饗宴(前編)・3b
激しい雨が降り始めた。谷を埋める靄はますます濃くなり、水量を増した興津川が山間からほとばしり出て、岩だらけの川岸には水が溢れている。
ホテルのバルコニーからロープを伝って地上に降りてきた天野妙子とオットー・ハイネマンは、雨を避けるために木陰に逃げたが、そこは落雷の危険があるので、さらに別の場所へ移動しなければならなかった。足元は大きな石がごろごろしていて、ひどく歩きにくい。
妙子の水色のブラウスはずぶ濡れになり、肌にぴったりと張り付いている。オットーは自分が着ていた背広を妙子に着せてやった。山の雨は冷たかった。
二人は自分たちだけの考えでホテルを脱出したわけではなかった。さりとて何者かに拉致されたというわけでもない。自らの意志でそうしたことは間違いないのだが、誰かによって手引きされなければ、このような判断には至らなかっただろう。
妙子たちは、ある人物に導かれて、大きな岩と岩の間に逃げ込んだ。
「さっちゃん、これからどうするの?」
びしょ濡れになって震えている妙子は、目の前にいる女性に話しかけた。彼女がたった一人で、妙子とオットーをここまで連れてきたのだ。その女性は黒い光沢のあるボディスーツに身を包み、くちばしのように先の尖ったバイザーの付いた黒いヘルメットで頭部を隠し、白鳥の羽のように二つに割れた黒いマントを羽織っている。彼女は二人に背を向けて立ち、岩陰から周囲の様子を伺っている。
「ねえ、さっちゃん」と妙子はさらに声を掛けた。
「何度言ったらわかる。私はさっちゃんなどではない」
女性は振り返りもせず、妙に芝居がかった声で言った。「私は闇に蠢く黒い白鳥、偽りの世を真実で照らし、人々を迷いから救う、新時代の先導者であり正義の求道者、美しき仮面の守護神ブラック・スワンだ」
「どこからどう見てもさっちゃんなのよ」
妙子は憐れみのこもった声で呼びかけた。
すると、ブラック・スワンは急に囁き声で言った。
「もうちょっと私に合わせて、妙子」
それはどう聞いても、天野幸子の素の声だった。「一応、正体を謎にしているという設定なんだから。クリスチャン・バラードおじさんがわざわざこのコスチュームを貸してくれたんだよ。やりきらなきゃ、もったいないでしょ」
「どうしても芝居を続けたいんだね……」
妙子は悲しいことに、こうやって姉に付き合わされることには慣れ切っていた。
オットーがバルコニーを見上げて、小声で言った。
「俺たちが出てきた部屋に、人が集まっているみたいだぞ」
「わざわざあんなに派手に出てきたんだから、そりゃあ人も集まるよ」と、妙子は呆れている。
幸子はさっき、ロープを垂らして脱出する際に、ホテルの廊下まで広がるほどの大量の煙幕を焚いてきたところだった。ついでに何発か強力な爆竹も鳴らして、何かが起きていることをわざわざ周囲に報せるようなことまでしてきた。
「ねえ、これからどうするの? アレクサンダーさんたちが来ちゃうよ。本当にクリスチャンさんが助けてくれるの?」
妙子の問いに答えるため、幸子は気を取り直してブラック・スワンに戻った。
「もうすぐ私の相棒がやって来るから、心配しないで待っていなさい。妙子とオットーはここから安全な場所に逃げる。あの憎たらしいアレクサンダーは私が捕まえる。それですべてが丸く収まるはずだ」
「丸く収まるはずはないと思うけどな。かわいそうなアレクサンダー……」
妙子は、船上パーティから朝にかけてのガラパゴスドイツ区での一夜を思い出していた。いかにして幸子がアレクサンダーから「あんな女と結婚するくらいなら死んだほうがマシ」とまで言われるほどになったか、あのときの攻防を思い起こせば、こんな強引な方法で解決できるとは到底思えない。
水が溢れる河川敷を、大勢の人たちがやってくる騒々しい物音が聞こえ始めた。雨はますます激しくなり、雷鳴が絶え間なく轟いている。靄の中にライトの光線がいくつもちらついている。
オットーがライトのほうを指さして言った。
「追手だか救助だかわからないが、たくさんやって来たぞ」
「うろたえるなオットー」
幸子はすっくと立ち、光沢のある黒いマントをひらめかせ、威厳を込めた声で言った。「もっと見晴らしの良い場所に出なければ、相棒が着陸できない。私について来なさい」
ヒーローのようなコスチュームがそうさせるのか、妙子は華麗な身のこなしで岩から岩へと飛び移り、水嵩の増した河川敷を勝手に一人で突き進んでいく。妙子とオットーはその後をやっとのことで追いかけた。
もしもクリスチャン・バラードが手を貸してくれているのでなかったら、幸子のこんな酔狂に付き合うことなど誰も考えなかっただろう。
それにしても、姉はなぜガラパゴスから日本へやって来たのだろうか。あれほどエリート官僚として、国家公務員の仕事は休めないと言い切っていた姉なのに。
「ねえ、さっちゃん」
と妙子が声を掛けても、幸子はとても声が届かないところまで行ってしまっていた。疑問を解くには、彼女について行くしかない。




