5 天使
カソードは、大事そうに白くて大きな花を抱えて倒れていた。
「カ……」
名前を呼ぼうとしても、まともに発生できなかった。会長の言っていた言葉を思い出し、このままでは死んでしまうと確信したから。
「この花を持って、はやく、会長のところにいかなきゃ……お姉ちゃん、いるんでしょう? 連れて、行ってくれないかな。僕、もう、歩けそうにないんだ」
カソードは苦しそうに咳をする。
彼の目は白く濁っていて、素人の私でも目が見えなくなっていることは理解できてしまう。全身、髪の毛も、目も、すべてが真っ白に変色している。
私は、カソードの手を握って嘘を吐く。
「わかった。教会に連れて行くわ。きっと会長なら治せるわよ」
「ふふ、ありがと、おねえちゃ、ん」
きっと、会長のことだ。花が咲いたことを嗅ぎ付けてやって来るに違いない。この花がカソードの生命力を吸って成長したものならば、渡すわけにはいかない。
逃げよう。
私はエンジニアだ。
このリングの町の構造は、他の人に比べて詳しい。きっとうまく逃げられる。隣のサテライトまでは決して近くはないけど、それでもこの花を、カソードを会長に渡すわけにはいかない。
私はカソードの手を取って、逃げる選択をした。
※ ※ ※
水滴の音がする。
どこかの水管が経年劣化で割れてしまっているのだろう。聞こえてくるのは、その水滴が反響する音だけ。
「まだ、つかない?」
カソードが弱弱しくたずねる。
「ごめん。少し、工事していたから遠回りしているの」
カソードの右手には私の左手が握られ、左手で抱えるように花を抱えている。図鑑で見た向日葵にも似ているが、確か向日葵は黄色の花を咲かせていたはず。カソードの抱える花はその全部が白に覆われている。カソードの周囲だけ、色彩を欠いたような。
私は勘を頼りにして道を進む。
もう既に私の知らない道に来ている。ここまでくれば、もう誰にも会わないだろう。
「何しているの?」
不意に後ろから声を掛けられる。女性の声だ。私と同じくらいの年の声だ。
「誰?」
カソードが声の主に問いかける。
「私はここの管理人という感じかな。時々迷う人がいるから、道案内をしているの」
「そうなんだね。あのね、僕……」
興奮が体に障ったのか、カソードはひときわ大きな席を何回も繰り返す。
「ちょっと待って。あなた何者なの?」
こんな場所に人がいるなんて聞いたこともない。それにこんな何もない場所でどうやって暮らしているというのか。
「さっきも言ったと思うけど、ここの管理人よ。といっても自称だけどね。そんなに警戒しないで欲しいな」
「道を、教えて欲しいんだけど……、教会までの、道」
「教会……」
女はその噛み締めるように繰り返す。
「水ももらえないかしら。この子に少しでも飲ませてあげたいの」
完全に信用したわけじゃないが、くれるというのなら貰っておきたい。
「水で避ければ、いくらでも出すよ。でも条件がある」
「「条件?」」
私とカソードの声が重なる。
「条件はひとつ、その花よ」
女は花を指差していう。
「これは、その……」
カソードが言いよどむが、私はそれはそれで構わないと思った。会長の手に渡るくらいなら、いっそこの人に渡してもいいと。不思議だけど、この人は信用できる気がするから。
「そんなに心配しなくてもいいよ。私はそれを奪うつもりはないの。少し観察というか、よく見てみたいだけだから」
女が花に手を伸ばすと、男の声が響く。
「ほう、ここに来ていたのか、カソード。君はやはり導かれし子供なのだな。感心するよ。我らが神も喜んでおられるだろう」
「会長」
まさか、どうしてこんなところに。
「くくく。そして、君は私の目的も達成してくれているじゃないか。『天使』もどうやら、その花に引き寄せられたらしいな」
「『天使』? あなたが『天使』なの?」
カソードは、目の前に女に抱き着く。天使は会長がよく言っている、「奇跡を運ぶもの」らしい。もはや、私は会長のことを信用していないが、しかし、天使というものが本当にいるのであれば、この姿になったカソードを治せるかもしれない。きっとカソードもそう感じているのだろう。
抱き着かれた女は、狼狽えているもののカソードを引きはがそうとはせずに優しくその頭を撫でている。
「そう……だな。私は自分が天使だと思ったことはない。でも、天使とこいつらに呼ばれていることは確かだね。少年、そこで君に話をしたいんだけど、いいだろうか」
カソードは抱き着いたまま頷く。
「私も永い間を無駄に生きていたわけではないの。人間の良し悪しというものは、多少なりとも理解しているつもり。そこの少女は、君の姉なんでしょ? 悲しませたくないんでしょ?」
カソードは今までのことを、ゆっくりと話し出す。
自分の体が弱いから、お姉ちゃんが国家資格を取ってくれてエンジニアになったくれたこと。仕事ばかりでお姉ちゃんに苦労を掛けしてしまって、お姉ちゃんを幸せにしてあげられなかったこと。僕は自分の体が何かに蝕まれていることを自覚していたけど、これでお姉ちゃんを自由にしてあげられると思っていたこと。本当は、立っているのもやっとだったけど、頑張ってお姉ちゃんには明るく接していたこと。
「僕は、会長に感謝しているよ。でも、これ以上お姉ちゃんの辛そうな声を聞きたくないし、困らせたくない」
「きっとできるよ。君と私なら」
「僕は、そのために何かできるの? 天使様」
「できるよ。私と契約すればね」
「何を勝手なことを! 天使の分際で! 神の生贄としての役割しかもたぬお主は、私と契約するのだ! 私が神になるのだ!!」
会長が目を見開き、天使と呼ばれた女を指差し、睨みつける。
「悪いが、お前は勘違いをしている。大きな勘違いを」
女が会長を睨みつけると、会長の体はふわりと浮かびあがり、鉄の壁に打ち付ける。
ゴツッという、何か谷和原無いものに包まれた金属が、堅いものにぶつかる嫌な音がする。
「私が誰と契約しようと勝手だ。それにこの花はお前のではない。この少年のものではないか」
女は冷たい目で、壁に打ち付けられた会長を睨んでいる。
「い、今何を?」
今何をしたの。会長の体を吹き飛ばしたみたいだけど、一体どうやって。
「魔法……って私は呼んでるけど、正確には何の力なんだろうね。怖い?」
その問いに私は頷かない。
怖いとは少し違う、理解できないとんでもない力だということはわかるけど、やっぱり、この女、天使と呼ばれた女性のことを私は、信じたいと思っていた。
「うん。私がカソードと契約するのは嫌かな? この白くなった身体も、治してあげられるだけど」
「契約。でもそのかわりに代償があるのでしょう? そのカソードの身体を治すんだから」
「代償……そうだね。でもこれは代償というよりはお願いに近いんだけど」
「私を差し置いて、なぜ話を進めているのんだ。私を契約するんだ。私が次の神になるんだ」
「だから、天使じゃないって。とにかく、ちょっと黙っててくれないかな」
さっきと同じように、視線だけで会長の動きを止める女性。
会長は、身動きが一切取れないこと、自分の喉から声が出ないことに狼狽えている表情を浮かべる。なんともおかしい表情だ、私は笑ってしまいそうになる。
「魔法ってさっきはいったけど、そんなに深く考えないでね。超能力とか、ちょっとした特殊能力なんだと思う。今の私には少しばかりの時間稼ぎしかできないけどね」
ふふっと髪をかきあげて笑う。こうしてみると、少し赤い色の混じった長い髪の毛が綺麗だ。
「で、私のお願いなんだけど」
「なに?」
やっと自分のわかる話になったのか、カソードが女性を見上げる。目は見えないが、声がするほうに顔を向けている。しっかりと聞いておきたいのだろう。
「このサテライトから出して欲しいの。もっと言うと、空を見たいの」
「「そら?」」
「ふふ。そんなに変かな。空を見たいんだ。昔みたいに青くて広い空をね。この機械仕掛けの世界じゃ、とても空を見ることは出来そうもないもの……」
「そ、そんな。約束なんてできないよ。だって、空は……」
「知ってるわ。私だって知ってるの。今は生き物のまともに住めるような世界になっているでしょう? そんなことは痛いほど知っているの。でも、私が何とかしないといけないの。その空を」
歪んだ顔の、女の唇から血がつとと流れる。
「ごめんなさい。さっきから君のことをカソードって呼んでるけど、私の名前まだいってなかったね。ルルよ」
「ルルお姉ちゃん?」
「お姉ちゃんは恥ずかしいよ。そっちのお姉ちゃんは名前なんて言うの?」
「エリシアよ」
「二人ともいい名前じゃない。それで、カソード。どうかな、連れてあげて欲しいんだけど」
「それで、僕は強くなれる? お姉ちゃんを守ってあげられる?」
「守れるよ。きっと」
カソードは何かを確かめるように、小さく何度も頷いた。