私の引退通知を取り消してください。求婚のお返事はそれからです
「結婚したら暇でしょう」
マルセルさんは、そう言って私の作業台に毛の袋を置いた。
暇。お嫁入りをすると、朝から晩まで椅子に座って窓を数える生き物になるのだろうか。三日目には窓辺を毛で埋めている自信があるけれど。
「この一袋だけ、前みたいに選ってくれないか。君なら昼までに済むよ」
口の開いた袋から、短い毛が覗いていた。長い毛に混ぜると、紡ぐ途中で手が止まる。目についた一本へ指を伸ばしかけ、私は自分の膝に戻した。いけない。もう退職したのに、指だけがまだ勤めている。
「今日は、こちらの工房の仕事があります」
「だから結婚してからでいいんだ。家でじっとしているのも退屈だろうし」
隣のクロード様が、私の手元へ目を落とした。
「休む場所は用意しているよ。日当たりのいい部屋に、肘掛けのある椅子を。食事も、君が手を止めればすぐ出せるようにする」
子爵家の椅子は、きっと肘を置いたくらいでは軋まない。座面も柔らかい。そこで昼食。パンを握ったまま立ち上がらなくていい昼食。それには大変、心が動く。
私が袋の向きを直すと、マルセルさんが頷いた。
「ほら、この毛だ。以前も食べる間に片づけてくれたじゃないか」
「食べる間ではなく、食べる前です。片づいたら、食事の時間が終わっていました」
あの日、卓に残っていたのは私の皿を伏せた跡だけだった。いま目の前にある袋も、同じくらい膨らんでいる。
クロード様の指が椅子の背をつかんだ。
「だから、これからは私が——」
「クロード様。結婚のお返事は、まだしていません」
椅子を引こうとした手が止まる。
「マルセルさん。手伝いのお返事も、していません」
私は袋の口を結び、差し出した。
二人とも受け取らないので、もう少し腕を伸ばす。私の明日は相談済みらしいのに、この一袋を誰が持ち帰るかは決まっていないらしかった。
* * *
「屋敷で少し見てもらうだけ」
二日後、マルセルさんは紡ぎ車の調整と、糸三種の確認を持ってきた。袋一つが、とうとう車輪を獲得した。次は工房ごと走ってくるのでは。
「車は明日、運ばせるよ。糸はそのあとに」
「私、引き受けていません。運ぶ手配は止めてください」
「場所がないのかい」
どうしてそこで場所の話になる。
「仕事を頼むなら、内容と納期を私に尋ねてください」
「机なら、長いものを用意できる」
クロード様が両手を広げた。
「窓二つ分ほどの。君が毛を広げても、端が余るよ」
窓二つ分。
白い毛を右へ。灰色を左へ。長いもの、短いもの、撚りを変えて試したいもの。籠を床に積まずに済む。客間にも一台あれば、選り終えた毛を移せる。廊下には棚。階段の踊り場で糸を乾かして、広間には紡ぎ車を並べよう。舞踏会? 車輪ならいくらでも回ります!
私の想像の中で、子爵家の客人たちが毛籠を抱えて壁際へ寄った。
「その机の使い方は、私が決めていいんですか」
「もちろん。ただ、注文に追われるような使い方は——」
「調整は端のほうで十分ですよ。奥様の手慰みに、少しだけ」
マルセルさんがクロード様へ笑いかける。私の壮大な毛選り場は、勝手に付け足された小さな仕事机へ縮んだ。
「私の仕事の相談はこちらへ。そもそも、どうして私が注文を受けないことになっているんですか」
「引退の挨拶はもう届けたからね。お客には、うちで引き継ぐと。お屋敷へ細々した注文が来ても困るだろう」
膝の上の手をほどいた。
「誰の名前で出したんですか」
マルセルさんの目が、私を通り越す。
クロード様は広げた両手を下ろした。
「マルセルと、私の名で。私も署名した」
「結婚するとも、引退するとも、私が言う前に?」
「……そうだ」
長い机に置くはずだった毛が、頭の中から一房残らず落ちた。
* * *
「その車、もう止めるの?」
「はい。ここで撚りを確かめたいので」
引き出した糸を少し緩めると、端がくるりと戻った。指先で撚りを逃がして、次に送り出す毛の量を変える。これ。このくらいなら、欲しかった柔らかさが残る。
もう一度踏みたい。さっきよりよくなると分かっている一踏みは、なかなか人を放してくれない。
新しい工房では、自分の受け持ちの毛を選び、試しに紡いでから作業の順を決めていた。今日は車の座りも少し直した。椅子を寄せるたびに膝で逃げる道具と交渉しなくて済む。よし、明日は最初から気持ちよく回せる。
作業台の端に、蓋付きの器が置かれた。
「それなら、いま食べられる?」
クロード様が蓋を取る。湯気の向こうに、匙で崩せるほど煮えた野菜があった。パンも切ってある。片手でちぎれなくて諦めた日の私まで、どこかで見ていたのだろうか。
「いただきます。器の下に、こちらを敷いてください」
私が空けた場所へ、彼は布ごと器を寄せた。糸には触れない。それを見てから匙を取った。
「髪に毛がついている。取ってもいい?」
「お願いします。後ろにもあると思います」
指が耳の後ろをかすめ、細い毛をつまみ取った。引っ張らないよう、もう片方の手で髪を押さえてくれる。そんなに丁寧にされると、食べている最中の顔をどちらへ向ければいいのか困る。
どうぞ、という顔で正面を向くのもおかしい。かといって横を向くと近い。匙に集中。野菜は大変よく煮えております!
「取れたよ。指は痛まない?」
「今日は大丈夫です」
「前は、夜になっても赤かった」
髪から離れた手が、器の横で止まった。
「君を働かせたくなかった」
私は匙を置いた。彼の目が、止まった紡ぎ車と、私が揃えた毛の間を往復する。
「……君の好きな仕事まで、やめさせようとしたんだな。休めるようにしたつもりで」
「休むのは好きですよ。食事も、髪の毛を取っていただくのも」
頬がまだ熱い。そこまで否定するほど、私は正しくできていない。
「でも、明日のこの糸も楽しみにしています」
クロード様は椅子へ腰を下ろした。私の隣に座る前に、一度、距離を確かめるように脚を引いた。
「すまなかった。求婚したとき、君が嬉しそうにしてくれたから、あとは準備をすればいいと。返事を急がせないと言いながら、その返事を飛び越した」
仕事中の私に求婚しておいて、結婚後の私からは仕事を取り上げる。そこだけ器用に外されても困るのだ。糸と私を一緒に見て、好きだと言ってくれたのに。
「これからは君に聞く。通知のことも、私が悪かった」
「それを聞いたのは、いまのところ私だけです」
彼の口が閉じた。
「お客様のところでは、私はまだ引退しています。ここでお仕事を続けていても、注文する相手から外れたままです」
「私から知らせよう。君が働き続けると」
「前の通知を取り消すと、署名したお二人から伝えてください。新しい予定を代わりに発表するのではなく」
彼は膝の上へ手を揃えた。
「誰へ届けたか、マルセルに確かめる。訂正を書くのも、届けるのも私がする」
「受け取った方全員に、次の相談へ来ていただけるようお願いしてください。引き取った注文をどうするかも、その席で」
「注文は、彼の工房のことでは」
「結婚した私が手伝う予定で残ったら、またこの話をしますよ」
器の湯気が細くなっていた。私は匙を取り、ひと口食べた。温かいものを温かいうちに食べるために、明日の仕事まで差し出したくはない。
「私の引退通知を取り消してください。求婚のお返事はそれからです。注文の処理も、済んでから」
クロード様はしばらく器を見て、それから私に頷いた。
「分かった。君の返事をもらうために、君へ片づけさせるわけにはいかない」
帰り際、彼は私の肩へ掛けようと外套を持ち上げた。
「冷えない?」
「いまは暑いです」
外套が、彼の腕に戻った。
翌日届けられた相談の日時の知らせには、通知を受け取った注文主三人全員が来るとあった。クロード様自身が三人を訪ね、都合を合わせたという。私はその時刻を、自分の仕事の予定の間に書き込んだ。
* * *
「奥様に助けていただければ」
マルセルさんは、私の向かいに座ったクロード様へ頭を下げた。
相談の卓には、もう三人のお客様が着いている。私もいる。筆記用具まで出している。なのに、仕事の話は私の頭上を通って子爵子息のところへ到着した。
「細い糸を揃えるのがどうにも遅れておりまして。ほんの数日、こちらを見ていただくだけで追いつくんです。クロード様からお願いしていただければ、リディアも」
「誰の奥様ですか」
マルセルさんが顔を上げる。
「いや、これからの話だよ。お祝い事に細かいことを——」
「私は、クロード様の求婚にお返事をしていません。私の仕事の相談はこちらへ」
持ち込まれた包みを開く手が止まった。口から覗くのは、まだ選り終えていない毛だった。三度目は、糸にする前の仕事から丸ごと来たらしい。
私は包みに触れず、持参をお願いした通知を待った。
「お持ちいただいた通知を、見せていただけますか」
最初に、急ぎの細糸を頼んでいた注文主が紙を出した。次に見本用の糸を頼んだ注文主。最後に、織り糸の注文主が折り目を伸ばす。
三枚とも、同じ挨拶が書かれていた。
リディアは結婚のため紡ぎ手を引退する。今後の注文は旧工房で引き継ぐ。末尾にはマルセルさんの署名と、クロード様の署名。
私の名前のある一行だけが、私抜きでできている。
「私は、これを読んで依頼先を変えました」
見本の注文主が言った。
「リディアさんに毛を選んでもらって、糸を試すつもりでした。引退なら仕方がないと。続けていらしたのですか」
「はい。こちらへ移って、自分の担当の仕事をしています」
「では、こちらへ頼むかどうかも、尋ねられたのですね」
私は頷いた。注文主は通知を私へ押しつけず、署名した二人の前へ向け直した。
「どなたが引退と決めたのですか」
マルセルさんの手が、通知の角を撫でた。
「リディアは退職すると言いましたし、クロード様からお話もありましたので。ご結婚なら、お客様へのご挨拶も整えたほうがよかろうと。こちらのお名前があれば、皆様にも安心していただけますし」
「私の何を引き継いだんですか」
「それは、注文を。君に来ていたものを、そのまま断るわけにもいかないからね」
「その注文を仕上げる人は?」
「うちでやるさ。ただ、君しか分からない加減もあるだろう。そこだけ教えてくれれば、あとは」
織り糸の注文主が、持ち込まれた包みを見た。
「その毛を選るのも、そこだけに入りますか」
「最初を揃えてもらえれば早いものですから。賃仕事というほどではなく、お手の空いた折に」
クロード様へ、また顔が向く。
「お屋敷なら食事の心配もありませんし、無理のない範囲でお願いできると」
「私が引き受けなければ、納期に間に合わないのですね」
返事がなかったので、私は待った。以前なら、この間に袋を開けていた。今日はその数呼吸まで、私のものだ。
「……間に合わないものが、あります」
急ぎの注文主が、自分の注文書を通知の隣へ置いた。
「私の細糸ですね。あと三日です。最初に、それを聞きたかった」
マルセルさんの指が通知から離れた。
「ご迷惑をおかけします。ただ、結婚に伴う行き違いでして」
「何と何が行き違ったんですか」
私は紙の署名を指した。
「私が伝えたのは退職です。引退と書いたのは、マルセルさんですね」
「そこは、言葉が足りなかったかもしれないね」
「足りなかった言葉を、いまお客様へお願いします」
彼は唇を湿らせたが、続きはクロード様を見てからにした。字の大きい署名のほうから、都合のいい一行が足されるのを待っている。
クロード様が背を伸ばした。
「私は、結婚の準備のつもりで署名しました。彼女には働き詰めの生活を終えてもらいたくて、注文を断る負担も私が引き受ければいいと思った。求婚した際の様子から、いずれ承知してくれるものと——」
「結婚の準備だったことは伺いました。私が承知していたかを、お客様に答えてください」
指先から、力を抜いた。これを私が代わりに言ってしまっては、また私一人が知っている話になる。
クロード様は私を見た。私は三人のお客様のほうへ目を向けた。
彼も向き直った。
「求婚への承諾は、もらっていません。引退についても、本人に確かめていませんでした。私が、そう決まったこととして署名しました」
「婚約者として保証されたのでは、ないのですね」
急ぎの注文主の問いに、彼は頷いた。
「はい。その立場にはありません。この通知を受けて依頼先を変えた皆様に、誤った前提を渡しました。申し訳ありません」
頭が下がる。隣でマルセルさんが、わずかに身を乗り出した。
「ですから私も、お二人の間ではもうお話が——」
「私が先走りました。彼女の返事まで作ったことにしないでください」
クロード様の声は低かった。
「私の思い込みは、彼女が承諾した証拠になりません。あなたも、リディアから引退すると聞いてはいないはずです」
マルセルさんは肘を引いた。いままで私へ回ってきていた話の続きが、彼の前に残った。
「聞いて、いません」
「では、何を聞きましたか」
私が尋ねると、今度は私を見た。
「退職する、と。別の工房で働くことも、聞いていた」
見本の注文主が、通知の上に置いていた指を引いた。
「それを書いてください。手元に残る説明を、正しいものに替えていただきたいです」
クロード様が、持参した紙を出した。三人それぞれへ渡す分と、二人が控えとして持つ分。紙も筆記具も彼が揃え、通知を見比べている。
「以前の挨拶を撤回する。それから——」
「結婚を延期する、とは書かないでください」
私が告げると、ペン先が宙で止まった。
「まだ決まっていませんから」
「……そうだね」
彼は新しい紙へ、最初の一行を書いた。書き終わってから読み上げる。
「『先に連名でお送りした、リディアの結婚による引退の通知を撤回します。求婚にも引退にも本人の承諾はなく、私クロードが、確認せず署名しました』」
マルセルさんの前へ紙が移る。
「続けてください」
彼はペンを持ち、しばらく指の間で回した。
「退職と、引退を……」
「取り違えたのですか。さっき、転職先も聞いていたとおっしゃいましたね」
織り糸の注文主が言うと、ペンが止まった。
マルセルさんは書き始めた。クロード様のように滑らかには進まない。けれど進む。ここのために待つ時間なら、私も惜しくない。
「『リディアが行ったのは私の工房の退職と、別の工房への転職です。私マルセルが、それを引退と記し、彼女の承諾なく注文を引き取りました』。これで」
私は紙をこちらへ回してもらった。
「今後の注文も、お二人を通すことになっています。その部分も取り消してください」
通知の中ほどを押さえる。
クロード様が追記した。
「『私たちは、今後リディアの名で通知や約束を出しません。彼女への依頼は本人に確認してください』」
「旧注文のほうは、今日、ここで選び直せますね」
急ぎの注文主が念を押す。
マルセルさんは、持ってきた包みを自分の椅子へ引き寄せた。
「はい。私が受けた注文として、ご相談します。リディアの手伝いは含めません」
その一文も加わった。二人が署名する。クロード様は残る紙へ同じ内容を書き写し、マルセルさんは一通ずつ読み、自分の名前を入れた。署名だけは人任せにできないので、彼の手は最後まで卓を離れなかった。
そのあとでクロード様は、持参された三枚の通知をそれぞれ自分の前へ引き寄せた。自分の署名の横へ、本人の承諾なく出した通知であり、本日撤回したと書き添える。マルセルさんも、その横へ訂正を認める署名をした。
クロード様が、訂正文と元の通知を一人ずつに手渡した。見本の注文主は、二枚を並べて確かめた。
「受け取りました。これなら、依頼先を変えた理由も、変え直す理由も分かります」
織り糸の注文主は、新しいほうを上にして折り畳む。急ぎの注文主は両方を自分の注文書へ重ねた。クロード様が三人の手元を確かめ、筆を置く。
私の引退が、三人の鞄から出ていった。
よし。私のいないところで出来上がった立派な隠居生活、まずは解体です。
「では、私の注文は取り消します」
急ぎの注文主が、前金の受領書を出した。
「三日後の細糸六枷は、いまのお話では仕上がりませんね」
「ほかの作業を止めれば、あるいは——」
「仕上がると、お約束できますか」
マルセルさんの手が、毛の包みへ落ちた。
「できません。取り消しをお受けします」
腰の金入れが卓へ置かれる。口紐をほどいたあと、一度、指が止まった。
「クロード様、こちらはひとまず……」
クロード様の両手は、自分の膝にあった。財布を出す手にはならない。
注文主が受領書を、マルセルさんの正面へ押した。
「前金をお渡ししたのは、あなたです」
「はい。私から、お返しします」
銀貨が六枚、彼の金入れから出た。注文主は一枚ずつ数え、自分の財布へ入れたあと、全額返還を受けて注文を取り消した旨を書き、署名した。
マルセルさんがその紙を受け取った。代わりに私へ毛の袋を渡す余地は、どこにもなかった。
「私も、見本の分を取り消します」
二人目が受領書を出す。
「このまま工房へお願いするか、リディアさんへ改めて相談するか、最初から選びたかったので」
「試し紡ぎだけなら、まだ」
「その判断も含めて、依頼先を選びます。前金二枚をお返しください」
今度はクロード様を見なかった。マルセルさん自身が銀貨を取り出し、受領書と金額を照合する。二人目の注文主も返金を確かめ、取り消しの紙に署名した。
金入れが、薄くなったまま彼の手に戻る。
残る注文主は、織り糸の注文書を開いた。
「私は、条件が合えば残します。敷物に使う分なので、細さは変えられます。あなたご自身が作れるのは、どの糸ですか」
マルセルさんは、持参した糸から太い一束を出した。
「この太さなら。八枷を、二十日後でしたら、私が毛選りから仕上げまでできます」
「ほかの職人に、急に空きを作らせる予定ですか」
「いえ。私の受け持ちを組み直します。これから受ける仕事を減らします」
注文主は糸を指に掛け、引いて太さを確かめた。
「これで八枷。二十日後。代金は、この太さで受けている額へ直してください。前金との差額は、納品時に払います」
マルセルさんは帳面で金額を確かめ、注文書の納期と糸の条件を書き直した。値が下がるところで息を吐いたが、消し戻しはしなかった。
「この条件で、私が引き受けます」
二人が訂正箇所へ署名し、前金を受け取っている額も確かめる。注文主は控えを受け取った。旧工房に残る仕事は、その一件になった。
卓のこちらへ、新しい紙が一枚差し出された。
「では、あなたにお願いできる仕事を教えてください」
見本の注文主が、私に尋ねた。
「毛選りと、試し糸の撚りの調整なら。いまお持ちの毛を見て、量と納期を決めたいです」
差し出された見本を、指先で開く。短い毛の混ざり方を確かめるあいだ、誰も私の代わりに納期を答えなかった。
「二枷でしたら、四日後に。毛選りは明日の午後からできます」
「お願いします。同じ柔らかさで、撚りを二通り試したいのです」
「では、その条件を書きます」
「私の六枷も、お願いできませんか」
急ぎの注文主が身を寄せた。
「申し訳ありません。三日後には間に合いません」
「一部だけでも」
予定帳を開く。明日の午前には、すでに引き受けた糸がある。空いている午後は、いま決めた見本のために使う。
「その納期では、お受けできません」
マルセルさんの口が少し開いた。けれど、注文主は私を見ていた。私は、空きを作るとも夜に回すとも言わなかった。
「分かりました。では、ほかを当たります。今日はっきりしてよかった」
先ほど返った銀貨の入った財布を、注文主がしまう。
見本の注文主と、仕事の内容、代金、四日後の受け渡しを書面にした。私が署名し、相手にも確認してもらう。控えを渡して、自分の分を手に取った。
この一枚のための午後を、私は明日、持っている。
長い机には、まだ少し心が残っている。毛籠の並ぶ広間にも。でも、窓際の私の席へ置くには、この注文書一枚で十分だった。
立ち上がって、紡ぎ車の横へ紙を置いた。端を、明日使う毛の見本で押さえる。
戻ると、マルセルさんが毛の包みを両腕で抱え直していた。糸の束も自分の鞄へしまう。頼みごとの続きは出てこない。クロード様も立ったが、私へ伸ばしかけた手を途中で下ろした。
「リディア」
「はい」
「次に、君と話せる時間を尋ねてもいいだろうか」
私は予定帳を閉じずに、彼を見た。
二人とも、待っている。
ああ、ようやく。私の明日に、私より先に座っている人がいなくなった。
「明日の午前は、いまの糸を仕上げます。午後は、こちらの毛選りです」
注文書の置いてある、自分の席を指す。
「その仕事が終わったら、もう一度、求婚を聞かせてください」
クロード様の指が動いた。今度は何も準備の名を挙げず、開きかけた口を結んでから、頷いた。
私は予定帳の、仕事の下に空いたところへペン先を置いた。
「お茶なら、そのあとに」




