三枚目が健康で、
ふと、クローバーの里へ行きたくなり、地上へ出ようとした時だった。通報をキャッチした無機質な音が微かに鼓膜を刺激する。
あの日、俺と同じ牢にいた女の子の愛がここへ連れてこられた日、車窓から少しだけ見えたクローバーの里を忘れられずにいる。その理由はわからない。
時折、こっそり出向くようにしていた。そこへ向かっても、何も感じないのだが、引き寄せられるように、体が勝手に向かうのだ。
俺がマスターの部屋に入ると、すでに愛が身支度を始めていた。
(すまん、少し遅れた)
少し遅れてしまったわけだが、愛が通報を聞いてくれているであろうという信頼があった。
手袋をして、愛が心で尋ねてくる。
(あの、一つ質問よろしいですか?)
俺は愛に背を向けながら頷く。
(以前、ジョンという少年を叱った母親の手を握ったのには理由があるのでしょうか?)
(子どもを守るのが俺たちの役目だ)
(ですが、あんなに強く握る必要があったのか、私、気になっていたんです)
(それは……)
俺にもわからない。
ジョンを叱る母親に対し、心が揺れ動いて、どうしようもなくなって、気づくと体が勝手に動いていた。
メアリーという少女を助けた時も、心が動いたのを覚えている。何か、体に異変でも生じているのだろうか。
(それは、今回の任務に関係があるのか?)
(いえ、そういうわけでは……)
答えが返ってこなかった愛は、すぐに任務の話に切り替える。説明できるのであれば、したいのは山々なのだが。
(ジェームスという少年が、昨夜から姿が見えないようです)
今はもう昼だってのに、母親は今更気づいたのか。
(どこへ向かったのかわからず、攫われたと思っているみたいです。それから、父親の大きめのリュックサックが見当たらず、持ち出している可能性があるとのことです)
(あいつらはまだ撤退していないのか)
首をポキポキと鳴らしながら心でやり取りする。
(それでも、数年前と比べたら数は減ってきているので、このままいけば)
(俺たちは事件の数を減らすことが目的じゃない。無くすことだ。子どもを守ることだ)
俺は息を小さく吐く。
(とにかく、アテがないんじゃしょうがない。家周辺から足取りを追うぞ)
愛は小さく頷く。
俺たちは地下を走り、ジェームスの家の裏まで来た。
ジェームスの母親らしき人物は、近所の人と楽しそうに話している。どういう神経をしているんだ。
普段なら真っ直ぐに空港へ向かうのだが、時間的に間に合っていないことと、引っかかる点があったことから、ルートを変更している。
ふと、地面に視線を落とすと、泥が道を作るように落ちていた。
(こんなわかりやすい証拠があるか?)
疑念を抱きつつも、泥の道を進む。罠だったとしても、俺たちならなんとかなるだろうし。
道の先には小さな公園があった。警戒しながら入るも、特に異変は見つからない。
(罠でないとなると、証拠を残していったのは単なる失態ということでしょうか?)
公園内を歩いていると、少し盛り上がった場所があった。
少し見つめてから、つま先でちょん、と触れる。すると、二メートルほどの落とし穴が現れた。
掘り返すのと埋めるのに利用した痕跡は二箇所のようだ。
(小細工がすぎる。奴らは血迷っているのか?)
ふと、鼻が微かに揺れる。
(血のにおい、ですね)
(ああ。それに、わかりやすく引きずられた痕まで残してくれている)
もう、俺にはわかっていた。この事件の全貌を。愛もおそらく気づいているだろう。
最も起きてほしくない事件が起きてしまった。
心の健康を乱された子どもが、最終的にどうなってしまうのかを、俺たちは知っている。
(場所の見当はついた。ここから最も近い樹海へ地下から向かうぞ)
(わかりました)
子どものみでの長距離の移動は体力や精神、財政的に負担がかかるため、最も近くの目的地に向かうはず。
ジェームスたちはきっと、母親に見つけてもらいたかったのだろうが、息子が姿を消してもいつも通りの母親を連れて行ったところで何も変わらない。
変わらなきゃいけないのは、子どもではない、親の方である。
俺たちは地下を通り、ジェームスたちが向かったであろう目的地へ向かう。
地上へ出ると、生い茂る緑の中、血のにおいが強くなっていることに気づく。俺たちはにおいを頼りに歩く。
足を下ろそうとして、泥とは異なった感触を感じる。俺はそれを拾い上げる。
(俺たちが探しに来てすまんな)
腹部に固いものが入った、クマの人形だ。縫い跡がいくつもある。大切に使っていた証拠だ。
頭上で音を鳴らしながら走る列車が通り過ぎると、シャベルで土を掘る音が聞こえてくる。
俺たちは足音を殺しつつ、その方へ向かう。
(もう、手遅れですね)
(昨日、いや、だいぶ前からそうだったのだろう。もっと早くに気付けていたとしても、また別の場所で事を起こしていたのだろうが)
木の陰から顔を出し、様子を確認すると、穴を埋めるジェームスとジョンの姿があった。
二人の間に会話はなく、ひたすらに土を埋めていた。
子ども相手だと、心の声が届いてしまうため、動き出す合図を愛にハンドサインで送る。
三、二、一。
あえて一歩目で大きな音を出し、気を引かせる。その間に素早く背後に回り込み、警戒して構えていたシャベルの動きを封じる。
何も言わず、身動きが取れなくなった少年たちを見つめていると、こちらを見ることなく、全速力で逃げ出す。
(ここへ来たのが俺たちでごめんな)
俺たちは追うことなく、人形の腹部をを押し込む。
ジェームスの母親が歌うバースデーソングが鳴り、ジェームスが立ち止まる。それに気づいたジョンも止まり、ジェームスの手を引っ張る。
「おい!何やってんだ!」
ジェームスはジョンの手を払い、ゆっくりと俺たちの元へ歩いてくる。
「もっと早く、誰でもよかったんだ。心に触れてくれていたら、俺たち三人は救われていたんだ」
言い訳かな、と悔しそうに付け足す。
これが現実。間に合わなければ意味がない。間に合わなければ、被害者も加害者も生んでしまう。
幼いながらに命を落としてしまうし、罪を被ることになる。
家庭のせい、そう言えば逃げられるが、そこに踏み入るには、俺たちでは力不足だ。俺たちには、何かが足りない。
それでも、謝ってはいけない。ジェームスとジョンは尊い少年の命を奪ったのだから。
(今回は、救うことができず、申し訳ありません)
少し土が盛り上がったところに、ネームタグが立っている。愛はそこに手を置いて、心で呟く。
依頼には応えられたが、言わずもがな、これは失敗である。
俺たちはひとまず、任務を完遂するべく、少年たちを親元へ連れて行くことに。
おそらく、公園に誘っていたのはジェームスだろう。今回のことはあの時から決まっていたのかもしれない。
これに気づけなかった俺たちは、いや、気づいていたのに動かなかった俺たちは、ただの偽善者に過ぎない。
子どもの反逆心はいずれ花を咲かす。家庭におけるストレスを養分として。
事が起きる前に動かなければ、芽を出す前に摘まなければ、全てが手遅れになってしまう。
ジェームスもジョンも親元を離れれば、自我が安定して、心の健康も自然と落ち着くだろう。
ジェームスの家に着くと、ジョンの母親も来ていた。どういう経緯があったのかはわからない。
「ジェームス!」
「ジョン!」
二人の母親は息子の元に駆け寄り、強く抱きつく。頬を擦り合わせているが、返り血のついた場所だけは避けている。
どうして、どうして、と呟きながら、哀しみの涙を流す母親とは裏腹に、息子たちの顔は明るかった。
その光景に、またも心が動く。
目に違和感を感じ、目をこすると濡れていた。初めての現象について、思考を巡らせていると、隣にいた愛の目からも涙が頬を伝って流れている。
俺は目元を隠して、一人、先に背を向ける。
(やっと、少しは見てくれたよね)
背後から二人の少年の心の声を受け取りながら、俺は見たかったクローバーの里へ足を運ぶ。
道中、家の前で泣き崩れる女性を見つける。
「急にどこか行っちゃダメって、いつも……言ってるでしょ……」
俺は表情を変えず、女性の背後を通り過ぎる。
(本当に、すいませんでした)