005 過去+追憶=腕の中
私は幼い頃に不慮の事故で両親を亡くし、また、色々な理由から親戚の間を盥回しにされてきた。
そうした中で大人たちの無理矢理に取り繕った上辺に触れた。同じ年頃の子がいれば、扱いの差による虐げを受けた。それでもそれらに縋らなければ生きていけない無力さに、何度打ちのめされたことか。
あの頃はいつも暗い顔をしていた気がする。
しかも、そういったことに敏感な子供たちは、私を徹底的に排斥した。そんな私に友達ができるはずもなく、いつも一人だった。
――彼と出会った日も、私は近所の土手にランドセルを抱え一人で座っていた。
(かえりたい……)
何度となく繰り返してきた言葉を、飽きることもなくまた呟いて私はランドセルに顔を埋めた。目を閉じれば浮かんでくる幸せだった頃の記憶……父がいて、母がいる。狭くても、ボロくても、そこが私の帰る場所だった。
だけど――二度と帰れない。その事実が余計に恋しくさせた。
はぁーっとランドセルに息を吐きつければ、赤い表面が一瞬だけ白く曇って、スッと元の色味に戻る。そんな意味のない行動を何度も何度も何度も…………。
「なに、してるの?」
突然、掛けられた声に私は飛び上がらんばかりに驚いた。抱えていたランドセルを取り落としそうになりながら振り返れば、自分と同じ年頃ぐらいの男の子がサッカーボールを片手にこちらを覗き込んでいて――。
男の子の澄んだ瞳に映った自分のひどい顔に、いたたまれなくなって私は視線を逸らした。
「……なにも、してない」
拒絶するように再びランドセルに顔を埋めれば、「ふ〜ん」といいながら隣に男の子が腰を下ろす気配がする。それから向けられる視線も。居心地が悪くなって顔を上げれば、その間もこっちを見やる男の子と視線がかち合う。
「ぼく、ゆうきしゅういちっていうんだ」
にこりと笑う男の子に私はどんな反応を返せばいいのかわからず、抱えるランドセルに力を込めたまま見返せば「きみは?」と問われた。
「……ちさ」
期待に満ちた瞳に促され小さく答えれば、彼はにこにこと頬を緩ませて言う。
「じゃあ、ちーちゃんだね!」
それが、私と彼――結城修一の出会いだった。
その日から私と彼は気付けばいつも一緒にいた。他の子供たちのように駆け回ったりするわけでもなく、ただ同じ空間を共有し、他愛のない話をポツリポツリと交わす……それだけのことに私は救われた。
あの時は運も良かったのか、盥回しにされていた私にしては珍しく長い間その土地に留まることがでたのも幸いした。
彼と過ごすうちに孤独を癒された私は、笑顔をも浮かべられるようになった。やはり、暗く沈んだ顔より笑顔の方が良かったのだろう。笑うことで、私を敬遠していた人たちとの距離もわずかではあったが縮まった。
――そうして少しずつ、少しずつ私を取り巻く環境は向上していった。
「ちーちゃんがさびしくて、さびしくて、たまらないって顔、してたから」
初めて私に手を差し伸べてくれた彼はそう言って笑う。いつもとは違う悲しげで、寂しげな笑みで。
「ぼくも、弟と会えなくなった時、とても悲しくて、さびしかったから」
彼の言う『会えない』が、私と同じなのだと気が付いて、衝動的に彼の手を握り締めた。
「わたしがいるよ、ずっーと一緒に」
「……うん、ぼくもちーちゃんのそばにずっといる……ずっと一緒」
私たちはそんな約束とも呼べない言葉を交わして。繋いだ指先が、伝わる温もりが消えることなどないと根拠なく信じていた――。
「……引っ越すことになったんだ」
その瞬間までは。
……危うい均衡だったのだと、それが崩れた刹那に悟らされた。
どうしようもないことがあると、知っているはずなのに、私は溢れてくる涙と言葉を止めることができない。彼を責めてもなんにもならないのに、詰らずにはいられなくて。
「しゅうちゃんのバカっ!! ずっと、ずーっと一緒にいてくれるってゆったじゃないっ!!」
「ごめんね、ごめんねっ! でもぼく、絶対おっきくなってちーちゃん迎えにいくから、約束する」
もしかしたら、私の方だったかもしれないのに――そんな可能性すら棚に上げて。
「そんなの信じられないっ!! しゅうちゃんのバカっ、嘘吐きっ!!」
「それでも、ぼく、迎えにいくから。絶対――!」
彼の声を背に受けながら私は駆け出した。
次の日から彼の姿を見ることなく、ほどなくして私も違う親戚に引き取られることになり、多くの思い出が残る土地を後にした。それと同時に記憶に蓋をして。
******
「しゅうちゃん……なの……?」
一瞬に満たない追憶から帰ってきた私は、戸惑った声を上げてしまう。そんな風に問いかけずとも、目の前の彼が『結城修一』以外なわけがないと、私は確信しているのに。
……その証拠に、心よりずっと深いその場所が歓喜に震えているのだから。
「……うん、迎えに来たんだ…………ちーちゃんを」
泣きそうに歪んだ顔で彼は笑う。そうして恐る恐るといった風に伸ばされた腕の中に、私は迷わず飛び込んだ。
どうして彼を信じたかったのか、なにか事情があったのだと思いたかったのか、なぜ、こんなにも惹かれていたのか、それが今、やっとわかった。
「……遅い……遅すぎ!」
彼の胸へ顔を埋めれば、腕は私の背に回り、離さないというようにきつく抱き締められる。
「だって、ちーちゃん、俺に全然気付いてくれないから――俺のことなんて、思い出したくもない記憶だったのかもって……」
「……違う! 違うよ……しゅうちゃんと離れて過ごすんなんて考えられなくて……」
だから私は記憶に蓋をした。悲しみに囚われすぎては、笑顔を失くしてしまうと思ったから。せっかく取り戻した笑顔を失くすようなことになったら、彼と過ごした日々まで否定してしまうような気がして…………なんて都合良く自分を誤摩化した。
……彼を信じて待ち続ける勇気のなかった私は、そんな風に自身を欺いたのだ。
「……信じられないなんて言って、嘘吐きだなんて言って、ごめんなさい……」
そう告げた途端、更に強く彼の腕が背に食い込み、同時に左肩に加わる重みと耳元をくすぐる長く深い吐息。そして――。
「…………よかった」
小さな、小さな、呟きだったけれど、私は確かに彼の声を聞き取った。