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一話





 とてもうつくしい光景であった。

 とてつもなく悲しい光景であった。

 流れる涙の理由が分からなくなるほどに、胸を掻き毟りたくなる理由が分からなくなるほどに、叫び出したくなる理由が分からなくなるほどに。

 その光景は、人知を超えて途方もないものであったのだ。

 地獄をも照らす光とは、即ち地上を焼き払って初めて地獄にまで届くのだ。

 あまりにも眩い光に男は目を奪われ、色素を奪われ、やがて命を奪われた。

 世界にはなにも残らない。

 男がいた痕跡など、なにも。

 影さえ残すことなく、男は死んだ。

 死んだのだ。




「カインヘル・アベルカムだな」


 下町の安くて美味くて小汚い食堂に大層不釣り合いな貴人が現れたのは、カインがシチューへパンをびったびったに浸しながら食べている真っ最中のことであった。

 どこぞの貴族の使者らしき男はべらべらと何事かを述べているが、カインは気にせずびったびったのパンを食べる。

 クリーミィなシチューがパンの塩気と相まって、口の中で蕩けるのが最高だと評判なのだ。ほんのり臭みの残る肉は日替わりで、今日は狸のような気がする。

 至福と称される時間を邪魔するように、男ががなりたてる。

 どうやらカインが話を聞いていないことに気づいたらしい。声をかけられたときから顔を上げてもいないのに、遅すぎる。とんだ愚図だ、のろまだ。カインは内心で処断して大きく切られたにんじんに顔を顰める。

 この根菜はなにを思ってカインの皿に潜んでいるのか。

 根菜よ、お前も生きているのなら、抗ってみせるべきではなかったのだろうか。なにを悠長に人間に引っこ抜かれて調理されているのだ、情けないとは思わないのか。

 なけなしの死力を尽くして今すぐに自分の皿から逃亡すれば見直してやる、とカインがにんじんを凝視するも、にんじんはいつまで経ってもカインの皿に居座ったまま。よほどシチューの風呂が気に入ったらしい。根菜界ではこのクリーミィなシチューが美容に効くのかもしれない。それとも疲労などの湯治目的だろうか。


「カインヘル・アベルカム!」

「大声出さなくたって聞こえてるよ、俺はあんたより若いんだ、見れば分かるだろうが。あんたより若いのくらいひと目で分かるだろうが。ぴっちぴっちなんだよ。若者なんだよ、青年なんだよ、あんたと違っておっさんじゃないんだ」


 とうとうテーブルに強く手を叩きつけられ、皿が一瞬浮いた。

 シチューがぴちょりと跳ねるの幸いテーブルを汚すこともなく、しかしこのままでは頑固そうな目の前の男もといおっさんにテーブルをひっくり返すという蛮族でもしないような最低最悪文明からかけ離れた畜生の行いをされるかもしれないと危惧して、カインは今度はちゃあんと良い子のようにお返事してみせた。

 それなのに、ああ、それなのに。

 一体全体何が不満なのか、欲求不満なのか、男は大層お怒りである。

 確かにその平均値から逸脱著しい部類のご面相と突き出た腹では若い娘も美しい女もなんなら男もそばへ擦り寄ろうなどとは思わないだろう。擦り寄るとすれば男ではなく男の持つ金とか地位とかの付属物である可能性が高い。むしろ、男がそれらの付属物なのか。


「安心しろよ、おっさん」

「なんの話だっ」

「人間の顔じゃねえよっと間違えた。人間は顔が八割あとは金だよ。おっさんにもチャンスはあるって」


 男は豚のように荒々しい呼吸を上げて、肩をぶるぶる震わせている。


「私のことはどうでもいい」

「そんなことないよ、おっさんがいないと寂しいよって言って欲しい構ってちゃん?」

「黙れ。カインヘル・アベルカム。我が主がお前を御召しだ」


 カインはじゃがいもを掬って頬張る。

 蕩けた表面、ほっくりとした内側。食べたものの胸も腹も暖かく満たすであろう味。


「ひひゃへえよ」

「口にものを入れたまま喋るやつがあるか! これだから卑しい身分のものは」


 男の言い草に、カインとのやりとりをにやにや笑いながら見守っていた他の客があからさまに顔を顰めた。

 カインはごくり、とじゃがいもを飲み込む。


「知らねえよ」

「ふん、自らの育ちを……」

「いや、おっさんのご主人様が用事とか知らねえって言ってんの。興味ないんで帰ってくれます?」

「我が主をラストベル侯爵家嫡男と知っての無礼かッ」


 カインは眉を寄せた。

 ラストベル侯爵家。

 カインの表情に貴族の名に流石に己の言動を改める気になったかと、男が鼻を鳴らす。


「いや、誰だよ。知らねえよ。会ったこともなけりゃ他人だろ」

「……ッッ傭兵風情が大概にしろ!!! 栄えある侯爵家のご嫡男が薄気味悪い真白の幽鬼なんぞを直々に御召しなのだ!! 大人しく従わんか!!!」


 カインはあからさまにため息を吐いて、男の口へにんじんを叩き込んだ。

 大きく切られたにんじんは男の口にも余ったのか、それとも喉に詰まったのか、もがもがと苦しそうな様子を見せる男にカインは椅子から立ち上がる。


「カチンときたから責任者に謝罪と賠償を請求してくるわ。おら、侯爵様のお屋敷まで案内しろ、この野郎」


 カインは男の尻を蹴り飛ばし、病的なまでに真白い顔へかかった老人のように真白い髪を蝋燭のように真白い手で払った。

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