1 いつもの生活
私はドアをノックする。
腐食した薄い金属なのだろう、高温の頼りない反響音が、幾条にも重ねられた階段に響く。今日の仕事はここで終わりの予定だ。私一人だけで済む問題ならいいのだけれど、こういう期待はしない方がいいことは知っている。人間期待しすぎると、いざその通りに行かないと異様に損した気分になるから。
いっそ、私だけじゃ解決できない問題の方が楽だなと、ドアが開くのを待ちながら思う。その場合は「今日はすみません。来週また来ます」と言うだけでいいのだ。つまり現状確認だけで済むのだから、時間は大幅に短縮できる。
「はあい」
間延びした男性の声がする。
「あ、こんにちは。私、リング署エンジニア課の者です。お困りのことがあるとのことで訪問させて頂きました」
「えんじにあ?」
老人はまるで初めて聞いたことのある単語を確認するかのように発音する。しわがれた手がドアを開き、深く刻まれた皺の中の目が私を見据えてくる。
あ、これは厄介なパターンかもしれない。
「なんえ、 いくら連絡しても来なかったくせに、今頃のこのこと来よって。とっくに近くの兄ちゃんにお願いして見てもらったわ。だから、もうええ。帰ってくれ」
「あ、いえ、そういうわけには行かなくてですね。結局それもちゃんと直っているのかも確認しないといけないので、見せてもらいたいのですが」
「はあ!? あんたはヴォルク君のことを信用しないってのか? ヴォルク君はほんとにいい子で……」
誰ですか。そのヴォルク君っていうのは。
「えっと、すみません。とにかく確認だけでいいんです。そうしないと最悪、火事になってしまったりしますから」
この地下空間には、沢山の電線が通っている。そこら辺の道や、階段。床の下、天井の上、壁に沿って電線が幾条にもなって伸びている箇所もある。それらが経年劣化や、害獣によって傷つけられ埃なでショートしてしまうと火事になる。
火事自体はまだいい。それらによって、近くの電線までもが損傷してしまうと、辺り一帯が停電になってしまう。
電気がないとこの地下施設ではろくに生活が出来ない。
娯楽、食事などに困るのは当たり前だが、最悪の場合、空気循環器系が機能しなくなってしまうと、窒息か汚染された空気による中毒で死亡してしまう。
「なので、現場を確認させて頂くだけでいいんです」
「あー、わかっとるよ。じゃが、のう……」
首の後ろをぼりぼりと掻きだす老人。
なるほどねー。
「でしたら、また後日こちらに来させて貰ってもいいですか? 今日はご都合が合わないみたいなので、来週の時間があるときにでも来たいのですが、何日が空いてますか?」
「お、おお! それなら助かるわい。来週の火の日にもでも来てくれればええ。それで頼む」
こういう閉鎖された空間だと、娯楽がろくにないから、みんな自分の部屋に「特殊な環境」を構築している。室内で小動物を飼育したり、禁止されている古代魚の水槽があったり、違法タバコや薬物、室内全部がゲーム用の環境になっていて至急電力を大幅に超過している場合もよくある。
だから、きっとこの老人も都合が悪いのだろう。
私個人としては、それを咎めるつもりも権利もないのだけど、署の職員が来たというだけで警戒するのは理解出来るし、早く家に帰って弟の面倒が見れる口実にもなるわけだから、正直有難い状況である。
「では、また来週来ますね」
とっておきの笑顔で私は、老人に挨拶をして帰ろうとすると、作業服の袖を捕まれる。
「ちょっと、待っとってくれ。今ヴォルク君呼んでくるから。お姉さん独身だろう? ヴォルク君に一回会ってみてくれんか」
なんで? とは言わずに私は笑顔のまま首を横に振る。
「あ、いえ、指輪をしていないだけで、結婚してます」
嘘だけど、これは何回も、どこでも言っている言葉だからもはや真実と言ってもいい。職場でもそう言っているのだ。寂しいけど。
「はえ、そりゃあそうだわな。こんな美人さん放っとくなんておかしいもんな」
「あはは、では」
私の気持ちは既に帰路についている。ぞんざいに手を振って老人から逃げるように、階段を降りて行った。
上司に帰りがけにメール送るために端末を確認すると、今日の日付に驚く。
「あれ、今日って給料日じゃん」
普段はそんなに気にすることはないけど、今日はなんとなく嬉しくなってしまう。火薬家に帰れるうえに、給料日。これは弟の好きな果物を買って帰ろうかな。そんなに高級なものは買えないけど、缶詰くらいなら贅沢してもいいだろう。
いつもお世話になっている万事屋に立ち寄って、缶詰果物の詰め合わせを買った。私のこぶし大の缶詰3つでも結構な値段がする。
果物をどうやって地下で作っているのかは知らないけど、難しいことはわかる。きっと膨大なドームを作って、とてつもなく大きい電灯とかで育成しているのだろう。弟にも見せてあげたいな。そういう景色も。
本当は、ただただ広がる畑を見せてあげたいけど、それが夢なのは知っている。夢というかもはや伝説というか、過去の栄光というか。神話とさえ言っても良いかもしれない。
最近はやっている小説はだいたい、地上の世界はきっとこうなっているとSFチックに書かれたものが人気らしい。私は詳しくは知らないけど、きっと夢であふれている物語に違いない。……そんなものを見てしまったら私はきっと、現実との違いに絶望してしまうかもしれない。
「ただいま」
「おかえり、おねえちゃん」
家に帰ると弟のカソードが出迎えてくれた。
「あら、今日は調子がいいの? 出迎えてくれるなんて珍しいじゃない」
「うん。無理しちゃダメってわかっているけど、ちょっとだけ家事もしたんだよ」
それでも弟のカソードの体調を慮ってじっとしていて欲しいのだが、そのことを口にも出さず表情にも出さずに、笑ってみせる。
「今日は帰りに果物を買ってきたの。後で一緒に食べましょう」
「わーい。僕シロップ漬けの果物大好き」
カソードは両手を挙げて喜びを表現している。本当は飛び回りたいくらい嬉しいのだろうが、その体力がないから控えめになっている。
「私、ご飯作っちゃうから、カソードはゆっくりしていていいわよ」
「ううん、僕も手伝うよ」
カソードは、私と台所に立つための台を持ってきて隣に立つ。カソードはまだ8歳と言うこともあって、背は小さいのだけど、きっと同年代の子と並んでも小さい方だと思う。
カソードの病気はそう珍しいものではないけど、こんなに小さい頃から発症してしまうのは極稀だ。
この限られた世界、サテライトの中でも私達は土地の値段が高い区画に住んでいる。カソードは空気に敏感だから、このサテライトで一番空気の綺麗なこの区画に家を借りている。本来なら、ここに住めるのは私達の住んでいるサテライト、リングの市長や議員などの重要人物か、過去の戦争で活躍した元士官などに限られるが、特別に申請してここに済ませてもらっている。
この区画に住むのは、いくら国家資格を有するエンジニアでも簡単じゃないけど、身体的にも、精神的にもカソードには良かった。カソードは私の負担を少しでも軽くしようと、庭で植物を育てて売っている。娯楽もない世界では花も高額で売れるのだが、もともと肥沃な土地ではないから、植物はなかなかうまく育ってはくれないらしい。
それでもカソードは、土をいじったり植物のことを勉強するのはとても楽しいという。
機械社会であるこの世界で、植物学を勉強するのは無駄なことだと馬鹿にされる分野だ。何の意味もない、あってもせいぜい「地上世界小説」に世界設定として組み込める程度しかない。
「今日は何していたの?」
「昼までは、庭で土いじってて、その後はノノさんが持ってきてくれた本で植物のことを勉強していたよ」
「ふふ。それは良かったわね」
「ノノさんのところに今週は行けるかな。久々に僕も会長に会いたいよ」
「きっと行けるわよ。果物も食べれば栄養も取れるから良くなるわよ」
台所で久しぶりに平和な時間を過ごして私は、すごく満たされた気分になった。思い付きで果物を買ってきてよかった。