第1章
「帰ったらレポートが5つ、来週はテストが7教科……気が滅入るな」
そうつぶやいた途端、目の前の信号が赤から青に変わる。
俺は深くため息をつきながら自転車で歩道をゆっくり走りだす。ここから自宅のアパートまで20分も自転車で走らなければいけないことを考えると、更に気が滅入った。
辺りはもうすっかり暗くなっており、通行人はまばら。車もそうそう通らないために静かだった。
「明日レポートも勉強もまとめて終わらせてしまうか」
通っている大学まで片道1時間半。満員電車に詰め込まれて帰ってきた身としては明日の休みはゆっくりと寝て過ごしたかったが――
ふと、ポケットに入っている携帯電話が振動しているのに気付いた。
俺はペダルを漕ぎ続けたまま、右手をハンドルから離し、そのままポケットの中に突っ込んで携帯電話を取り出す。
「メールか……」
俺は前方に気をつけながら携帯電話を開き、メールの受信ボックスを見る。高校の頃の友人からだった。
『また一緒にバンドやらない? お前が歌ってくれないと調子出ないんだよねー。返信待ってる』
「もうやらないって言ったろうが……」
画面から目を離し、前をちらりと見るとパトカーが停まっているのが見えた。サイレンは鳴っておらず、赤色灯も点滅していない。警官2人がパトカーから降りて周りをきょろきょろと見回していた。
俺はメールを閉じ、携帯をポケットにしまう。
そのまま車道の隅に停めてあるパトカーの横を通り過ぎようとしたその時。
近くから女性の悲鳴が聞こえてきた。
何事かと自転車を止めて振り返ってみると、後ろを歩いていた女性がちょうど俺がいる左側にある5階建てのビルの上のほうを見て口をあんぐりと開けていた。
俺もつられて上を見上げる。
どこからか漏れた光が落ちてきている物体を照らしている。
空中でバサバサとなびく何かはその光を浴びて綺麗な金色に輝いていた。
「女……の子……?」
そう、金髪で高校の制服を着た少女がまさに目の前に落下してきていたのだった。
俺は唖然となって何も考えられなくなってその場に立ち尽くした。
彼女はガラスが砕け散る音やスチール板を強打した時の鈍い音をたて、盛大に俺のすぐ近く、パトカーの上に落下した。
「金子彰、18歳、と……大学生?」
「あ、はい」
ついさっき、落ちてきた少女を乗せた救急車が発車していった。誰が呼んだのかしらないが、少女が飛び降りたまさにその時、救急車がサイレンを鳴らしてやってきたのだ。
そして俺は今、事故の目撃者として現場で警官から事情聴取を受けているというわけだ。
「どこの大学行ってるの?」
「えっと、東京文化大学です」
目の前に立つ40代くらいの警官が質問して、俺が答えた内容をもう1人の20代後半くらいの警官が手元のメモに書いていく。
辺りはすっかり静まり返り、通る人といえばサイレンの音を聞いてやってきた野次馬くらいだった。
少女が落下してきた周辺は黄色いテープで封鎖され、大破したパトカーはそのままになっている。もちろん、ビルは立ち入り禁止になっている。
「ありがとう、もう行っていいよ。遅いから気を付けて帰るんだよ」
ついさっき見たことをひと通り話し終わった俺は、警官2人から解放された。
「あの……」
俺は立ち去ろうとする警官に声をかけた。これを聞いておかなければ寝れる気がしない。
「さっきの女の子は、どうなったんですか……?」
恐る恐る尋ねる。
「ああ、あの子ならうまく車の上に落ちたおかげでとりあえずは一命を取り留めたみたいだよ」
「とりあえず、とは?」
20代の警官が少し渋い顔をして答えたのでつい聞き返してしまった。
「かなり激しく損傷してたからこれからどうなるかわからないってことさ」
40代の警官がしゃがれた声で答えてくれた。
「そうですか……」
でもとりあえず生きている、ということで少しホッとする。
俺はこれ以上その場にいる気になれず、自転車にまたがり家への道を走りだした。
帰宅した俺は荷物を床に放り出すと、ベッドに身を投げ出した。
疲れきっていた上に飛び降り自殺未遂なんてものを見てしまったので精神が参っていた。
目を閉じるたび、さっき見た光景がフラッシュバックする。
彼女は恐怖に打ちのめされたような表情をしていたな、なんて思いだして背筋がゾワゾワした。
目撃した瞬間は何も感じられなかったが、こうやって冷静に思い出してみると、身も凍るような恐怖に襲われた。
「もう寝るか」
今夜は眠れないかもしれない……なんて思いながらも電気を消した。もちろん、怖いので常夜灯はつけたまま。
「……」
何分経っただろう。
全然寝れない。
1人暮らしで家に他に誰もいないため心細い。こういう時は実家暮らしを羨ましく思う。
目を閉じるたび、さっきの光景がよみがえってしまうので、目を開けたままにしているが、そうすると常夜灯がついていて明るくて寝れない。
疲れているにもかかわらず眠気すらやってこないのだ。
目はギンギンに冴えている。
「トイレ……」
急に尿意をもよおしたのでトイレに行こうとベッドから出てトイレに向かおうとした。
――が。
後ろに何か気配を感じる……気がする。
背中を冷たい汗が流れる。
怖くて振り向くことができす、その場に固まる。
どうしよう。振り返るべきか、それとも無視してトイレに――
ペタリ。
頬に触れる冷たく、柔らかい感触。
「ひぃっ!」
俺は情けなく声を上げ、その場に崩れ落ちた。
股間のあたりが熱く、湿っていくのを感じる。
だがそんなことはどうでもいいくらいパニックに陥っていた。
俺は必死でその場を逃げ出そうとした。
「え……ごめん、あの――」
弱々しい少女の声が後ろから聞こえてきた。
そこで逃げればよかったものを、俺は衝動的に振り返ってしまった。
そこには、少し長めの美しく金色に輝く髪の毛を垂らしたついさっきビルから飛び降りていた、今は病院にいるはずの制服姿の少女が立っていた。
「驚かしたなら謝ります。ごめんなさい……」
少女はとても申し訳なさそうに頭をペコッと下げた。
とても白い肌、輝く髪の毛、透き通った水色の瞳を見て、俺は彼女に見入ってしまった。
高校の制服がとても良く似合っている。清楚ってかんじだ。
スカートも適度に長くて足もキュッと引き締まっていて白くて――
だが、足元に視線を移して後悔した。俺はそれを見てしまった。
「ぎゃあああああ!」
叫ばざるを得なかった。
そう、彼女は立っていなかった。
宙に浮いていたのだ。