中2の恋 ~あの日、言えなかった言葉を君に~
蒸し暑い夏の夜だった。窓を開け放しても、淀んだ空気は一向に動こうとしない。汗で貼りつく肌が気持ち悪くて、男はぼんやりと天井を見上げていた。49歳、派遣社員、独身。過去の妄想だけが彼の唯一の財産であり、慰めだった。
中学2年の夏。あの日のことは、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
放課後の教室で、掃除当番の俺と花火ちゃんだけが残っていた。夕焼けに染まる教室の隅で、彼女が戸惑いがちに口を開いた。「ねぇ、今度の日曜日、花火大会があるんだけど…一緒に行かない?」
心臓が跳ね上がった。花火ちゃん。クラスで一番明るくて、いつも笑顔が可愛らしい花火ちゃん。まさか、俺なんかが誘われるなんて。期待と緊張で頭の中が真っ白になり、気の利いた返事一つできなかった。「え…あ、その…」どもる俺に、花火ちゃんは困ったように微笑み、それ以上何も言わずに教室を出て行ってしまった。
もしあの時、俺が「うん、行く!」と即答していたら?
もしあの時、気の利いた冗談でも言えていたら?
もしあの時、俺がもう少しだけ勇敢だったら。
「花火ちゃん…」
男は独りごちた。あの夏の日から、彼女は彼の心の中で「花火ちゃん」になった。彼女と花火大会に行けていたら、きっと俺たちは付き合っていたはずだ。そして、そのまま結婚して、子供にも恵まれて、俺は今、こんな情けない孤独な中年にはなっていなかっただろう。輝かしい未来が、あのたった一言で消え去ったのだ。
そんなある日、インターネットの怪しげな広告で見つけた「タイムリープ薬」という薬を、彼は半信半疑で購入した。怪しい個人輸入サイトから届いた小瓶には、青白い液体が入っていた。「これを飲めば、過去に戻れる…?」
「…どうせ、こんな人生だ。失うものなんて何もない」
男は震える手で小瓶の蓋を開け、一気に薬を飲み干した。
意識が遠のいていく…
目が覚めると、懐かしい木の匂いがした。見慣れた教卓、使い込まれた机と椅子。そこは、間違いなく中学2年のあの教室だった。
「…戻った…?」
驚きと興奮で心臓が激しく脈打つ。窓の外には、あの日の夕焼けが広がっている。
そして、そこにいた。掃除道具を片付けながら、こちらをちらちらと見ている花火ちゃんが。
男は立ち上がった。今度こそ。今度こそ、俺はあの言葉を言うんだ。
「今度の日曜日、花火大会に一緒に行こう!」
自分でもビックリするほど、はっきりした声だった。花火ちゃんの目が驚いたように見開かれる。そして、その表情は一瞬で、困惑から冷たいものへと変わっていった。
「あの…えっと…誰、ですか?」
花火ちゃんは、警戒するように男から一歩後ずさった。
男は戸惑った。なぜだ?なぜそんな反応をするんだ?
「俺だよ!俺、〇〇〇!」
自分の名前を告げた。だが、花火ちゃんの表情はさらに険しくなる。
「本当に、誰ですか?気持ち悪い…先生に言いますよ!」
花火ちゃんは、手に持っていた雑巾を投げ捨て、教室を飛び出していった。
男は呆然と立ち尽くした。何が起こったのか、理解できなかった。
その時、教室の扉が開き、同級生の男子生徒が顔を出すと、血相を変えて廊下を走り出した。
「先生!先生!教室に不審者がいますっ!」
その声に、男はハッとした。そして、自分の手を見る。
そこに映っていたのは、49歳になった自分の、皺だらけの汚れた手だった。
鏡がないことをいいことに、彼はすっかり忘れていたのだ。
薬が過去に戻したのは、彼の「意識」だけだった。
彼の肉体は、49歳のまま、中学2年生の教室にタイムスリップしていたのだ。
男は、ガラリと開け放たれた窓から、校庭を走っていく花火ちゃんの背中を見た。
彼女は振り返りもせず、夕焼けの中に消えていく。
そして、男の耳には、遠くから聞こえてくるような花火の音が響いていた。
それは、彼の人生の終焉を告げる花火の音だった。
男は自分の手を見つめ、膝から崩れ落ちた。意識だけが戻っても、この肉体では彼女の隣を歩くことなんてできない。やり直すどころか、大好きな女子に「最悪の恐怖」を植え付けてしまっただけだった。
「何やってんだ、俺は…」
涙がこぼれ、床に小さな染みを作った。
男は必死に頭を巡らせた。このまま捕まれば、人生は本当に終わる。だが、もしこれが「やり直しのチャンス」だというなら、やるべきことは一つしかないはずだ。
その時、教室の入り口に、竹ぼうきを構えた中学2年生の「俺」が駆け込んできた。
「不審者ってどこだ…っ!?」
若き日の自分と、49歳の自分が、夕焼けの中で視線を交わした。
男は立ち上がった。間もなくここへ教師がやって来る。躊躇している暇はない。
「おい、俺…じゃなくて、君」
男は震える声を絞り出した。驚きで固まる少年に、49歳の男はにっこりと、人生で一番の笑顔を見せた。
「花火ちゃんが、花火大会に誘ってくれただろ? あれ、本気だぞ。あいつはお前のことが好きなんだ」
「え…? なんでそれを…」
「いいか、迷うな。『行く』って言うんだ。お前が勇気を出せば、俺みたいにはならない」
男はポケットから、使い古したハンカチを取り出し、少年に手渡した。
「これを彼女に。さっき、雑巾を投げて手が汚れたはずだから。…走れ!今ならまだ追いつける!」
少年は呆然としていたが、男の切実な眼差しに何かを感じ取ったように、大きく頷いた。
「うん、わかった。ありがとう、おじさん!」
少年は教室を飛び出していった。校庭を走る花火ちゃんの背中に向かって、全力で。
その瞬間、男の視界が白く光った。
遠くでドォォンと大きな音が響く。それは人生の終焉ではなく、新しい幕開けの音だった。
「…っ!」
目が覚めると、そこは元のボロ家…ではなかった。
日差しが明るく差し込む、清潔な寝室。隣には、穏やかな寝息を立てる女性がいた。
「…花火ちゃん?」
彼女がゆっくりと目を開け、微笑む。「どうしたの、パパ。今日は花火大会に行く日だよ。娘たちが楽しみにしてるんだから、早く起きて」
男は自分の手を見た。皺はない。49歳ではあるが、そこには健康的な大人の手があった。
あの時、過去の自分に言葉を託したことで、運命の歯車が回りだしたのだ。
男は窓を開けた。淀んでいた空気はどこにもない。
爽やかな夏の風が吹き抜け、男は心から笑った。
「ああ。最高の花火を見に行こう」
あの日、言えなかった言葉。
30年越しに届いたその一言が、彼に本物の夏を連れてきたのだ。




