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私の引退通知を取り消してください。求婚のお返事はそれからです

作者: 花房 ゆり
掲載日:2026/09/11

「結婚したら暇でしょう」


 マルセルさんは、そう言って私の作業台に毛の袋を置いた。


 暇。お嫁入りをすると、朝から晩まで椅子に座って窓を数える生き物になるのだろうか。三日目には窓辺を毛で埋めている自信があるけれど。


「この一袋だけ、前みたいに選ってくれないか。君なら昼までに済むよ」


 口の開いた袋から、短い毛が覗いていた。長い毛に混ぜると、紡ぐ途中で手が止まる。目についた一本へ指を伸ばしかけ、私は自分の膝に戻した。いけない。もう退職したのに、指だけがまだ勤めている。


「今日は、こちらの工房の仕事があります」


「だから結婚してからでいいんだ。家でじっとしているのも退屈だろうし」


 隣のクロード様が、私の手元へ目を落とした。


「休む場所は用意しているよ。日当たりのいい部屋に、肘掛けのある椅子を。食事も、君が手を止めればすぐ出せるようにする」


 子爵家の椅子は、きっと肘を置いたくらいでは軋まない。座面も柔らかい。そこで昼食。パンを握ったまま立ち上がらなくていい昼食。それには大変、心が動く。


 私が袋の向きを直すと、マルセルさんが頷いた。


「ほら、この毛だ。以前も食べる間に片づけてくれたじゃないか」


「食べる間ではなく、食べる前です。片づいたら、食事の時間が終わっていました」


 あの日、卓に残っていたのは私の皿を伏せた跡だけだった。いま目の前にある袋も、同じくらい膨らんでいる。


 クロード様の指が椅子の背をつかんだ。


「だから、これからは私が——」


「クロード様。結婚のお返事は、まだしていません」


 椅子を引こうとした手が止まる。


「マルセルさん。手伝いのお返事も、していません」


 私は袋の口を結び、差し出した。


 二人とも受け取らないので、もう少し腕を伸ばす。私の明日は相談済みらしいのに、この一袋を誰が持ち帰るかは決まっていないらしかった。


    *    *    *


「屋敷で少し見てもらうだけ」


 二日後、マルセルさんは紡ぎ車の調整と、糸三種の確認を持ってきた。袋一つが、とうとう車輪を獲得した。次は工房ごと走ってくるのでは。


「車は明日、運ばせるよ。糸はそのあとに」


「私、引き受けていません。運ぶ手配は止めてください」


「場所がないのかい」


 どうしてそこで場所の話になる。


「仕事を頼むなら、内容と納期を私に尋ねてください」


「机なら、長いものを用意できる」


 クロード様が両手を広げた。


「窓二つ分ほどの。君が毛を広げても、端が余るよ」


 窓二つ分。


 白い毛を右へ。灰色を左へ。長いもの、短いもの、撚りを変えて試したいもの。籠を床に積まずに済む。客間にも一台あれば、選り終えた毛を移せる。廊下には棚。階段の踊り場で糸を乾かして、広間には紡ぎ車を並べよう。舞踏会? 車輪ならいくらでも回ります!


 私の想像の中で、子爵家の客人たちが毛籠を抱えて壁際へ寄った。


「その机の使い方は、私が決めていいんですか」


「もちろん。ただ、注文に追われるような使い方は——」


「調整は端のほうで十分ですよ。奥様の手慰みに、少しだけ」


 マルセルさんがクロード様へ笑いかける。私の壮大な毛選り場は、勝手に付け足された小さな仕事机へ縮んだ。


「私の仕事の相談はこちらへ。そもそも、どうして私が注文を受けないことになっているんですか」


「引退の挨拶はもう届けたからね。お客には、うちで引き継ぐと。お屋敷へ細々した注文が来ても困るだろう」


 膝の上の手をほどいた。


「誰の名前で出したんですか」


 マルセルさんの目が、私を通り越す。


 クロード様は広げた両手を下ろした。


「マルセルと、私の名で。私も署名した」


「結婚するとも、引退するとも、私が言う前に?」


「……そうだ」


 長い机に置くはずだった毛が、頭の中から一房残らず落ちた。


    *    *    *


「その車、もう止めるの?」


「はい。ここで撚りを確かめたいので」


 引き出した糸を少し緩めると、端がくるりと戻った。指先で撚りを逃がして、次に送り出す毛の量を変える。これ。このくらいなら、欲しかった柔らかさが残る。


 もう一度踏みたい。さっきよりよくなると分かっている一踏みは、なかなか人を放してくれない。


 新しい工房では、自分の受け持ちの毛を選び、試しに紡いでから作業の順を決めていた。今日は車の座りも少し直した。椅子を寄せるたびに膝で逃げる道具と交渉しなくて済む。よし、明日は最初から気持ちよく回せる。


 作業台の端に、蓋付きの器が置かれた。


「それなら、いま食べられる?」


 クロード様が蓋を取る。湯気の向こうに、匙で崩せるほど煮えた野菜があった。パンも切ってある。片手でちぎれなくて諦めた日の私まで、どこかで見ていたのだろうか。


「いただきます。器の下に、こちらを敷いてください」


 私が空けた場所へ、彼は布ごと器を寄せた。糸には触れない。それを見てから匙を取った。


「髪に毛がついている。取ってもいい?」


「お願いします。後ろにもあると思います」


 指が耳の後ろをかすめ、細い毛をつまみ取った。引っ張らないよう、もう片方の手で髪を押さえてくれる。そんなに丁寧にされると、食べている最中の顔をどちらへ向ければいいのか困る。


 どうぞ、という顔で正面を向くのもおかしい。かといって横を向くと近い。匙に集中。野菜は大変よく煮えております!


「取れたよ。指は痛まない?」


「今日は大丈夫です」


「前は、夜になっても赤かった」


 髪から離れた手が、器の横で止まった。


「君を働かせたくなかった」


 私は匙を置いた。彼の目が、止まった紡ぎ車と、私が揃えた毛の間を往復する。


「……君の好きな仕事まで、やめさせようとしたんだな。休めるようにしたつもりで」


「休むのは好きですよ。食事も、髪の毛を取っていただくのも」


 頬がまだ熱い。そこまで否定するほど、私は正しくできていない。


「でも、明日のこの糸も楽しみにしています」


 クロード様は椅子へ腰を下ろした。私の隣に座る前に、一度、距離を確かめるように脚を引いた。


「すまなかった。求婚したとき、君が嬉しそうにしてくれたから、あとは準備をすればいいと。返事を急がせないと言いながら、その返事を飛び越した」


 仕事中の私に求婚しておいて、結婚後の私からは仕事を取り上げる。そこだけ器用に外されても困るのだ。糸と私を一緒に見て、好きだと言ってくれたのに。


「これからは君に聞く。通知のことも、私が悪かった」


「それを聞いたのは、いまのところ私だけです」


 彼の口が閉じた。


「お客様のところでは、私はまだ引退しています。ここでお仕事を続けていても、注文する相手から外れたままです」


「私から知らせよう。君が働き続けると」


「前の通知を取り消すと、署名したお二人から伝えてください。新しい予定を代わりに発表するのではなく」


 彼は膝の上へ手を揃えた。


「誰へ届けたか、マルセルに確かめる。訂正を書くのも、届けるのも私がする」


「受け取った方全員に、次の相談へ来ていただけるようお願いしてください。引き取った注文をどうするかも、その席で」


「注文は、彼の工房のことでは」


「結婚した私が手伝う予定で残ったら、またこの話をしますよ」


 器の湯気が細くなっていた。私は匙を取り、ひと口食べた。温かいものを温かいうちに食べるために、明日の仕事まで差し出したくはない。


「私の引退通知を取り消してください。求婚のお返事はそれからです。注文の処理も、済んでから」


 クロード様はしばらく器を見て、それから私に頷いた。


「分かった。君の返事をもらうために、君へ片づけさせるわけにはいかない」


 帰り際、彼は私の肩へ掛けようと外套を持ち上げた。


「冷えない?」


「いまは暑いです」


 外套が、彼の腕に戻った。


 翌日届けられた相談の日時の知らせには、通知を受け取った注文主三人全員が来るとあった。クロード様自身が三人を訪ね、都合を合わせたという。私はその時刻を、自分の仕事の予定の間に書き込んだ。


    *    *    *


「奥様に助けていただければ」


 マルセルさんは、私の向かいに座ったクロード様へ頭を下げた。


 相談の卓には、もう三人のお客様が着いている。私もいる。筆記用具まで出している。なのに、仕事の話は私の頭上を通って子爵子息のところへ到着した。


「細い糸を揃えるのがどうにも遅れておりまして。ほんの数日、こちらを見ていただくだけで追いつくんです。クロード様からお願いしていただければ、リディアも」


「誰の奥様ですか」


 マルセルさんが顔を上げる。


「いや、これからの話だよ。お祝い事に細かいことを——」


「私は、クロード様の求婚にお返事をしていません。私の仕事の相談はこちらへ」


 持ち込まれた包みを開く手が止まった。口から覗くのは、まだ選り終えていない毛だった。三度目は、糸にする前の仕事から丸ごと来たらしい。


 私は包みに触れず、持参をお願いした通知を待った。


「お持ちいただいた通知を、見せていただけますか」


 最初に、急ぎの細糸を頼んでいた注文主が紙を出した。次に見本用の糸を頼んだ注文主。最後に、織り糸の注文主が折り目を伸ばす。


 三枚とも、同じ挨拶が書かれていた。


 リディアは結婚のため紡ぎ手を引退する。今後の注文は旧工房で引き継ぐ。末尾にはマルセルさんの署名と、クロード様の署名。


 私の名前のある一行だけが、私抜きでできている。


「私は、これを読んで依頼先を変えました」


 見本の注文主が言った。


「リディアさんに毛を選んでもらって、糸を試すつもりでした。引退なら仕方がないと。続けていらしたのですか」


「はい。こちらへ移って、自分の担当の仕事をしています」


「では、こちらへ頼むかどうかも、尋ねられたのですね」


 私は頷いた。注文主は通知を私へ押しつけず、署名した二人の前へ向け直した。


「どなたが引退と決めたのですか」


 マルセルさんの手が、通知の角を撫でた。


「リディアは退職すると言いましたし、クロード様からお話もありましたので。ご結婚なら、お客様へのご挨拶も整えたほうがよかろうと。こちらのお名前があれば、皆様にも安心していただけますし」


「私の何を引き継いだんですか」


「それは、注文を。君に来ていたものを、そのまま断るわけにもいかないからね」


「その注文を仕上げる人は?」


「うちでやるさ。ただ、君しか分からない加減もあるだろう。そこだけ教えてくれれば、あとは」


 織り糸の注文主が、持ち込まれた包みを見た。


「その毛を選るのも、そこだけに入りますか」


「最初を揃えてもらえれば早いものですから。賃仕事というほどではなく、お手の空いた折に」


 クロード様へ、また顔が向く。


「お屋敷なら食事の心配もありませんし、無理のない範囲でお願いできると」


「私が引き受けなければ、納期に間に合わないのですね」


 返事がなかったので、私は待った。以前なら、この間に袋を開けていた。今日はその数呼吸まで、私のものだ。


「……間に合わないものが、あります」


 急ぎの注文主が、自分の注文書を通知の隣へ置いた。


「私の細糸ですね。あと三日です。最初に、それを聞きたかった」


 マルセルさんの指が通知から離れた。


「ご迷惑をおかけします。ただ、結婚に伴う行き違いでして」


「何と何が行き違ったんですか」


 私は紙の署名を指した。


「私が伝えたのは退職です。引退と書いたのは、マルセルさんですね」


「そこは、言葉が足りなかったかもしれないね」


「足りなかった言葉を、いまお客様へお願いします」


 彼は唇を湿らせたが、続きはクロード様を見てからにした。字の大きい署名のほうから、都合のいい一行が足されるのを待っている。


 クロード様が背を伸ばした。


「私は、結婚の準備のつもりで署名しました。彼女には働き詰めの生活を終えてもらいたくて、注文を断る負担も私が引き受ければいいと思った。求婚した際の様子から、いずれ承知してくれるものと——」


「結婚の準備だったことは伺いました。私が承知していたかを、お客様に答えてください」


 指先から、力を抜いた。これを私が代わりに言ってしまっては、また私一人が知っている話になる。


 クロード様は私を見た。私は三人のお客様のほうへ目を向けた。


 彼も向き直った。


「求婚への承諾は、もらっていません。引退についても、本人に確かめていませんでした。私が、そう決まったこととして署名しました」


「婚約者として保証されたのでは、ないのですね」


 急ぎの注文主の問いに、彼は頷いた。


「はい。その立場にはありません。この通知を受けて依頼先を変えた皆様に、誤った前提を渡しました。申し訳ありません」


 頭が下がる。隣でマルセルさんが、わずかに身を乗り出した。


「ですから私も、お二人の間ではもうお話が——」


「私が先走りました。彼女の返事まで作ったことにしないでください」


 クロード様の声は低かった。


「私の思い込みは、彼女が承諾した証拠になりません。あなたも、リディアから引退すると聞いてはいないはずです」


 マルセルさんは肘を引いた。いままで私へ回ってきていた話の続きが、彼の前に残った。


「聞いて、いません」


「では、何を聞きましたか」


 私が尋ねると、今度は私を見た。


「退職する、と。別の工房で働くことも、聞いていた」


 見本の注文主が、通知の上に置いていた指を引いた。


「それを書いてください。手元に残る説明を、正しいものに替えていただきたいです」


 クロード様が、持参した紙を出した。三人それぞれへ渡す分と、二人が控えとして持つ分。紙も筆記具も彼が揃え、通知を見比べている。


「以前の挨拶を撤回する。それから——」


「結婚を延期する、とは書かないでください」


 私が告げると、ペン先が宙で止まった。


「まだ決まっていませんから」


「……そうだね」


 彼は新しい紙へ、最初の一行を書いた。書き終わってから読み上げる。


「『先に連名でお送りした、リディアの結婚による引退の通知を撤回します。求婚にも引退にも本人の承諾はなく、私クロードが、確認せず署名しました』」


 マルセルさんの前へ紙が移る。


「続けてください」


 彼はペンを持ち、しばらく指の間で回した。


「退職と、引退を……」


「取り違えたのですか。さっき、転職先も聞いていたとおっしゃいましたね」


 織り糸の注文主が言うと、ペンが止まった。


 マルセルさんは書き始めた。クロード様のように滑らかには進まない。けれど進む。ここのために待つ時間なら、私も惜しくない。


「『リディアが行ったのは私の工房の退職と、別の工房への転職です。私マルセルが、それを引退と記し、彼女の承諾なく注文を引き取りました』。これで」


 私は紙をこちらへ回してもらった。


「今後の注文も、お二人を通すことになっています。その部分も取り消してください」


 通知の中ほどを押さえる。


 クロード様が追記した。


「『私たちは、今後リディアの名で通知や約束を出しません。彼女への依頼は本人に確認してください』」


「旧注文のほうは、今日、ここで選び直せますね」


 急ぎの注文主が念を押す。


 マルセルさんは、持ってきた包みを自分の椅子へ引き寄せた。


「はい。私が受けた注文として、ご相談します。リディアの手伝いは含めません」


 その一文も加わった。二人が署名する。クロード様は残る紙へ同じ内容を書き写し、マルセルさんは一通ずつ読み、自分の名前を入れた。署名だけは人任せにできないので、彼の手は最後まで卓を離れなかった。


 そのあとでクロード様は、持参された三枚の通知をそれぞれ自分の前へ引き寄せた。自分の署名の横へ、本人の承諾なく出した通知であり、本日撤回したと書き添える。マルセルさんも、その横へ訂正を認める署名をした。


 クロード様が、訂正文と元の通知を一人ずつに手渡した。見本の注文主は、二枚を並べて確かめた。


「受け取りました。これなら、依頼先を変えた理由も、変え直す理由も分かります」


 織り糸の注文主は、新しいほうを上にして折り畳む。急ぎの注文主は両方を自分の注文書へ重ねた。クロード様が三人の手元を確かめ、筆を置く。


 私の引退が、三人の鞄から出ていった。


 よし。私のいないところで出来上がった立派な隠居生活、まずは解体です。


「では、私の注文は取り消します」


 急ぎの注文主が、前金の受領書を出した。


「三日後の細糸六枷は、いまのお話では仕上がりませんね」


「ほかの作業を止めれば、あるいは——」


「仕上がると、お約束できますか」


 マルセルさんの手が、毛の包みへ落ちた。


「できません。取り消しをお受けします」


 腰の金入れが卓へ置かれる。口紐をほどいたあと、一度、指が止まった。


「クロード様、こちらはひとまず……」


 クロード様の両手は、自分の膝にあった。財布を出す手にはならない。


 注文主が受領書を、マルセルさんの正面へ押した。


「前金をお渡ししたのは、あなたです」


「はい。私から、お返しします」


 銀貨が六枚、彼の金入れから出た。注文主は一枚ずつ数え、自分の財布へ入れたあと、全額返還を受けて注文を取り消した旨を書き、署名した。


 マルセルさんがその紙を受け取った。代わりに私へ毛の袋を渡す余地は、どこにもなかった。


「私も、見本の分を取り消します」


 二人目が受領書を出す。


「このまま工房へお願いするか、リディアさんへ改めて相談するか、最初から選びたかったので」


「試し紡ぎだけなら、まだ」


「その判断も含めて、依頼先を選びます。前金二枚をお返しください」


 今度はクロード様を見なかった。マルセルさん自身が銀貨を取り出し、受領書と金額を照合する。二人目の注文主も返金を確かめ、取り消しの紙に署名した。


 金入れが、薄くなったまま彼の手に戻る。


 残る注文主は、織り糸の注文書を開いた。


「私は、条件が合えば残します。敷物に使う分なので、細さは変えられます。あなたご自身が作れるのは、どの糸ですか」


 マルセルさんは、持参した糸から太い一束を出した。


「この太さなら。八枷を、二十日後でしたら、私が毛選りから仕上げまでできます」


「ほかの職人に、急に空きを作らせる予定ですか」


「いえ。私の受け持ちを組み直します。これから受ける仕事を減らします」


 注文主は糸を指に掛け、引いて太さを確かめた。


「これで八枷。二十日後。代金は、この太さで受けている額へ直してください。前金との差額は、納品時に払います」


 マルセルさんは帳面で金額を確かめ、注文書の納期と糸の条件を書き直した。値が下がるところで息を吐いたが、消し戻しはしなかった。


「この条件で、私が引き受けます」


 二人が訂正箇所へ署名し、前金を受け取っている額も確かめる。注文主は控えを受け取った。旧工房に残る仕事は、その一件になった。


 卓のこちらへ、新しい紙が一枚差し出された。


「では、あなたにお願いできる仕事を教えてください」


 見本の注文主が、私に尋ねた。


「毛選りと、試し糸の撚りの調整なら。いまお持ちの毛を見て、量と納期を決めたいです」


 差し出された見本を、指先で開く。短い毛の混ざり方を確かめるあいだ、誰も私の代わりに納期を答えなかった。


「二枷でしたら、四日後に。毛選りは明日の午後からできます」


「お願いします。同じ柔らかさで、撚りを二通り試したいのです」


「では、その条件を書きます」


「私の六枷も、お願いできませんか」


 急ぎの注文主が身を寄せた。


「申し訳ありません。三日後には間に合いません」


「一部だけでも」


 予定帳を開く。明日の午前には、すでに引き受けた糸がある。空いている午後は、いま決めた見本のために使う。


「その納期では、お受けできません」


 マルセルさんの口が少し開いた。けれど、注文主は私を見ていた。私は、空きを作るとも夜に回すとも言わなかった。


「分かりました。では、ほかを当たります。今日はっきりしてよかった」


 先ほど返った銀貨の入った財布を、注文主がしまう。


 見本の注文主と、仕事の内容、代金、四日後の受け渡しを書面にした。私が署名し、相手にも確認してもらう。控えを渡して、自分の分を手に取った。


 この一枚のための午後を、私は明日、持っている。


 長い机には、まだ少し心が残っている。毛籠の並ぶ広間にも。でも、窓際の私の席へ置くには、この注文書一枚で十分だった。


 立ち上がって、紡ぎ車の横へ紙を置いた。端を、明日使う毛の見本で押さえる。


 戻ると、マルセルさんが毛の包みを両腕で抱え直していた。糸の束も自分の鞄へしまう。頼みごとの続きは出てこない。クロード様も立ったが、私へ伸ばしかけた手を途中で下ろした。


「リディア」


「はい」


「次に、君と話せる時間を尋ねてもいいだろうか」


 私は予定帳を閉じずに、彼を見た。


 二人とも、待っている。


 ああ、ようやく。私の明日に、私より先に座っている人がいなくなった。


「明日の午前は、いまの糸を仕上げます。午後は、こちらの毛選りです」


 注文書の置いてある、自分の席を指す。


「その仕事が終わったら、もう一度、求婚を聞かせてください」


 クロード様の指が動いた。今度は何も準備の名を挙げず、開きかけた口を結んでから、頷いた。


 私は予定帳の、仕事の下に空いたところへペン先を置いた。


「お茶なら、そのあとに」

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