第四章 不安
セリアは、シュウに必要なだけの権限を与えたつもりでいる。彼の命は、己の命。すなわち御輿としての権威のみならず、実際に味方を動かし、軍を率いる権利を譲渡したのだと、そう彼女は認識していた。
彼のほうも、それは正しく理解しているであろう。これが最良の判断であったかどうかは、まだわからない。問題があるとすれば、シュウに全てを押し付けたつもりになって、自分はもう特別に動く必要はないのだ……と。そのように、セリアが勘違いしたことである。
――戦いの帰趨は、もうあの男に任せたし。護衛隊はジェイクが統率してくれる。王都に着くまでは、楽をしていられそうね。
セリアは、対策を実行するにしろ、責任を追及されるにしろ、帰ってからのことだと信じていた。
保身の為の言い訳など、するつもりはない。敗戦の一報は、すでに王都に伝わっているはずだ。トリアの密偵、偵察兵はそれなりに優秀であるから、途中経過まで含めて、正確に記録されていると見て良い。
そんな状況では、いかなる自己弁護も意味を成すまい。罰があれば裁かれようし、そうでなければ現状維持。どちら転ぶかはわからないが、気を揉んでも仕方ないと、彼女は諦めていた。
御輿に責任を追及するなど非合理極まりないが、必要な時に犠牲に羊となることも、自身の役割であるとセリアは考えていた。
よく言えば達観、悪く言えば厭世的な思考だが、挫折した後は思考が暗くなりがちなもの。セリアのように実績も自信もない人間であれば、とりわけその傾向が強くなる。
――負けた責任は、誰かが取らなければならない。どうせ、私には失うものなんて、何もないんだから。
色々と、頭の中で考えをもてあそびながら、セリアは街道を馬に乗って、進んでいた。
結論から述べるなら、この彼女の後ろ向きな予想は、完全に裏切られることになる。
どこにいようと、戦時の混乱からは逃れえる物ではないし、王族であれば義務を放棄することは出来ない。
つまり、セリアはシュウに指揮権を譲渡したのではなく、昇進させ兵を統率する義務を付与した、という表現のほうが的確なのだ。
いくら嫌がっても、出自とそれに伴う責任からは逃れられぬ。特に大局的な決断については、ジェイクなどの一士官の手に余るだろう。
万が一、その決断が今ここで必要になった場合。彼女は他人に全てをゆだねることが出来ない。父王の死と、その後の混乱は、セリアをそこまで過酷な状況へと追いやっていた。
護衛に囲まれて帰還する最中であれ、必要とあらば兵に指示を行い、その結果を受け止めねばならない位置に、彼女は存在する。
まったく酷なことだが、この負担を自覚できなかったのが、セリアの限界であったのかもしれない。
「順調に進めば、夕方には駐屯地に着くでしょう。そうなれば、少しは楽になりますかな」
「兵が増えれば、賊も襲ってこないと思うし、手持ちの食料も補給できる。……楽になるというか、ここで出来るだけ大きな隊を組織しないと、後々苦労するのではないかしら?」
目先の出来事には、彼女も一応目端が利く方である。ただ、すでに楽観視が入っているのか。この発言もどこかしら他人事のようであり、自分がこれに関わることなど、まるで考えていないようでもある。
「ははあ、おっしゃる通りで。ハッタリをかけるには、数を揃えるのが効果的。道すがら兵を吸収しながら、軍を組織しなおせば、これはセリア殿下の功績といってよろしいかと」
「そこまで計算しているわけじゃないけど……でも、私だって少しは役に立つことを、皆に示したいの。お飾りでも、人を集める程度の役割は果たせるんだって、ね」
本当に、セリアは自分が誘蛾灯となって、トリア軍の拠り所となろうとしていた。ただ、これを統率する役目まで負おうとは考えておらず、誰か適当な人物が、それを担えばよいとまで思っていた。
「左様ですなぁ、実績があれば、誰も姫様を侮ったりはしないでしょう。まあ、頑張ってください」
「……貴方も手伝うのよ? 事と次第によっては、集った兵を全部任せることになるんだから」
「――おや、何を仰いますやら。私はせいぜい、小隊長を務める程度の才覚しかありません。三百人、四百人の部隊を率いるのは、手に余ります」
それはそうなのだろうが、無経験の素人に任せる方が、よほど性質が悪くないだろうかと、セリアは思う。
「軍って、そんなにいい加減なものでいいの? 私は一応、父の跡を継いだ形になってはいるけど、正式に戴冠したわけでもないし。王権の継承が正しく行われていない以上、私が兵を統括するのは問題ではないかしら。――むしろ、士官である貴方がやるべきじゃない?」
「……はて。私は法規に詳しくありませんので、なんとも。しかし、自分がやると角が立ちます。すでに護衛隊を預かっている身でありますから、これ以上の兵の統率は、シュウ殿の命に背くことにつながるのではないかと」
ジェイクは、兵権を譲渡されたシュウが、直々に選抜して護衛隊を任せた人物だ。
この上にさらなる権限を加えるのは、シュウの命を撤回させるに等しい。もし彼がセリアの言に従い、帰途で吸収した兵力を指揮してしまうと、とても護衛に専念できる状況ではなくなる。
そうなれば結局、別の人間がセリアの警護を統括することになり、彼女は自身の命令よって、シュウの宣言を間接的に否定することになろう。
せっかく自分が付与した権威を、自らの手で破壊する。これを柔軟な対応と呼ぶべきか、朝令暮改と評すべきか、彼女には判断が付かない。
「なるほど。確かに、それは考えものね。……とすると、どうしたものかしら」
「あくまでご自身が前面に立ちたくない、とおっしゃるならば、行く先々で出会う将校たちに全て丸投げすることですな。補給拠点には、前線に出られなかった士官が多少はおりましょう。おそらく私より、高給取りの奴がね」
きちんとした参謀教育を受けた者、あるいは経験豊富な大隊長などがいれば最高である。セリアは運営上のあらゆる問題について、煩わされることはなくなる。シュウと同じく彼らを昇進させ、仕事をぶん投げればそれで済む。もっとも、後でシュウとの間で、摩擦が起こるかもしれないが……そんな未来のことまで、彼女は考えたくなかった。
「そうね。全部任せられる人材がいれば、それにこしたことはないのだけれど」
「まあ、最悪、護衛隊を拡張するということで、つじつまは合わせられますが。一つの基地の人数を全部とりこんでも、千人には届きますまい。それくらいなら、必要に応じて隊を強化した、と言い張ることも出来るでしょうよ」
ただ、この場合は前提として、ジェイクが最上位の士官でなければならない。そして全ての兵を彼が率いることになり、セリアとしてはある意味、非常に頼もしい結果となるわけだ。
このジェイクという男。不器量で捻くれ者だが、信義に背けるような人間ではない。信頼すれば信頼した分だけ、結果を出せる人物ではないか。根拠はまったくないのだが、セリアはそのような印象を彼に持っている。
――何だか、仮定の話ばかりしてるような気がする。取り越し苦労になったら、いい笑いものね、私たち。
補給路は、王都へと続いている。その中継地点には、物資の集積所があり、少数の兵員と共に士官が配置されているものだ。この中には、中隊長以上の士官も当然いるだろう。すると、最近小隊長に昇格したばかりのジェイクでは、上位に立てるわけがない。
だから、セリアはこの時、何ら危機感は抱いていなかったし、以後は思い悩むことなく――少なくとも議会で責任を追及されるまでは、休んでいられると思ったのだ。
しかし、運命はどこまでも迂遠で、厄介である。セリアへの試練は、まだ終わっていなかった。
幾ばくかの希望を抱きながら、もっとも近い補給拠点にたどり着いたとき。彼女は失望と共に、恐怖に似た想いを抱くことになった。
「士官が、いない?」
「はい。ここにいるのは、兵卒と下士官のみです。ご存知の通り、下士官は部隊長の補佐に回るのが本来の役割。非常時には兵を統率することも出来ますが、上位の士官がいれば、それに権限をゆだねるのが道理でありましょう。よって、我々はこれより、セリア殿下の護衛部隊に所属することになります。――変則的ではありますが、ご許可を」
説明に現われた一人の下士官が、そう述べた。基地には元々、彼らを纏める将校がいたのだが、前線が近いこともあって、オルスについてゆき、軍功を立てることを望んだとのこと。
本来は通るはずのない、一将校の要求。だがそれは、意外にもオルスに受け入れられる。父の意図など、セリアにはわかるはずもないが……今問題なのは、補充の人員もないままに、一つの拠点が下士官と兵だけで運営されていたという、事実である。
上級の士官がオルスと共に討ち死にした後は、そのまま放置され、日々の業務をこなし続ける毎日であったそうな。前線にある程度近い場所にあるのだから、見落とされていた、とは考えにくい。この点、どのような思惑が軍内部にあったのか、お飾りであったセリアには想像も付かないことである。
……ともあれ、ここにたどり着き、合流してしまった以上、セリアは彼らに対して責任が発生するのだ。兵の処遇、采配の決断は、ジェイクに任せるわけにはいかない。先の考察どおり、それは彼の任務から逸脱しており、彼女の他に相応しい人材がいないのだから。
――しばらく。しばらくの、我慢よ。途中で相応しい人員を確保したら、その人に働いてもらえばいい。
こうしてセリアは、流される側から、主導する側へと立ち位置を変える。ようやく、彼女は自ら重荷を背負う覚悟を決めたのだと、そういってよい。
「よろしい。では、私たちの指揮下に入りなさい。――とはいっても、私には組織運営については、知識も経験もない身だから。色々と、教えてもらうこともあるでしょうけど」
「自分にわかることでしたら、いくらでもお力になりましょう。では、よろしくお願いします」
まだ若い……といっても、セリアと比べれば十は歳が離れているであろう。
その下士官の年齢は、おおよそ三十前後ほどか。印象としては老いよりも若さの方が強いが、それなりに長い時間、軍隊の中で揉まれてきた厚みを感じさせる、そんな男であった。
痩身であり、落ち窪んだ目からは、どうしようもない陰気な雰囲気を感じて、決して美男子とはいえないが――些細なことであろう。この場では目を楽しませる色男より、頼りがいのある戦士の方が、よほどありがたいものだから。
「そんなにかしこまらないで。これからは、遠慮なく頼らせてもらうんだから。……ええと」
「サーレントです、セリア殿下」
「ではサーレント。この基地の内情を報告してくれないかしら。具体的には、兵員、物資、通信網の状況などね」
軍事の知識に欠けてはいても、ここ数日考えっぱなしでいれば、必要なことくらいはわかる。単純に足りない物を頭の中で整理して、あれば便利な物を想定しておく。
それだけのことなのだが、真面目に取り組めばいくらでも考慮の余地があることに、セリアは気付いていた。さりとて隅々まで目を行き届かせるのは、彼女の素養では不可能に近い。
しかし、見落とした点を探ろうと、事態の把握に努力するのは、有益なことであるはず。問題があれば、そのつど見直していけばよいだろうと、セリアは割り切っている。
「人員は、自分を含めて三百六十六名。この内、三五名が前線から戻ってきた兵で、その中の十二名が負傷しております。いずれも軽傷なので、戦闘はともかく、強行しない限り移動には問題ありません」
「つまり、実質的な戦力は三百八十九名、と。結構な数ね」
今のセリアの状況を考えると、なかなか大きな戦力だが、戦闘に巻き込まれることを考えると、あまりに寡兵だといえる。盗賊団程度なら踏みつぶせるだろうが、勝利の勢いに乗った敵軍相手では、持ちこたえられる数ではない。
父は、我が軍の将帥は、そこまで後方を軽視する人物であったか……? と疑問に思うが、今更である。次の話題に移った。
「兵糧は……前線が近く、基地の構築が最近だったこともあり、そう多くはありません。が、王都まで一度に運んでいけるほど、少なくもないのです」
さらに問いただしてみると、なかなか微妙な量であることがわかった。一人の兵が一日に消費する食料を一とするなら、この場にある量は三十万、といったところか。
千人の兵を三百日も養える……といえば、かなり多いようにも思えるが、戦略的にはさほどでもない。この時代、最大規模で三万から六万もの軍が運用されることもあるのだ。
そしてオルスが率いた兵数も、セリアを御輿に動かした軍も、およそ一万程度。この軍勢が消費すれば、たった三十日で食い尽くしてしまう量に過ぎない。切り詰めればもう少し持つだろうが、継続して物資を集積しなければ、先細りするのは目に見えている。
「本格的な輸送が、直ちに始まる予定だったのですが……この敗戦の報によって、雲行きが変わったらしく、いまだに王都から輸送隊が来る気配はありません」
「今来てもらっても、困るわね。動きの遅い輸送隊に合わせては、敵に後ろを取られかねない。……持ちきれない分は、処分するしかないのかしら」
シュウの活躍を、セリアはまったく当てにしていなかった。ここで楽観に走れるほど、彼女は愚かではない。シュウが敗北していれば、追撃の手がいつ、ここまでやってくることやら。あまり、時間的な余裕はないと見るべきだろう。
ならば、この人数には多すぎる物資を、悠々と抱えて進んでいる場合ではあるまい。ましてや何度も往復するなど愚の極み。
といって、みすみすと敵にくれてやるのも癪である。焼き払って処分するのが、もっとも適当と思われた。
「王都への連絡は、絶たれていないはずです。定期報告に向かった兵が、先日戻ってきておりますから、通信に問題はないかと。これより後方に、敵の手が入ったという話は聞きません。ガレーナ軍がここを無視して一足飛びに、王都へ向かう理由もないでしょう」
「断定するのは危険かもしれないけど……。わかった、だいたい現状は把握できたと思う」
後は、行動を起こすのみだ。こんなときに、参謀でもいてくれれば……とも考えたが、もはやどうにもならぬ。
ジェイクにも相談したいが、彼は今、隊の再編成を行っている。人数が増えたことで、護衛隊の戦力は充実しているが、新たに面倒も増える。彼は接点のなかった兵の掌握に、手間取っている頃だろう。まさか本当に、自身の手で護衛隊を拡張することになろうとは、思いもしていなかったに違いない。
これには、サーレントにも責任を持たせるべきだが……彼をどのような地位に置くか。それはセリアが決断するべきことだ。
ジェイクの方が年上で、軍歴も長い。階級も彼の方が一つ上である。サーレントに不満がなければ、ジェイクの下で補佐に徹してもらうのが、一番よい形であるように思えた。
「基地の人員は、すべてジェイクの隊に吸収するから、サーレントには補佐に回ってくれる? 彼も有能な下士官が欲しいところでしょうし、貴方の協力があれば、円滑に事を進められると思うの」
「――了解しました。編入される上で、報告事項がありますので、ジェイク隊長と面会したく思います。どちらにいらっしゃるか、わかりますでしょうか」
表情は変わらないが、どことなく、雰囲気にトゲがある。
何か、不満なり不安なりがあるのだろうとセリアは理解したが、あえて問わなかった。
サーレントにそれを吐き出させたところで、適切な対応を取れる自信など、彼女にはなかったのだから。
ジェイクは、兵糧の確認のために倉庫の方をのぞいていると、セリアはそれだけを口にする。彼からの礼の言葉も、彼女の心情を軽くすることはできなかった。
他に何かやるべきことは……とセリアは考えたが、なにも思いつかない。
サーレントは、出て行った。こんなことなら、彼に自分がやるべきことを聞いておくのだったと後悔したが、もう遅かった。
そして彼女は、苦悩しながら、無為に時間を一人で過ごさねばならなかったのである。
とりあえず、気にせず続けることにしました。
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