第三話:モツ鍋と魚釣り
猟師をやっているというヒカル爺に、行き倒れていたところを助けられて三日目、ようやく俺は歩けるまでに体力を回復していた。
結局、ろくに歩くこともできなかった俺を気遣ってだろうが、ありがたいことにヒカル爺は、元気になるまでこの山小屋に居てもいいと言ってくれた。
俺はてっきり、ここがヒカル爺と遥さんの家だと思い込んでいた。
しかしここは、春から秋にかけて狩りをするために利用する山小屋だったらしい。
俺は居間で寝起きをしているが、この山小屋はには、ヒカル爺と遥さんの寝室はあるし、風呂場もあるから勘違いしていたのだ。
そして、助けられて二週間が過ぎた今でも、俺はヒカル爺の山小屋に厄介になっていた。
歩く体力を取り戻した三日目以降、山小屋の中で遥さんの手伝いをしながら共に生活をしていたわけなのだが。
その間、この時代の常識を俺があまりにも知らな過ぎたこと。
そして、日増しに強く、そして多くなっていく俺の体から溢れ出す”気”を感じたヒカル爺が、このまま街に出ていくのは問題があると言って、山小屋に留まるようにと気遣ってくれた。
俺はこの二週間で完全に元の体力を取り戻し、それ”以上”に元気になっていた。
大けがをしたわけではないので、二週間もあれば元気になるのは当然の結果だろうが、ここまで元気になったのは、今も俺の体の中に渦巻いている”気”のせいであるとおもう。
そして、最近ではヒカル爺とも遥さんとも気軽に与太話ができるほどには打ち解けていた。
今では二人をヒカル爺、遥と俺は呼んでいるし、ヒカル爺も遥も俺のことを小僧とかお前さんとか空と呼び捨てにしている。
「だいぶ上手くなってきたね。空」
「うん、遥のおかげだよ」
「でも、まだまだかなり漏れてるから頑張らないとね」
「仰せのままに、遥大先生。でも、漏れてるってなんかエロい」
「もうっ、からかわないでっ、空のスケベッ!」
俺は今、山小屋の裏手で遥に”気”の扱いの手ほどきを受けている。
”気”については、ヒカル爺にその概略を教えてもらっていた。
それは大気中や地中、生物に満ちている存在であり、有機物には”気”をため込む性質があるらしい。
無機物、例えばガラスとか金属は”気”をためることができないが、金属には”気”をよく通す性質があるのだとか。
さらに、”気”と対極の関係にある”妖気”なるものが存在していて、”妖気”にも”気”と似た性質があるが、”気”が守る力であるのに対して、”妖気”は破壊する力らしい。
しかし、”気”を使って物を壊すこともできるので、俺にはその違いが良く分からなかったが、ヒカル爺曰く、”気”は善であり、”妖気”は悪だと覚えておけばいいそうだ。
「それにしてもつくづく思うわ。空のそのバカげた”気”の量は何なの?」
「そんなに多い?」
「多いってもんじゃないわよ。わたしの十倍以上、量も強さもね。わたしもお爺さんも多い方なんだから」
「うーん、そう言われても俺には実感が無いから分からないよ。遥もヒカル爺も全然体の外に”気”を出してないから」
「わたしたちも少しは出てるんだよ。早く、それが感じられるようにならないとね」
ようやく自分の”気”を感じとれるようになった俺には、僅かしか漏れ出ていないという遥のそれを感じ取るなど出来ようはずがなかった。
けれども、自分の”気”を感じ取れるようになっただけでも、今の俺には嬉しいことだった。
そして今、俺は”気”を使って薪を割る特訓をしている。
太さ十五センチほどの乾燥した薪を両手で持ち上げ、手のひらから”気”を薪に流し込んで二つに引き裂く。
”気”の扱いに慣れた遥は、指で薪に触れた瞬間に、綺麗に四等分してしまうほどだから、俺との差は歴然だった。
どうして”気”を使って薪を割っているのかと言えば、働かざるもの食うべからずということで、訓練と遥の手伝いを両立しているのだ。
しかし、両立しているとはいっても、遥がやれば五分で終わる仕事を、二時間以上かけてやっているのだから、両立とは言えないかもしれない。
しかも、遥は俺の訓練につき合ってくれているわけで、はっきり言って仕事の邪魔をしていると言った方がいいだろう。
そんなこんなで、手伝っているのか邪魔をしているのか分からないような状態が、さらに十日ほど過ぎたころ、ようやく俺の体から漏れ出ていた”気”の量が、遥曰く人としてはおかしくない程度には減ったらしい。
しかも、”気”を使って出来るようになったことは、薪を割る程度の事だけではなかった。
信じられないくらい高くジャンプできるようになったし、足も速くなった。
グーパンチで岩が砕けるし、それをやっても痛いとは感じない。
さらに、水汲みやら石運びやら薪となる木の切りだしや切断など、雑用をこなしていくうちになんとなくコツを覚え、今では手を触れることなく物を動かしたりもできるようになったのだ。
もはや、完全にアニメや漫画や小説の世界である。
実に喜ばしいではないか。
はじめて小さな石ころが動いた時など、それはもう嬉しくなって遥に抱きついてしまい、頬にもみじを作ったのは今となってはいい思い出だ。
「だいぶ扱えるようになってきたようじゃの」
「おかげさまで…… うっ、うぇっぷ」
「ほほほっ、誰でも最初はそんなもんじゃ。早う慣れんさい」
狩りから帰ってきたヒカル爺に獣の捌き方を習いながら、俺は特有の匂いや吐き気と戦っていた。
今日ヒカル爺がしとめて来た獣は、体長三メートルはあろうかという大鹿である。
重さにして一トン近くありそうなその大鹿を、ヒカル爺はこともなげに肩に担いできたのだ。
これも”気”のなせる技であり、行き倒れた俺を担ぐことくらい、ヒカル爺にはどれほどのことでもなかったのだろう。
「ふぅ、それにしてもスゴイっすね。こんな大きな鹿が狩れるなんて。俺もだいぶ”気”が扱えるようになってきたから、そろそろ狩りに連れて行ってくださいよ」
「ほーほほほっ、まだまだじゃよ。今の小僧では連れて行けんわ。狩りの時は完全に”気”と気配を消さねばならんからのう」
「まだまだですか……」
「そう、まだまだだよ。でも、今の空だったら魚釣りくらいは出来るんじゃない?」
「ふむ、釣りか…… いいかもしれんのぅ」
ヒカル爺に”気”の扱いがまだまだと言われ、落ち込みかけていた俺に、遥が救いの手を差し伸べてくれた。
しかもそれが魚釣りと聞いて、俺のテンションはすでにMAXだ。
もともと俺はアウトドア生活に憧れがあったのだが、それは憧れがあっただけであって、実際にキャンプや山菜採りなどをした経験は少ない。
鉱物採取によく山に入っていたが、それは日帰りだった。
そんな俺だが、中学生のころまでは父親に連れられて釣りにはよく行ったものだ。
高校生になって釣りに行くことは無くなってしまったが、嫌いになったからではなく、父親が仕事で忙しくなり、俺の方もなんやかやで行けてはいなかっただけなのだ。
モバイル端末と戯れることができない今では、釣りは格好のレクリエーションでだ。
「釣りっ! 行きましょう。すぐ行きましょう」
「まぁまぁ、そう慌てなさんな。今日はもう遅い。それに、捌いた獲物を処理せにゃならん。小僧はその肉を持ってワシについて来い。遥は夕飯の支度を頼む」
やっとのことで捌き終えた鹿肉と毛皮を二人で背負い、保存用の小屋に運び込んだ。
保存用とはいっても、保冷設備などという科学的なものは存在しておらず、ただ風通しが良くて陽が当たらないというだけの小屋だった。
季節は夏真っ盛りの今、そんなところに生肉を保存しておけるのか、と、疑問が湧いたのだが、ヒカル爺曰く、肉が内包している”気”のおかげで腐らずに熟成するそうだ。
そして俺とヒカル爺は、さっさと処理を済ませて井戸へと向かい、軽く水浴びをして汚れと匂いを落とした。
風呂場は別にあるのだが、さすがに風呂場で血で汚れた体を洗うことはしない。
ヒカル爺は決して筋肉ムキムキの肉ダルマではないが、老人とは思えないほどに引き締まった体つきをしていたのが印象的だった。
体を拭いてサッパリした俺たちは、居間で体を休めて夕食が出来上がるのを待った。
今日は久々に大きな獲物がとれたのでご馳走だ。
この山小屋に来て一か月ほどたつが、ヒカル爺が大きな獲物を狩ってきたのは今日で二回目だった。
前回も大鹿だったが、その時に食べさせてもらった料理がことのほか美味かった。
俺は料理が出来上がるのを今か今かと心待ちにしている。
土間の囲炉裏でグツグツと湯気を上げる鍋から、食欲をそそる匂いが漂っていた。
「のう、空よ。遥とはもう、やることやったんか?」
「――!!」
いきなり耳元でそんなことをささやかれた俺は、吹き出しそうになるのを必死にこらえて顔を上気させる。
「そっ、そんなことあるわけないじゃないですか!」
「ちっ、ツマらんのう。ワシが言うのもなんじゃが、アレは良い女じゃよ」
「遥にその気があるかも分からないのに」
「何を悠長なこと言っとるか、この臆病モンが。遥はお前さんを悪うは思うておらんよ。見てて分からんか? 一気に押し倒すくらいでちょうどいいんじゃよ」
小学校低学年の時以来、女の子と手すらつないだことがない純情な俺に、遥を押し倒してモノにするなんてできるわけがない。
確かに遥は美人だし可愛いし、エロい体つきだし、押し倒してあんなことやこんなことをしてみたい欲求はある。
しかしである、俺にそんなことをする度胸はない。
「ごはん炊けたよー」
ホカホカに炊き上がって湯気を上げているご飯が入った木おけを抱え、土間の炊事場から出てきた遥は、俺たち二人に問いかけてきた。
「何ヒソヒソ話してたの?」
キョトンと小首をかしげた遥は、確かに可愛かった。
ヒカル爺から余計なことを言われて、変に彼女を意識していただけに、その可愛らしさに俺は顔が熱くなるのを感じていた。
「何でもないよ。それより、早く夕飯にしよう。美味そうな匂いがしてもう我慢できない」
「はいはい」
夕飯にかこつけ、なんとか誤魔化した俺は、ようやく大鹿のモツ煮込み鍋を堪能したのだった。
翌日、俺はヒカル爺と二人で山中の湖に、早朝から足を運んでいた。
到着した湖はといえば、周囲を濃緑の山に囲まれていて、対岸が微かにしか見えない大きさだった。
青く透き通った水中には、沈んだ木々や湖底の岩石が見えていて、その水深は深かった。
大型の魚も泳いでおり、いやがおうでも気分は盛り上がってくる。
釣果を期待でせずにはいられない。
そんな俺に、ヒカル爺が耳元でボソッとつぶやいた。
「いいか空、お前さんの目標は一匹でもいいから魚を釣り上げることじゃ。まぁ、釣れんでも飯は食わしてやるから安心せい」
釣りには自信があった俺は、ヒカル爺の言った目標がスゴク簡単なことにこのときは思えた。
四メートルほどの細い竹竿に、絹糸をより合わせた糸。
そして竿より一メートルほど長い糸の先には、赤銅色の返しの無い釣り針が結んである。
餌はその辺を掘って捕まえたミミズだ。
人がほとんど入らないこんな山奥で、スレてはいないだろう魚が釣れないわけが無い。
そう思っていた。
事実、ヒカル爺は第一投目で四十センチほどのマスを釣り上げている。
「ホレ、お前さんも早うやらんか」
急かされた俺は、釣り針にミミズをつけ、ヒカル爺から二十メートルほど離れたポイントに釣り糸を垂らした。
そして。
「来た!」
僅か十数秒で来たアタリに、俺は手首のスナップを効かせて合わせを行う。
そして、グイと竿が引き絞られたと思った瞬間。
「アレ!?」
勢いよく引き上げられた竿からは、あっけなく手ごたえが無くなり、俺は地べたに尻餅をついていた。
もちろん魚は釣れておらず、釣り針にエサは残っていない。
そして、釣り針がまっすぐに伸びきってしまっていたのだ。
手応え的には釣り針が伸びきるような引きではなかった。
手のひらサイズの小魚が釣れたときと変わらないような引きを、感じた瞬間には魚がバレていた。
尻餅をついてしまったのも、虚を突かれたような空振り感が強い。
「ヒカル爺! この釣り針不良品だぞ」
ちょうど二匹目を釣り上げていたヒカル爺が、魚を湖につけた網袋に入れてから、よく見てみろと言わんばかりに、仕掛けを見せてくる。
その仕掛けは、俺が使っているものと全く同じものだった。
ためしにと、餌のついていない釣り針を指で摘まんで伸ばしてみると、簡単にまっすぐに伸びてしまったのだから。
「コレッ! 人の仕掛けを勝手にいじるんじゃない」
「なんでこれで釣りあげられるんだ? こんなに大きい魚を……」
見えはしないが、頭の上にたくさんのハテナマークを浮かべている俺に、ヒカル爺が理由を説明してくれた。
この人が『技は目で盗め』とか、ヒントも無しに『自分で考えろ』とか言う人種じゃなくて本当に助かったと、このとき俺は思った。
ヒカル爺曰く、釣り針には竿と糸を通じて”気”を送り込んでいるそうだ。
竹製の竿と絹糸は、繊維が長手方向に揃っており、しかも有機物であるために”気”を通しやすく、溜めることができる。
したがって竿は折れにくくなり、糸は切れにくくなる。
また、釣り針は細い銅の針金の先をとがらせたものであり、竿と糸を通して送り込んだ”気”で硬化させているそうだ。
ただし、釣り針は金属なので、何もしなければ”気を保持することができず、”常に釣り針の形を保つようにコントロールする必要があるということだった。
「だから、釣りがいい訓練になると」
「そういうことじゃよ」