第二話:遭難、そして……
空がシェルターの中で大きな揺れに襲われ、外の異変に衝撃を受けていたころ、富士大公国と呼ばれる新興国の宮殿最奥で、国を治める大公とその家族が無事を確かめあっていた。
「お父様、お母様!」
「おお、無事だったか」
「怪我は無いようですね。よかった」
「太陽たちは?」
「無事です。もう寝ましたよ」
「良かった……」
見目麗しい二十歳前の姫君が、大公夫妻である両親の寝所に駆け込んだ一幕である。
しかし、会話からは親子と思われる姫君と大公夫妻の関係には、一目疑問を抱かざるを得なかった。
それは、姫君にお父様お母様と呼ばれた二人の見た目である。
父親と思われる大公は未だ三十路に突入しているとも思えない容貌であり、その婦人に至ってはまだ二十代半ばかと思われる若さだった。
どう見ても二十歳前の娘がいるようには思えない。
「希美ちゃん、一花、お前たちはもう休みなさい。これから私は家臣たちに指示を出さなければならない」
「いえ、私も部下に指示を出す必要がありますのから」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が森をさまよいはじめて、すでに丸四日が経過していた。
景色は四日前から何も変わっておらず、コケむした巨木の幹と張り巡らされた大きな根で、獣道らしきものさえ確認できない。
頭上高くには鬱蒼と木の葉が覆い、陽の光を見ることもいまだ叶わない。
シェルターに引き返すか返さないか、判断の分岐点は三日目の朝だった。
森の中を歩きはじめて丸二日が経過した三日目の早朝、俺は引き返さないことを決断していた。
切り詰めてきた食料の残りは二日分。
このままシェルターに戻れたとしてもそこで食料が尽き、生きていく手立てが無くなってしまう。
残りの二日で食料を確保することに賭けた俺は、森の中をさまよい続けた。
しかし、五日目になっても一向に景色は変化を見せず、危機的状況に俺は立たされている。
四日間と少しのあいだ森の中を歩き続け、何も収穫が無かったわけではない。
それは、朽ちた動物の骨や、虫の死骸を幾度となく目にしていたからだ。
植物以外の生物が生息していることは確かだった。
しかも、ある程度の大きさの動物がこの森には生息している。
ならば、近くに水場があるはずだ。
水場があれば食料や飲み水が確保できる可能性が高い。
その可能性を糧に、俺は歩き続けていた。
しかし、既に食料は尽き、水ももうない。
疲労で思うように足が進まなくなってきている。
けれども、歩みを止めることはできない。
何としても水場を見つけなければ。
その思いで俺は歩き続けていた。
そして、歩き続ける間、とある疑問を俺は抱いていた。
それは、生きている虫や動物を一度も見かけていないということだった。
鳴き声さえも聞いていない。
動物の骨や虫の死骸は何度も見かけているにもかかわらずだ。
どう考えてもおかしい、おかしすぎる。
そして、さらにもう一つの疑問が生じていた。
顔や手足に負った擦り傷や切り傷が、一晩眠ると跡形もなく消えているのだ。
これはこれで有り難いことなのだが、その理由が分からない。
異世界に転移した恩恵か……
そんなあり得ないことを考えながらも歩き続けた五日目が終わり、六日目の朝が来た。
俺は、木の幹や根に密集しているコケを集め、それを絞って水滴を口に含ませる。
そしてそれを何度も繰り返した。
腹を下すとか病気になるかも、などとは気にする余裕がない。
とにかく歩いて水場を探さなければ。
その思いで俺は立ち上がり、再び歩きはじめる。
幸いなことに、五日目の終わりころから森の中は巨木の密度が薄くなって、広葉樹が混ざりはじめた。
いまだに生きている動物や虫は見かけないが、森の終わりが近いのかもしれない。
そう考えて俺は歩き続けた。
それでもその日は、水場も食べられそうなものも見つけることはできなかった。
そして迎えた七日目。
とうとう俺は歩くことすら出来なくなってしまった。
「畜生! なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ……」
森の中で崩れ落ちるように倒れた俺は、空腹と喉の渇き、そして極限にまで達した疲労感で意識を手放した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――ちゃん、お爺ちゃん。気がついたみたいだよ」
若い女の声だった。
もうろうとした意識の上からでもはっきりと分かる、甲高くて心地よい声だ。
気がつけば、俺は薄暗い部屋の板張りの上に寝かされていた。
そして顔を横に向けると、一段下の土間には囲炉裏のように石に囲まれたところに鍋がかけられ、なにやら食欲をそそる匂いが漂っている。
ガラスも何もない木窓からは星空が覗き、首だけを回して反対側を見れば、少し離れたところから興味深げに俺を覗き込む少女と、板張りにあぐらをかいている老人が目に入った。
「……水、水を」
やっとの思いで声を絞り出した俺に、少しして少女が一杯の水を差しだす。
しかし、少女がさし出す茶碗に向けて伸ばした俺の右手は、届くことなくそのまま床に崩れ落ちた。
もういちど腕を伸ばそうとするが力が入らない。
「飲ませてやりなさい」
「うん」
老人に促された少女は、恐る恐る俺の横に両膝を付けて座ると、頭を右手で起こして水の入った厚手の茶碗を口に近づけてくれた。
そして、俺は成されるがままにその水を飲み干していた。
「まだ飲まれますか?」
「おねがい…… します」
もう一杯の水を飲ませてもらった俺は、少し時間を置いて鍋からすくったスープも飲ませてもらった。
そのスープはみそ味で、トン汁のような味がしたが、あまりの空腹に胃が受付けなかったのか、少ししか飲むことができなかった。
しばらくして、横たわったままだったが、ようやく喉の渇きと極限の空腹から解放された俺に、老人が話しかけてきた。
「落ち着いたようじゃな。坊主、話すことはできるか?」
「……はい」
「いきなりじゃが、お前さん、どこから来なさった」
「……その前にすこし良いですか?」
「ああ、構わんよ」
「俺はどうしてここにいるんですか? 貴方が俺を運んでくれたのですか?」
「お前さんは森の中で行き倒れとった。それをワシが見つけてここまで運んだ…… ということになるがのう。見たところ丸腰だったが、そんな軽装でなぜ森で行き倒れた? そしてどこから来たんじゃ?」
「まずはお礼を言わせてください。助けて下さってありがとうございます。そして、俺がどこから来たかというのは少し答えにくいんですが、俺が倒れていた森のずっと奥の方、コケが生えた大きな木が密集している森です」
「なんとまぁ、あの原始の森から来なさったか。しかし、あそこに人は住めんよ」
ここまで話して、ある違和感に気がついた。
俺は日本語を話している。
そして、老人と少女が話した言葉も日本語だった。
口の動きも発音と同調している。
ということは、ここは日本なのか?
しかし、老人と少女の恰好はどう見ても現代の日本人ではなかった。
二人の見た目はどう見ても日本人なのだが……
異世界転移に巻き込まれたのではなくて、過去にタイムスリップでもしたのだろうか?
「……つかぬ事を伺いますが、ここは日本ですよね?」
「お前さんは何をいっとる? たしかにここは日本と呼ばれとったらしいが」
「らしい?」
「ここが日本と呼ばれとったのは遥か昔の神話の時代じゃ。ここは富士の国。大公様が治める富士大公国の山奥じゃよ」
「…………」
ここまで老人の話を聞いて、俺はとある可能性に行きあたった。
それは、陽一さんが話していたシェルターの仕様である。
俺が入っていたシェルターは脱出が不可能になった場合、時間を停止して救助を待つ仕様になっていると陽一さんは言っていた。
時間を止める技術が開発されたなんて聞いたこともなかったので、てっきり冗談だと思っていたが……
もし本当だとすれば、ここは俺が暮らしていた日本の遥か未来なのか?
しかし、二人の恰好はどう見ても昭和の前半か、それ以前だ…… 服の見た目に違和感はあるが。
「ふむ…… お前さんは日本のどのあたりに住んどったんじゃ?」
「……愛知県の豊田市ですが」
「豊田か、あそこは確か鉱山だったはずじゃが…… お前さんが抗夫だとは考えにくいのう。その綺麗な手はツルハシはおろか剣も持ったことが無かろう」
豊田市が鉱山?
ありえない、豊田市は自動車の街だぞ。
しかし、老人が言うように今が日本の遥か未来だとしたら……
分からないことだらけで考えることを放棄してしまいたくなるが、聞けることは聞いておきたい。
そう考えた俺は、老人の質問に答えながらも、この時代のことを聞いていった。
老人の名前は鴻ノ江ヒカルといって、猟師らしい。
イメージと名前がまったく合っていないが、若いころは女と間違えられるほどの美少年だったというのが、彼の言い分である。
そして、少女は鴻ノ江遥といって、健康的な黒髪の美少女だった。
「――ところで、どうして俺は獣を見かけなかったんでしょうか?」
「まぁ、お前さんが神話の時代から迷い込んだ人間なら、分からんかもしれんが、お前さんが今も垂れ流しとる”気”が原因じゃろうな」
「キ?」
ヒカル爺曰く、”気”とは生きとし生ける物全てがもっているモノらしい。
人間の場合、普段は抑え込んで表にはそう多く流れ出てくることはないが、コントロールの効かない赤子は今の俺のように”気”を垂れ流しているそうだ。
俺の場合、その垂れ流している”気”の量が桁違いに多いらしい。
そして、獣や虫などは俺の”気”を警戒して、近づかなかったのだろうということだった。
「あ、あの、空さんはお幾つなんですか?」
ヒカル爺さんとの話が一段落したとき、興味深そうに歳を聞いてきた遥さんに、俺はどう答えようか迷った。
ここが遥か未来の日本だとすれば、本当の俺の年齢が分からないからである。
千年を超えているのだろうか?
もしかしたら一万年以上かもしれない。
しかし、止まっていた時間はカウントしなくていいよな、と、シェルターに入ったときの年齢を答えることにした。
「十八になります」
「……ずいぶん大人びてるんですね。てっきり四十歳くらいだと思ってました」
「…………」
このとき俺は、嫌な汗が肌を伝わるのを感じていた。
四十歳? シェルターの中でそんなに老けてしまったのか……
「あの、鏡を貸してもらえませんか」
「鏡ですか?」
遥さんは不思議そうにそう言って、奥に行き、小さな手鏡を俺に渡してくれた。
まだ上手く腕を上げることはできなかったが、俺は震える手で手鏡を顔の前に持ち上げ、自分の顔を見た。
そして、そこにはげっそりと頬がコケてはいるが、今までと変わらない若さの俺の顔が映っていたのである。
そうなると、遥さんはどうして俺を四十歳だと思ったのだろう?
「あの、俺ってそんなに老けて見えますか?」
「えっ? 全然老けては見えませんよ」
何かが間違っている気がする。
会話が行き違いになっている。
十八と言った俺が遥さんには四十に見えて、それでも老けていないという。
そして、大人びているという言い方は、まだ下の毛も生えていない少年少女に使われる言葉じゃないだろうか。
だとすれば……
「あの、気を悪くしたらゴメン。遥さんはお幾つなんですか?」
「わたしはぴっちぴちの三十二歳ですよ」
三十二歳が”ぴっちぴち”である。
聞かなくなって久しい表現だが、時代が違えばおかしくはないのだろう。
それはいいとして、遥さんの外見はどう見ても十六、七だ。
それが三十二でぴっちぴちなのだから、俺の常識が間違っているのだろう…… この時代では。
その考えが正しいなら。
「あの、すみません。ヒカルさんはお幾つなんでしょうか」
「ん? ワシの齢か? たしか…… 今年で二百六十じゃったかのう」
二百六十歳!
これで謎が解けた。
この時代の人の寿命は、俺より何倍も長いのだ。
そうとしか考えられない。
そして、これだけの状況を突きつけられた俺は、ここが少なくとも今の日本、というか、俺が高三だったころの日本ではないことを受け入れることができた。
おそらく、というか間違いなくここは遥か未来の日本なのだ。
そうとなれば、一番気になるのはヒカル爺さんが言った”気”の存在だ。
どこぞの格闘漫画のように気功波だとか、空を飛んだりとかできるのだろうか?
あるいは、西洋ファンタジーのような魔法が使えるのだろうか?
ヒカル爺さん曰く、俺が無意識に垂れ流している”気”の量は、桁違いに多いらしいから、どこぞの転生チートみたいな無双ができるのかもしれない。
などなど、妄想を膨らましていたが、上体を起こすことすらできないほどに体力を失っている俺を気遣ってだろう、この日はこれ以上の話をせずに休みなさいと言われてしまった。
そして、今日はこの家に泊まらせてもらえることになった。
ヒカル爺さんたちからすれば、いくら弱っているからとはいえ、素性の知れない俺のような男を、無条件で泊めてくれるのはありがたかった。
今まで寝かされていた場所に柔らかい毛皮の寝床を用意してもらい、その上で俺は眠りについたのだった。