第4章
東武病院へは家から自転車を全速力で走らせれば15分くらいで着ける場所にあった。
俺は病院に着くと、自転車を駐輪場に停め、205号室を目指した。
「失礼します」
ノックをして205と書いてあるドアを開けると、そこには40代くらいの女の人がベッドの横にある椅子に腰掛けていた。
そしてそのベッドには、人工呼吸器をつけた金髪の少女が横たわっていた。
ベッドの脇に置いてある生体情報モニタがピッピッと少女の心臓の鼓動と合わせて電子音を鳴らしている。
「折原……」
顔にも包帯が巻かれていてわかりにくかったが、それは折原澪だ。
幽霊になって現れたんだからてっきり死んでしまったのかと――
「まだなんとか生きているのよ」
ベッドの横に立って呆然としていると、部屋にいた女の人が声をかけてくれる。
「折原……澪さんのお母様ですか?」
「そうよ。あなたが金子彰さん?」
そう言って折原母は手元にあったかばんから携帯電話を取り出した。
「あなたのよね?」
「はい、ありがとうございます。どうしてこれを?」
俺は差し出されたそれを受け取りながら聞いた。
「現場検証の立ち会いをしたときに近くで見つけて、娘と同じくらいの年頃の子が1人目撃者にいると聞いたからこっそり拾っておいたのよ」
そう言って彼女はベッドで眠り続けている折原に顔を向けた。
「それに、少し話がしたくて……こうでもしないと話を聞いてくれる人がいないのよ」
乾いた笑みを浮べているその顔は、部屋に来たばかりの頃の娘のそれにそっくりだった。
俺は軽く息を吐き、折原母の隣にもう1つ椅子を持ってきて腰掛けた。
「いいですよ。話、聞かせてください」
「澪はね、身内は私しかいないのよ」
「え?」
「私も旦那も兄弟はいなかったし、澪の祖父母、私の両親と旦那の両親はもう病気でみんな他界してて、旦那も先月事故で……」
「そうだったんですか」
俺はいたたまれない気持ちになって折原母から目をそらしてしまう。
彼女は構わず話を続けた。
「でね、澪って髪の毛金色じゃない? あれ、地毛なのよ」
驚いた。てっきり染めていたのかと思っていたからだ。
「旦那さん、外国人だったんですか?」
「いえ、違うわ」
彼女は首を振った。
「私も旦那も日本生まれ、ハーフでも何でもないのよ」
「そういうことってあるんですね」
「ええ、そしてその髪の毛のせいで澪は学校ではイジメられていたのよ。あんまりよくない子が多い中学校だったのよ」
俺は折原の髪の毛に目をやる。
蛍光灯の光を浴びて輝いているその毛は、彼女を苦しめるものでしかなかったと思うと、苦々しい気分になった。
折原母は彼女の髪の毛を撫でて眉をひそめた。
「そのうち、澪は学校に行かなくなっちゃって……1回黒く染めてあげたんだけど、それでもイジメはおさまらなくて」
今にも折原母の目からは水滴がこぼれ落ちそうだった。
「一応受験はして高校には合格したんだけど、そこでもまたイジメられて……」
「髪の毛は染めさせたんですか?」
「ええ、でもその高校には中学が同じだった子がたくさんいたのよ」
ひどい話だ。所詮イジメられっ子はそれ以上にはなれないということなのか。
「それからかしら、部屋にこもりっきりになったのは。部屋から出てくることはほとんどなくなって私とも顔を合わせることはほとんどなかったわ。食事は私が部屋のドアの前に置いてあげていたけれど顔は見せてくれなかったし」
俺は言葉も出なかった。今俺の部屋にいる折原とは印象が違いすぎた。いや、まあ確かに少し大人しめな性格だとは思ったが、まさかここまでひどかったとは。
「でも、なんでそんな澪さんがわざわざ外に出てこんなことに?」
ひきこもっていたにもかかわらずわざわざ外に出てビルから飛び降りるなんて変だ。死にたかったなら部屋で首を吊るなりリストカットするなりとあったはずだ、と少し不謹慎なことを考えていると、折原母がゆっくりと口を開いた。
「きっと澪は、私に飛び降りるのを止めて欲しかったんです」
「……と、言いますと?」
彼女はそこで濡れた目を服の袖で拭った。
「あの日の夕方、澪から電話が来たのよ。今から飛び降りるかもってね」
「それで、何て答えたんですか?」
折原母はフッと天井を見つめた。
「私、その時仕事中で忙しくて……馬鹿な事言ってないで学校行きなさい、って言っちゃったのよ」
「そしたら本気だった、と」
彼女はため息をついた。
「そう、本当あの時の自分を恨むわ。それに……」
そう言って彼女は窓の外に視線を移す。
俺もつられて窓の外に目をやる。
「あの現場、パトカー停まっていたでしょ?」
「はい」
そう言われればそうだ。あの人達は何をしていたのだろうか。とてもパトロール中には見えなかったが。
「あれ、澪が呼んだのよ、救急車も」
「え!?」
「あの子の携帯に発信履歴が残ってたの。110番と119番」
折原はパトカーの上に落下した。だがそのパトカーは偶然あったのではなく折原自身が呼んだ。それに救護がタイミングよく来るように救急車も――
「まさか、死なないように飛び降りた?」
「警察の人はそう言ってたわ」
俺はためらいながらに尋ねてみた。
「あの、娘さんは回復するんですか?」
「それが……」
そう言って彼女は目を伏せた。
「命に別状はなくてもう意識を取り戻してもいいらしいんだけど、全然」
俺の頭に今自分の部屋にいる折原の幽霊の姿が浮かぶ。
もしかして天国行きの便に”乗り遅れた”んじゃなくて”乗れなかった”んじゃないか? まだ生きているから……。
そして、折原は自分が死んでしまったと思い込んでいる?
病室に静寂が流れる。
生体情報モニタだけが規則正しく電子音を鳴らし続けていた。
「金子くん、今日はありがとう。話を聞いてくれて」
「いえ、こちらこそ携帯電話ありがとうございました。じゃあ俺、そろそろ失礼します」
俺はそう言って立ち上がり、頭を下げた。
「またよかったら来てあげて。澪も喜ぶと思うわ」
折原母はそう言ってにっこり笑った。
だがその目には、キラリと光る雫があった。
俺はそれ以上この場にいることは出来ず、彼女に背を向け病室を後にした。
外に出ると、すっかり日が暮れて電灯が煌々と輝いていた。
帰り道を自転車で走る。
俺はその途中にある銀行に寄り、少しばかりお金をおろした。
「これだけあれば十分か」
そうポツリと呟き、再び自転車で走り始めた。
そして家の前にたどり着いて自転車を止めると、携帯電話を取り出し、昨日メールをくれていた高校の友達に電話をかけた。
「あ、もしもし?」
『おう、バンド出る気になった?』
「いや、出ないし。それよりまだあの彼女と付き合ってんの?」
『ああ、この前言った子とはもう別れちゃったわ。でもまた新しい子とラブラブだから心配すんな!』
言い方だけで相手がニヤニヤしているのが伝わってきそうだ。
電話のスピーカー越しに下品な笑い声が聞こえてくる。
構わず話を振った。
「……ちょっと相談したいことがあるんだけど」
『へぇ、彰が相談なんて珍しいな。何よ、言ってみ?』
「実はさ――」
これは明日のために必要なんだ、と自分に言い聞かせ、その後延々と続いた憎たらしい言い回しに懸命に堪えた。
翌朝、俺は携帯電話のアラーム音で目を覚ました。昨日の夜にこの時間に鳴るようにセットしてから寝たのだ。
カーテンの隙間から朝日が差し込んできている。
「折原ー?」
俺は床から身を起こし、家主を差し置きベッドに寝ていたはずの幽霊に呼びかける。
今日は昨日のように俺より先に起きていたわけではなく、ベッドの上で猫のように丸くなって寝ていた。
彼女の方をがっちり掴んでゆさゆさと揺すってみる。
「ん……なんですか……」
折原は寝ぼけ眼をゴシゴシとこすりながら俺の手を振り払って起き上がった。
「出掛けるぞ」
「行ってらっしゃい」
彼女は即答し、再びごろりとベッドの上で横になった。
「おい……」
とっさに彼女の手を掴んで起き上がらせる。
「折原も一緒に行くんだよ」
「いいですよ、私は。元々引きこもりですからこうやって1日中――」
「話を聞け」
またしても眠りだそうとする彼女を俺は再び力づくで起き上がらせた。
そしてその目をしっかりと見る。
「目立ちたいんだろ? とっておきの場所があるんだ」