってきたヒカル爺に、ずぶ濡れの遥が状況を説明している。
今まで気にしていなかったが、ずぶ濡れの彼女を眺めているうちに俺の体に変調が訪れた。
ヒカル爺に状況を説明している遥は、水もしたたる良い女、というほどに成熟した色気はないが、その浮き出たボディラインは、俺のエロ中枢を刺激するには十分だったようだ。
今の遥は、薄手の綿の白シャツが水で透け、藍色の短いスカートが太ももに貼りついている。
ヤバイ、下半身に血があつまっている、と感じた俺は、事態が明るみになってしまう前に、近くにあった座椅子に腰かけて難を逃れることにどうにか成功できた。
「山猿の群れか…… 今年は初めてじゃのぅ」
「って、毎年来るんすか?」
「来ない年もあるがのう、多い年は何度も襲ってきおる」
あとで聞いた話だが、遥が山小屋に滞在している理由も、山猿などの獣から狩りで得た獲物の番をする意味あいが大きいらしい。
遥にとって、山猿を追い払う程度のことは、そう難しいことではないということだった。
今までは。
しかし、今回襲ってきた山猿は、はじめて見る大きさで、予想以上に強かったということだ。
「でも、あの個体は異常だったわ」
そう言った遥は、回想でもしているかのように、遠い目をしていた。
「大猿と言ったか、大人の背丈ほどもある」
「ええ、わたしの斧がはじかれちゃったし、傷一つ負わせられなかったわ」
「ほう、遥の斧が効かんかったか」
確かに、あの大猿の硬さは異常だったと俺も思う。
ヒカル爺が驚いているほどだから、あながち俺の感想も的外れじゃなかったのだろう。
「どうやって追っ払ったんじゃ?」
「空が倒したのよ」
不思議そうに問いかけてきたヒカル爺に、遥が少し得意そうに答えた。
だから俺も得意げに答えることにした。
「殴り殺した」
「そうかそうか、殴り殺したか」
そう言って愉快そうに笑いだしたヒカル爺。
ヒカル爺によれば、その大猿は群れを率いているボス猿だろうということだった。
そして、それほどの大きさの個体なら、遥の斧が通じないというのも、不自然ではないらしい。
一般的に大きい獣ほど、その防御力は高くなるそうだ。
そのなかでも、山猿の防御力は高いことで有名らしい。
しかし、斧の直撃を顔面に喰らって血の一滴も出ないなど、聞いたこともないという。
それを素手でなぐり殺したというのが、ツボにはまったようだ。
「それにしても災難じゃったのぅ。盗られたのはお前さんの干物だけか」
遥は、思い出したように下を向いてしまった。
干物を盗られたことに、まだ責任を感じているようだ。
それに追い打ちをかけるようなことを言ったヒカル爺に、このとき俺は感情の高ぶりを感じていた。
しかし、うなだれている遥に見えないように、俺の背をつついてきたヒカル爺の魂胆に気づいたとき、俺はグッジョブと心の中で喝采を送っていた。
そうさ、下心が有ってもいいじゃないか。
「俺としては遥が無事だったほうが嬉しいよ。そりゃぁ、干物が盗られたのは悔しいけど、またたくさん釣ればそれでいいから」
前にも同じようなことを言ったような気がしたが、「遥が無事だったほうが嬉しい」のところを、ことさら強調しておいた。
彼女との距離感をもっと親密にするには、今が絶好のチャンスじゃないか。
彼女はうつむいたままだったが、小さく頷いて小屋の中に消えていった。
それを見送ったヒカル爺は、ニヤリと口の端を上げたのだった。
ありがたいことに、どうやらヒカル爺は、俺と遥を本気でくっつけたいようだ。
「ほれ、お前さんも早いとこ着替えんと風邪ひくぞ」
小屋に戻って乾いた服に着替えた俺は、いつもよりせわしなく家事に勤しむ遥を、可愛いなぁ、と思って眺めていた。
ちなみに、まともな服を一着も持っていなかった俺は、ヒカル爺のおさがりと言ったら語弊があるかもしれないが、彼からもらったじんべえのような服を着ている。
今はまだ夏場なので、外に出るときはデニムのズボンにTシャツ姿だが、小屋の中ではこの服装でいることが多い。
そんなことを考えていると、俺が着替えたことに気がついた遥が、右手を差しだしてきた。
視線を泳がせ気味に手を差しだしたさまは、少し恥ずかしそうでもある。
「はい」
「何?」
遥がなにを要求してきたのかは分かっていた。
しかし、少しだけ意地悪してみたいと思った。
俺はもしかしたらSなのかもしれない。
「何じゃないわよ、分からないの? そのズボンとシャツを寄越しなさいと言っているの」
「洗ってくれるのか?」
「当たり前じゃない。それ以外に何があるっていうのよ。鈍感なんだから」
そう言われて差し出した、まだ濡れているTシャツとデニムのズボンを、遥が嬉しそうに持っていってくれた。
今までは、「自分であらって」と言われて自分で洗濯していただけに、遥のこの嬉しい変化に、俺は心の中で小躍りしている。
少々ツンデレのきらいがあるのはいただけないが、そういったことも含めて、遥が今までより可愛いと思えるように俺はなっていた。
本当はもっとこう、一途な愛情表現をしてくれるとか、ツンデレではなくてデレデレの方が好みなのだが。
この日以来、俺の服も遥が洗濯するようになった。
けれども、パンツだけはいまだに自分で洗ってと言ってくるのだ。
遥が俺のことをかなり意識していることだけは確実である。
しかし、まだ本気で好きになってくれたわけではないのだなと、少し残念な気持ちに俺はなった。
できれば山小屋にいるあいだに、パンツも洗ってくれるようになるといいが。
というのは果たして高望みなのだろうか。