みそっかすティティリーゼの星屑拾い
「あのいじわるなお兄ちゃんのお目目、あっちの女の人と同じ色だけど、きらきらはあっちの女の人と同じ。お姉ちゃまは子どもはお父様とお母様に似るのよ、と教えてくれたから、??? あれぇ? あれぇ?」
先ほど前を歩いていたティティリーゼを、「とろい邪魔だ」と突き飛ばした男の子に対して疑問を持ったのが、ティティリーゼの人間観察の最初だった。
その10年後。
「君とは婚約を破棄する」
足音荒くお茶会をしていた部屋から出て行くライオネルを、ティティリーゼは黙って見送ったーーが、3分もしないうちに足音がドドドドドドと走って戻ってくる。
「ティティリーゼ! 何故! 追いかけてこないんだ!?」
「何故と言われても……」
「しかも椅子から立ってもいない! 少しは狼狽えて動揺するとか! 慌てふためくとか! お願い、せめてお茶のカップを置いて茫然とくらいして!?」
「だって正式にまだ婚約していませんし……破棄の前提がそもそも……」
ティティリーゼの至極まっとうな言葉に、
「当たり前じゃないか! 正式に婚約してから破棄なんておぞましい言葉、嘘でも言うもんか! ティティリーゼが泣いてすがってくれるならば、1秒だけ婚約破棄をしてもいいけど」
とライオネルは子犬のように鼻を鳴らして、ティティリーゼの手を取る。ライオネルの透明なのに底の見えない地底湖のような、ほの暗く美しい双眸が物騒に光る。
「ティティリーゼの婚約者に早くなりたい。あの無能な兄と父の邪魔さえなければ」
ライオネルはハルム公爵家の次子である。
ハルム公爵夫人が、とある茶会でティティリーゼを気に入りライオネルの婚約者として準備していたのだが、ハルム公爵が長子であるアレックスの婚約者にと横やりを入れてきたのだ。
アレックスは女性関係で度々問題を起こし、すでに18歳にして婚約を6回も破棄していた。そのため7人目の婚約者がなかなか決まらずにいたのだ。
いくら公爵家の長子といえど、公爵家の権力を使って次々と婚約者を簡単に捨てるアレックスに、高位貴族はそろって背を向けていた。
野心のある下位貴族の令嬢たちはアレックスにすり寄っていたが、下位貴族では公爵家の夫人としては身分に難がある。
そんな時にティティリーゼが公爵夫人のお眼鏡にかない、ライオネルと婚約の運びになったのだが。
公爵が高位の令嬢たちにそっぽを向かれ崖っぷちとなったアレックスの婚約者に、ティティリーゼを強引に据えようと力を使ってきているのだ。
ティティリーゼは名門伯爵家の末子で、上に3人の姉がいた。
女神だの妖精だの天使だのと讃えられる姉たちは傾国の美貌で、まるで媚薬のように老若男女を虜にしていた。
しかしティティリーゼは、いかにも高貴な血筋の貴族らしい金髪碧眼の姉たちとは違い、地味な色合いの茶色の瞳と髪の特別目立つような容姿でもなく平凡な顔立ちだった。
絶世の美貌の姉たちはティティリーゼを可愛がってくれていたが、周囲の人々はティティリーゼを「伯爵家のみそっかす姫」と呼んで見下していた。
しかし、小さく華奢な姿とやわらかな雰囲気がティティリーゼを可愛いようにも綺麗なようにも見せることがあり、一部の人間には取り憑く魅力となって何かを切らす激情を与える、とひそかに熱狂者がいることは知る人ぞ知ることであった。
ライオネルもその一人で、一目惚れというよりも執着に近い衝動でもってティティリーゼに恋をした。
それにティティリーゼは、ライオネルの家柄も神の作りし至宝のような容姿も何の関係もなく損得もなく下心もなく接してくれた。ティティリーゼの前ではライオネルは、神童ではなく、ただの11歳のライオネルでいられたのだ。
そして甘い熱を噛みしめ恋に生きる男となったライオネルにとって、自分の邪魔をする父公爵も兄アレックスも排除すべき対象となっていた。もともとライオネルは自分が成人すれば、公爵家の害にしかならない公爵もアレックスも処分するつもりだったから、なおさらに。
「ティティリーゼは僕のものなのに」
子どもの無邪気を装ってライオネルは、4歳年上のティティリーゼに抱きつく。すりすりと頭をふわふわの胸元に擦り付けながら、さらり、と髪を撫でてくれるティティリーゼの初雪のようなやわらかな手を堪能する。
「父は公爵家の執務もせず浪費ばかり。兄は公爵家の名を汚す。あれらは家族ではない、どちらも腐臭漂う肉にすぎない。公爵家の害虫は駆除しなければ」
病死か事故死か、骨の髄まで青い血のライオネルは、11歳にして貴族の残酷さと悪辣さを体現する者だった。
ティティリーゼはライオネルの髪に指を差し込み、ささら、さらさらと水のようにすいて、
「その、アレックス様のことなのですけれども……」
と、躊躇うようにきゅっと唇を引き結んでから口を開けた。
「俺にふさわしくない!」
「見栄えのしない顔!」
「姉たちの残りかす、伯爵家のみそっかす女め!」
と、ことあるごとにティティリーゼを蔑む発言をするアレックスに、伯爵家の両親も姉たちも怒り心頭で「もげろ!!」とアレックスとの婚約に大反対だった。
故にティティリーゼが、アレックスの身辺を調査することに諸手を挙げて協力してくれ、特に姉たちはその美貌を利用してティティリーゼが望む神殿への伝までつくってくれた。
ティティリーゼは、自他共に認める地味で存在感が薄い令嬢である。
姉たちのように高い社交性も巧みな話術も持たないティティリーゼは、夜会では壁の花に、お茶会では隅っこの席が定位置であった。
人々の視線は常に姉たちに集まり、地味なティティリーゼのことは誰も注意を払わなかった。それをいいことに、幼い頃から人の輪から一歩離れた場所でティティリーゼが何をしているかというと、人間の観察である。
貴族としては真ん中の位置の、高位貴族からも下位貴族からも招待を受ける伯爵家も、周囲の人々に埋没して目立たない平凡な容姿も、ティティリーゼにとって都合がよかった。
声音の高低も、言葉の意味も。
眼差しの動きも。
指先の向きも、人の癖も。
あらゆるものを見て聞いて、微細な違いや情報をティティリーゼはずっとずっと誰にも気付かれずに集めてきた。
緻密に比べ見澄まし推理をして、集めた知識を積み木のように積み上げると、まるで真昼の星のように、目に見えなくとも存在するものとしてカタチとなった。
だからアレックスに違和感を持った。
アレックスは父公爵によく似た容貌をしている。瞳は公爵夫人と同じエメラルドグリーンだ。ライオネルも同じく宝石のようなエメラルドの瞳だった。
けれども近くで公爵夫人とライオネルと接するようになると、ますますアレックスの違和感が深まった。違う。きっと。おそらく。今まで集めた情報の目に見えるものと見えないものから判断して、アレックスはーー。
「……明日アレックス様のことで神殿へ行くのです。ライオネル様も、ご一緒に来て欲しいのです」
「兄上のことで?」
「ライオネル様は、アレックス様と一日違いで生まれた異母兄様のことはご存知ですよね?」
「ああ、生まれて数日で亡くなったというマキシス兄上のことならば知っている、母親は父の愛妾の」
王国での婚姻制度は、一夫一妻制である。
神殿が婚姻の誓いを重視していることもあり、財産の相続権や爵位の継承権など法的に正妻腹が優先され、婚外子の場合、相続権が発生するのは5親等以内に相続人がいない場合のみであった。
アレックスとライオネルは正妻である公爵夫人の子であるから、当然公爵家の相続権は持っている。
赤子の時に死亡したマキシスは妾腹なので相続権はない。
しかし、とティティリーゼは思う。
「では、アレックス様が赤子の時に一時間だけ死亡扱いになっていることは、ご存知ですか?」
驚愕の表情を浮かべるライオネルに、知る人はごくごく少ないのです、とティティリーゼはつけ加えた。
「アレックス様の死亡届が出された一時間後に、マキシス様の死亡届が出され、アレックス様の死亡届は取り消されたのです。アレックス様とマキシス様、死亡時の混乱により間違いで死亡届が提出されたということで」
アレックスとマキシスは一日違いで生まれ、どちらも金髪の父公爵似だったため、双子のようにお互いが似ていたという。
「まさか!?」
賢いライオネルは瞬時に疑いをいだく。父親が正妻である公爵夫人よりも愛妾を、それはそれは大切にしていることは有名であったが故に可能性は高いと思った。
「父上は愛妾を深く寵愛しているが……。まさか、アレックス兄上とマキシス兄上の死亡届を取り替えた? マキシス兄上に相続権を与えるために? 本当のアレックス兄上は赤子の時に死んでいる……?」
ありふれた噂話。
人々は自分が何を喋ったのか、それによってどんな情報をティティリーゼに与えたのか、生涯知ることはないだろう。
ティティリーゼは星屑の断片のような、話の切れ端を集め、ジグソーパズルの行方不明になった1ピースを探して、根気よく組み立てているだけ。
小石の欠片が、知識と経験を持つ者によって宝石と評価されるように、適切な分析と判断により推定しているだけ。
観察をして分析をして理解をして想像をして予測をしてーーティティリーゼはアレックスに疑問を持ったのだ。
他家の内部事情故に、疑惑は疑惑のまま今まで口には乗せなかった。
沈黙は身を守るためでもあるが、自分の婚約がかかってくるとなると黙ってもいられない。
ティティリーゼの容姿を見下すアレックスとよりも、心から愛してくれるライオネルとティティリーゼは結婚したい。まだ幼い恋心だが、ティティリーゼは愛し愛される夫婦になりたいのだ。
「証拠だ。証拠が必要だ……っ!」
表情を歪ませライオネルが唸る。身の毛が逆立つような怒気に、血がふつふつと沸騰するようだった。
母を騙し周囲を騙し、マキシスを嫡子とした父親が許せなかった。
貴族家において、お家乗っ取りは許されない大罪である。
「ですからライオネル様。お金持ちのみが使える奥義を使用しませんか?」
にっこり可愛いらしくティティリーゼは微笑む。小鳥が囀ずるような声で、
「お金です」
と唇に細い指を押し当てる。
「なるほど。金に物を言わせるのか。いい案だ、もう一つ神殿を建てられるくらいの金で頬を叩いてやろう。過去最高の寄進額ならば、神殿に否やはないだろう」
神殿は神に祈りを捧げる神聖な場であり、王国の人々の出生から死亡まで、あらゆることを司る組織でもある。
アレックスとマキシスの死亡届の提出先でもあった。
「母上はショックを受けるだろうな」
こみ上げる感情にライオネルの眉が曇る。愛妾に傾倒して仕事をしない公爵のかわりに、領地を経営しているのは公爵夫人であった。なのに愛妾に惚れ込み婚姻の誓いを裏切られ、産んだ子さえ替え玉にされ偽りとされるとは。
「そのことですが、うすうす分かっておられるのかも……」
「え?」
「私をアレックス様ではなく、ライオネル様の婚約者にと求められたのは、つまり……」
「そうか、そうだな。いくら素行の悪い長子とはいえ、次子である僕の婚約者を先立たせたのは、母上にとって重視するのは僕である、ということだな」
ひとり頷くライオネルの両頬をティティリーゼは手のひらで包んだ。
鼻先が触れそうなほど顔を近付け、コツン、と額をあてる。
「私を信じて下さってありがとうございます。でもアレックス様ではなく、ライオネル様と結婚したいのです」
「うん、僕もティティリーゼと結婚したい。そのためにならば、邪魔な父上と兄上を食い散らかすことも躊躇わないよ」
その夜、ライオネルは母親の部屋をたずねた。
「……わたくしのアレックスには産まれた時、手の甲に小さなほくろがあったのです。でも、数日後そのほくろは消えていました。同じ髪の色、同じ顔をしていてもアレックスではないやも……もしやとずっと思ってきました。でも、ならばアレックスは……? わたくしのアレックスが死んでしまったなどと信じたくなかったのです……」
まばたきで涙を誤魔化し、凜、と立つ公爵夫人は美しかった。
公爵夫人としての立場的にも、嫡子の存在の必要性を理解していた故に、抗議の声を上げることもできなかった。血の継承を重んじる貴族家では、秘密裏におこなわれることもある事例でもあったからだ。
しかし今は、正統なる血筋のライオネルがいる。
「ティティリーゼの推論は……おそらく正解でしょう。アレは、わたくしのアレックスの名前を奪った偽物。ああ……わたくしはアレックスを別人として、マキシスとして弔ってしまった、アレックスのために祈ってさえいない……。アレックスの死亡届が提出されたことがあるのも知らなかった……。お金はわたくしが用意します、アレックスの無念……神殿との交渉を必ずや成功させるのですよ」
もしアレックスを自分の手で養育していれば、情があったかもしれない。だが、公爵が乳母に育てさせると赤子を取りあげ、其の実、愛妾に赤子を渡し育てさせていた。
「ティティリーゼには感謝しかありません。わたくしも、あの愛妾を調べたけれども他国出身のところまでしか判明しなかった。まさか、あの愛妾の血筋をこれほど詳細に調査してくれるなんて……」
「なんでも東方の国では、遺伝学と呼ばれるものらしいですよ」
その10日後、ハルム公爵家では盛大な夜会が開かれた。
神話の世界を描いた高い天井からは、装飾のガラス細工が光を散らす豪華なシャンデリアが吊り下げられ、絢爛華麗な会場を一層煌めかせていた。
「ティティリーゼ。おまえと婚約破棄をする」
両脇に女性を侍らせ、ぴしり、と人差し指でティティリーゼを指差しアレックスが叫ぶ。
ををーぅ、最近同じ台詞を聞いたわ、とティティリーゼは少し遠い目をする。
「おまえのようなみそっかす女を誰が妻にするものかっ!」
傲然と胸を張るアレックスだったが、
「ああ"!? みそっかすだと!」
と怒りと嫌悪を孕んだ声が蠢くような地響きを伴ってライオネルから発せられ、その威圧感に身体が石のように固まった。
「前提が違う! おまえと可愛い可愛いティティリーゼは婚約などしていない!!」
自分を棚上げにしてライオネルが、小さな体から地獄のような圧力を出す。
溺愛され甘やかされ辛い勉強は嫌だと逃げ出し怠惰な生活をおくるアレックスよりも、すでにライオネルは11歳にして、上に立つ者としての気概と覚悟があった。
「おまえだと!? 兄に向かって!」
「僕に兄はいない。おまえは兄ではない」
「アレックス・ハルムもマキシス・ハルムも、赤子の時に亡くなっている」
静寂が広がる。
ざわめいていた人々が息を呑み、水を打ったような重苦しい沈黙が波のように会場を支配していく。ため息ひとつ呼吸の音すら聞こえない。
「な、なにを言っているのだ!?」
アレックスの顔が怒りに染まり醜く歪む。
「これが証拠だ」
ライオネルの取り出したものは、アレックス・ハルムとマキシス・ハルムの神殿が発行した死亡証明書だ。二人の死亡届は、18年前に神殿へ提出されている。
「バ、バカな!? アレックスの死亡届はわしの目の前できちんと廃棄処分されたはず!」
ハルム公爵が愛妾を引き連れて怒鳴りながらライオネルを睨む。
ライオネルは、子どもの姿をした肉親すら食らう猛獣であった。冷々とした眼差しで父公爵に切り返す。
「廃棄されたのは本物そっくりの偽物です。本物は神殿に保管されていました」
次にアレックスへと視線を移す。
「つまり、おまえはアレックスでもマキシスでもない。名前のない幽霊だ」
当時の神官が、他者の名前で埋葬される赤子を憐れに思ったのか、神への虚偽を怖れたのか、公爵家の不祥事として利用しようとしたのか、その理由はわからないが、ライオネルにとって本物が残っていたことは僥倖であった。
いや、ライオネルにとっては本物であることさえ必要なことではなかった。金目当てに神殿が、新品の本物を作ったとしても、神殿が本物と主張すれば本物なのである。
必要なのは神殿が、アレックスとマキシスの死を認めていることであり、二人が死亡している事実こそが重要なのだ。
そして、マキシスが生きていることにより、その生存が父親の揺るがぬ不正の証拠となることが。
アレックスは戸惑い言葉を失いながら父公爵を窺うが、公爵の紙のような顔色を見れば、それが真実であると痛いほど思い知り事実を悟った。
「ち、ちがう! 俺はアレックスだ。俺がアレックス・ハルムだ!」
それでも往生際悪くアレックスが腕を振って、拒むように声を荒げる。
「アレックス様」
ティティリーゼが同情の滲む声で言った。
「アレックス様の瞳はライオネル様の瞳と同じグリーンですが、ひとつだけ違う点があるのです。明るい光を当てると、右目に小さな金色の粒があらわれるのですよ」
公爵の愛妾にも同じ特徴がある。
ハルム公爵そっくりな容貌と公爵夫人と同じグリーンの瞳、誰もアレックスを公爵家の嫡子として疑う者などいなかった。しかし、ティティリーゼが最初にアレックスに疑問を持ったのは、そのグリーンの瞳であった。そこから切れ切れの消えかけた情報を拾い集め神殿へいきついたのだ。
「アレックス様の本当の名前はマキシス様。産みの母は愛妾の方です」
「ご存知ですか? その金色の小さな粒は、愛妾の方の血族に引き継がれる特性なのです。東方の国で、遺伝、と呼ばれるものなのです」
アレックスいやマキシスにとって、正妻腹の嫡子と一日違いで双子のように似た容姿で生まれたことは、幸運であり不幸であった。
本物のアレックスの死亡を知った産みの母の愛妾が、公爵家の嫡子と成り代わることを公爵にねだらなければ、マキシスとして財産を分与され、相続人にはなれなくとも公爵家の血筋として優遇される人生もあったはずなのに。
「連れて行け」
ライオネルの命令に公爵家の騎士たちが、抵抗する公爵とマキシスと愛妾を力任せに引きずった。
「わしは当主だぞっ!」
公爵が叫ぶが、ライオネルが冷たく切り捨てる。
「いいえ、今は僕がハルム公爵です」
公爵家の実権は公爵夫人が、もう10年以上前から握っており、加えてこの10日間で王家と貴族院に根回しをして、父公爵は資格のない者を後継者にした罪により隠居、ライオネルが新しいハルム公爵となっていた。
もはやハルム公爵家にとって不要なもの邪魔なものとなった公爵と愛妾は、牢屋のような部屋に監禁され、長くない余生をおくった。
マキシスは断種の上、彼の放蕩によって人生を壊された女性たちのもとへ送られ、その後、行方不明となった。だが、王国籍すらないマキシスを探す者は誰もいなかった。
背の高い木々の樹冠は、孔雀の羽根を広げたかのように錦色に美しかった。
紅く、赤く、朱く、茜色の紅葉も、鬱金色黄金色の黄葉も、黄緑白緑深緑と様々な緑の葉も、オーケストラが奏でる音楽のように重なり、鮮やかな色彩の葉のグラデーションが生きた名画のようであった。
秋の鳥たちの羽音が鳴き声と共に響き、上へ、上へ、小さくなって遠のいていく。
「綺麗ですね」
「ああ、綺麗だな」
ティティリーゼとライオネルは、ハルム公爵家の別荘のテラスから木々の景観を楽しんでいた。
ティティリーゼとライオネルが、正式に婚約をかわし半年がたっていた。
「あら、ライオネル様。手の皮膚が少し厚く硬くなられましたか? 剣の稽古を頑張っていらっしゃるのですね」
神童と言われるライオネルだが、こうして努力を認められるとやはり嬉しい。
ティティリーゼは常に歩み寄ってくれる。
向かい合って話をしてくれて、ちゃんと聞いてくれて見てくれる。いつも優しい気遣いで包み込んでくれて、その温かさが身体中に染み込むようにライオネルは感じていた。
まるで陽だまりのように心地よい。
心地よくて、片時もティティリーゼを離したくなかった。一日、一日と日を追うごとにティティリーゼへの執着が強くなっていく。他の人間に笑いかけるティティリーゼを考えるだけで頭が煮えた。縛りつけて余所見もさせず、ティティリーゼを鎖で繋ぎたい、とライオネルはひっそりと思っていた。
「ティティリーゼと早く結婚したい。結婚してずっと屋敷で僕だけを見て欲しい」
「はい、ライオネル様が成人した時には。それまでは婚約者として、今だけの時間を楽しみませんか? お散歩したりお茶会をしたり、たくさんたくさんデートをしたり、そうそう馬にも乗せて下さいませね。ね、ライオネル様、色々なところへ行きましょう? 結婚したら二人で旅行も行きましょうね?」
「うん、デートはしたい。ティティリーゼと二人で乗る馬もいいね。二人で旅行、二人なら楽しいだろうね」
ティティリーゼは、だんだんと粘着を隠さなくなってきたライオネルをあやすのが上手い。独占欲の塊になりそうなライオネルを、巧みに操縦して丸め込む。
「あっ、そう言えばライオネル様、先日の夜会でのことなのですが。ご存知ですかーーーー」
王族の秘密を知ることになるライオネルが、聞かなければ良かったと後悔すると同時に、獣のように舌舐めずりすることになるまで、あと数分。そして、ティティリーゼが「ご存知ですか?」と言う時には、覚悟をもって聞こうとかたく誓うのであった。
読んで下さりありがとうございました。