第四話:魚釣りと招かれざる客
ヒカル爺が俺を釣りに誘った意味は分かった。
当然ではあるが、魚を釣り上げれば食料になる。
しかし釣り上げるためには、簡単に曲がる柔らかくて細い針に”気”を通し、釣り針の形状を維持する必要があるのだ。
そうとう繊細な”気”のコントロールができなければ、それは無理なことだろう。
まさにこの仕掛けを使った釣りは、”気”の訓練と実益を兼ねていたのだ。
焼のはいった鋼製の釣り針がこの時代に無いとは考えにくいが、恐らく俺の”気”の訓練のためにヒカル爺がこの柔らかい釣り針を用意してくれたのだろう。
しかし、理屈が分かれば俄然やる気がでてくる。
余裕しゃくしゃくで魚を釣り上げたヒカル爺の鼻も、あかしてやりたい。
さっそく俺も一匹、と行きたいところだが。
そう簡単にはいかないのが素人の現実だろう。
俺はまだ”気”を抑えることがようやくできるようになったばかり。
長い釣竿と、そこから延びる糸の先にある、小さな釣り針にまで感覚を通わせるのがやっとだ。
水の中に隠れて見えない釣り針を意識し、その形状を保つことなど、簡単にできることではない。
そして、それ以前にもっと根本的な問題に俺は直面していた。
「アタリがこねぇ」
少し離れた所で釣り糸を垂れているヒカル爺は、入れ食いとまではいかないが、釣果を重ねている。
多少釣りの経験がある俺には、今釣り糸を垂れているポイントが、ヒカル爺のそれよりいい場所であることが分かっていた。
にもかかわらず、俺の竿にはまったくアタリが来ない。
こう言っちゃなんだが、俺はタナを間違えるような素人じゃぁない。
しかも、魚影は見えるし定期的にエサは変えているにもかかわらず、魚は俺の活きの良いミミズには見向きもしなかった。
見える魚は釣れないという人も確かにいる。
が、釣り人などヒカル爺くらいしかいないだろうこの湖で、全くスレていないはずの魚が、活きの良いミミズに食いつかないことなど、ありえないのだ。
まったくアタリが来ないまま時は流れ、陽はすでに昇りきった。
容赦なく照りつける真夏の太陽。
ジリジリと、射抜くように肌を刺す日差しが痛い。
その痛みが、物事を甘く見ていた俺への戒めのように感じられた。
だがしかし……
「なんでだ?」
それが、夏の日差しの戒めを押しのけ、このときの俺を支配しつつあった感情だった。
うだうだ考えても埒が明かない。
もう考えるのはやめだ。
じゅうぶん考えたじゃないか……
「ヒカル爺、全然あたりがこないんだけど」
「分からんか…… そうじゃのぅ。お前さんが森を彷徨っとったときのことを思い出してみぃ」
森を彷徨っていたとき?
あの深い原始の森で俺は何をしていた?
足を取られては滑り落ち、水と食料を求めてただひたすら前進していただけじゃなかったか?
まてよ、生きた動物を見かけなかったぞ、虫すらも。
……そうか! ”気”だ。
それは一筋の光明だった。
いや、一筋どころではない。
闇を照らす眩しい光だった。
さすがはヒカル爺、ヒントの出し方がうまい。
年季が違う。
森の中では、植物以外の生きものに出会わなかったじゃないか。
その理由は、無意識に俺が垂れ流していた”気”が原因だとヒカル爺は言っていた。
そして、釣り針は金属だ。
金属に”気”をとどめておくことはできない。
そう、釣り針から漏れ出た僅かな”気”を警戒し、魚が寄りつかなかったのだ。
小さな釣り針の形状を維持するだけの”気”しか俺は送り込んでいない。
だから魚が散ってしまうことは無いが、俺のエサには警戒して近づいてこない。
その状況が見えているだけに迷いは無かった。
対策は簡単だ。
魚が食いついた瞬間に釣り針に”気”を送り込んで、形状を保てばいい。
それでいける!
一筋の光明から見えた解決策。
さっそく試したその策やいかに。
などなど古めかしい表現で意気込んでさっそく試してみたが、やっぱり世の中甘くはなかった。
たしかにアタリは来るようになった。
が、”気”を送るのが早すぎれば、せっかく咥えたエサを吐き出してしまうし、遅ければ針が伸びて逃げられてしまう。
合わせと”気”を送りこむタイミングが合ったとしても、送り込む量が多すぎると魚がそれに耐えきれずに爆散してしまうのだ。
オイオイそれはないだろう、と、愚痴の一つも言いたくなるが、そうなると近くにいた他の魚まで逃げてしまい、ポイントを移動しなければならなくなるではないか。
だがしかし!
このまま引き下がれるものか、意地でも釣り上げてやる。
と、意地になっていたら、ヒカル爺が帰り支度をはじめてしまった。
「ワシはそろそろ帰るぞ。お前さんはまだやってくか?」
「当然! 意地でも一匹釣り上げてやる」
「暗くなる前には帰ってこいよ」
「了解っす!」
俺は親指を突き上げてその意気を示したのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
小屋の裏庭で毛皮の処理をしていた遥は、背にしょったカゴにたくさんの魚を持ち帰ったヒカル爺に気がついた。
「あれ、空と一緒じゃなかったの?」
「小僧は居残りじゃ、意地でも一匹釣り上げるそうな。暗くなるまでには帰るように言っといたが…… ワシでもあの仕掛けで一匹目を釣り上げるのには苦労したくらいじゃ、あやつにはまだ無理じゃろうて」
「そうなんだ……」
「そんなに気になるかのぅ?」
「べ、別にアイツの事なんか」
仕事の手を止めた遥は、そう言って下を向いたが、その顔は少し紅潮していた。
ヒカル爺はそんな遥を見てニヤリと口の端を上げる。
「まぁいいわい。じゃが、早いうちにツバつけとかんと、かっさらわれるぞぃ」
「ホント?」
振り向き、急に不安そうな顔をする遥。
どうやら彼女は空のことが気になっているらしい。
「今はそんなに心配せんでもいいじゃろ。じゃがのぅ…… あれほどの”気”を持つ男じゃ、素養もいい。街に出れば女が放っとかんじゃろうて」
「…………」
◇◆◇◆◇◆◇◆
ヒカル爺が帰った後も、ポイントを移動しつつ釣りを続けていた俺に、ついにチャンスがやってきた。
これまでの成果は、頭部だけが砕け散った三十五センチほどのマスが二匹。
どちらも、湖面から引き上げたところで俺の”気”にやられ、頭部を散らした魚たちだ。
引き上げた勢いで陸に上がったところを、今晩のおかずにはなるだろうと確保しておいた。
しかし今、俺の竿は山なりにしなり、強烈な引きが手元まで伝わってきている。
陽が傾き、心地よくなった湖面の風が、何年ぶりかの手ごたえに熱くなった俺の頭をクールダウンさせようとしている。
焦ってはいけない。
これを逃せば今日はもうあきらめて帰るしかない。
これが最後のチャンス。
焦る気持ちを抑え、俺は釣り針に送り込む”気”の量を必死になってコントロールした。
かかった魚の大きさを物語るように釣り竿は大きくしなり、竿や糸の強度にまで気を配らなければならない。
少しでも注意を怠れば、逃げられてしまうだろう。
しかし、送り込む”気”の量が多すぎると魚が持たない。
神経をすり減らすような緊張感の中、魚と格闘し続けた結果。
「おっしゃあぁぁぁぁ!」
五十センチはあろうかというマスが、虹色に輝く美麗な魚体をさらし、ペシャペシャと雑草の上でのたうっている。
とうとう釣り上げた。
これでヒカル爺と遥にバカにされずにすむ。
というか、大きな顔ができる。
俺は喜び勇んで山小屋へ急いだ。
それはもう、まさに一目散だった。
「ヒカル爺ぃぃぃ!」
「なんじゃ、騒々しい」
「ジャーン!」
「ほう、釣り上げおったか」
勢いよく開けた引き戸をに手をかけ、息を切らしながらも、どうだ! と、言わんばかりに釣り上げたマスの尾をもち、釣果を見せつけてやった。
そして、それを見たヒカル爺の目が見ひらかれたのを、俺は見逃さなかった。
どうやら、一匹も釣りあげられないと思っていたらしい。
「すごい! すごいよ空」
そう言って褒めてくれた遥に、俺は得意満面の笑顔を返す。
「お爺ちゃんが釣ってきた魚もたくさんあるけど、せっかくだから今日の晩御飯は空が釣ってきた魚で決まりね」
「ありがとう、遥。それと、コレも……」
俺は少し気恥ずかしそうに頭部が砕け散った魚を二匹、遥に差し出す。
それを見た遥が固まった。
ヒカル爺も驚いている。
「ねぇ、空。どうやったらこうなるの?」
「い、いや、釣り針に”気”を送り過ぎたんだ」
「”気”の本質は命を守ることよ。”気”を送るだけで頭が吹き飛ぶなんて…… わざとやったんじゃないでしょ?」
「もちろん、わざとじゃないんだけどさ……」
考え込むそぶりを見せていたヒカル爺も、得心がいかない様子だったが、無理やり納得したように語りだした。
「良薬口に苦しじゃないが、良薬も度を超えて多すぎると毒になるということかのぅ」
「空のバカげた”気”の量と強さなら、こうなってもおかしくないのかな? まぁいいわ、その魚も食べられないことはないし、今日はおさしみとお鍋にしましょう」
結局、こうだという結論が出ることはなく、うやむやのまま話はながれた。
そして、この日は新鮮なマスのさしみと、白みそ仕立てのマス鍋を堪能したのだった。
翌日からは、俺が魚釣りに出かけ、ヒカル爺が狩り、遥が小屋で家仕事という役回りの日々がひと月ほど続いていた。
俺の釣果の方はというと、日増しに”無事”に釣り上げられるマスやコイの量が増えていった。
同時に、”気”の繊細なコントロールも上達し、ヒカル爺からもそろそろ狩りに連れて行ってもいいかと言われるようになっていた。
そんな時に事件は起こった。
十匹の釣果を提げて、昼過ぎに山小屋へと帰り着こうとしていたその時。
山小屋の裏手から聞こえてきた物騒な物音と遥の叫び声。
「くぉらぁー!!」
俺は魚を投げ出して声の聞こえるほうへと走った。
そして、そこで見たものは……
手斧を片手で振り上げ、人の大人ほどもあろうかという大猿に殴りかかる遥と、貯蔵小屋から干物にしていた魚を持ち去るニ回りほど小さい猿たちの姿だった。
見た目はまんまニホンザルだが…… 大きい!
「大丈夫か、遥!」
そう叫びながら遥に駆け寄った俺は、信じられない光景をまのあたりにすることになった。
思い切り手斧のとがったほうで側頭部を殴りつけられた大猿が、それをまったく意に介さずに彼女に反撃したのである。
手斧で殴りつけられた頭からは血の一滴もこぼれてはいなかった。
ヤツの頭は鉄よりも硬いというのか……
大猿の反撃を躱しながら遥が叫ぶ。
「わたしは平気、コイツはわたしが何とかするから、空は貯蔵小屋の猿たちを追い払って!」
平気と言われても、遥が心配だった俺は、聞こえないふりをして彼女の注文を無視することにした。
あんなに強そうな大猿相手に、遥が怪我でもしたら大変だ。
「なんだって? よく聞こえないよッ!」
そう叫びながら大猿に殴りかかった俺の右手に、痺れるような激痛が走る。
「痛っ、どうなってんだコイツの頭は」
「空、あんたわたしの攻撃が見えてなかったの? コイツの頑丈さは異常なの。いくらあんたでも素手で勝てる相手じゃないのよ」
注文を無視されたことに気が立っているのだろうか、遥の口調は穏やかではなかった。
ジンジンと痛む右拳を押さえて立ち上がり、大猿の反撃を大きく横に跳んで躱した俺は、そんな遥に切り返す。
「コイツは俺が倒す。意地でも俺が倒す!」
「何いってんのよ。空、あんた武器持ってないでしょ。貸してあげるからコレで戦いなさい」
「いや、コイツは意地でも素手で倒す。遥はソレで小さいのを追い払って」
納得いかないのだろうか、無理だと思っているのだろうか、訝しそうな視線を投げかけてきた遥を見て、俺は再び大猿に殴りかかった。
”気”の訓練をはじめて、俺はあることに気づいていた。
それは、拳に送り込む”気”の量と強さをコントロールすることで、俺の拳は恐ろしいまでの硬度を出せるということだった。
さっきの攻撃は、大猿の硬さを確かめるためのものだった。
これは決して言いわけではない。
悔しいからもう一度断言しておく。
言いわけではない。
さておき、今度の俺の拳には、さっきの倍の”気”が送り込まれ、鉄よりも硬くなるようにイメージしてある。
たとえ通じなくても痛くはないはずだ。
というか、通じないはずがないと俺は思っていた。
助走をつけて飛び上がり、体重を乗せた俺の拳が大猿の顔面を襲う。
「くっ、痛ったたたっ!」
さっきよりも一段と大きい激痛に、俺はそのばでうずくまりそうになった。
しかし、隙を見せるわけにはいかない。
そう思って立ち上がった俺を、遥が大きく顎を落として見ていた。
俺の拳を受けた大猿はといえば、顔面を押さえて地べたでのた打ち回っている。
「……空に常識が通用しないことはよくわかったよ」
遥はそうとだけ言って、貯蔵小屋へと手斧を振り上げて走って行った。
心配なことに変わりはないが、この大猿と渡り合っていた遥なら、貯蔵小屋を荒らしている小猿どもに不覚はとらないだろう。
そうとなれば一刻もはやく、目の前の大猿を倒すだけだ。
そう自分に言い聞かせた俺は、さっきのさらに倍の”気”を拳に送り込んだ。
そのせいか、俺の拳からは陽炎のようなものがゆらゆらと立ちのぼっている。
のた打ち回っていた大猿はすでに立ち上がっており、一度頭をブルブルと振って敵意のこもった形相で俺を睨みつけてきた。
次の一撃で決める。
そう心に誓った俺は、渾身のダッシュで大猿に肉薄する。
そして、抱きつこうとするように両腕をひろげ、覆いかぶさってきた憎き大猿の手前でしゃがみ込んだ。
同時に有り余る”気”を足の裏から大地へと流しこみ、大地のそれと瞬時に融合させる。
大地の”気”と融合した俺がしゃがみ込みこむことで、体に溜め込み超絶なまでに圧縮されたそれを、まるで叩きつけられ、押しつぶされたゴムまりが跳ね上がるような力へと変換する。
そこから、大地と一体になった俺の体を、究極のふんばりでそのまま上方へと方向転換し、突き上げるような渾身のアッパーをヤツの顎へとお見舞いしてやった。
手ごたえはあった。
拳に痛みはない。
大猿がのけ反るように後方に倒れていく。
俺は立ち上がって倒れた大猿を確認する。
そこには頭部が爆散した死体が転がっていた。