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ガラパゴス・ガーディアンズ  作者: 霧山純
第三話「ヘラクレスとヒドラ(後編)」
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ヘラクレスとヒドラ(後編)・1

 静まり返った学校の朝。春も半ばとはいえ、早朝の空気はひんやりしている。

 昇降口から体育館に向かうには、見晴らしのよい渡り廊下を通らなければならない。みんなが登校してくる一時間も前に、そこを一人、速足で歩く紺のブレザー姿の男子生徒がいた。狂おしいほどの興奮と緊張とで、顔を固くこわばらせている芦高(あしたか)サトルだった。


 体育館の重い鉄の扉は固く閉ざされている。

 サトルは、体育の先生から預かっている古風な鍵を、何度もやり直しながら鍵穴に差し込んだ(ネビュラを使って開け閉めするキーレスシステムに抵抗する年配の職員が、まだ何人かいるのだ)。手が震えているせいで苦戦したが、なんとか開錠できた。

 扉を開けると、館内の冷え切った空気に朝日が流れ込んでいった。エントランスの左手に体育倉庫が配置されていて、エントランス側とアリーナ側にそれぞれ出入り口がある。アリーナ側は大きく開放できるが、こちらは小さなドアだ。サトルは小さなドアのほうから入ろうと、鍵を差し込もうとした。


 だが、その前に一度ネビュラで確認しておこうと思った。

 サトルの視野の中の、体育倉庫の壁が消えた。念のために昨日の録画情報と照らし合わせる。特に変わった様子はない。人がいる気配もない。窓際のほうに、昨日桃井華(ももいはな)と一緒に寝そべった体操マットが積み重ねて置かれていて、それが見えた瞬間、昨日の匂いが蘇って、サトルの胸がどきんと跳ね上がった。

 鍵を回すと、カチリと錠が外れる音がした。開ける前に、サトルは用心深く外の様子を窺った。グラウンドで誰かが走っている姿が見えて、一瞬胸がざわついたが、トレーニングか何かで規則的にトラックを回っているだけだとわかると、なんとか気持ちを落ち着かせることができた。


 ノブを回し、体育倉庫のドアを開けた。

 中を見て、サトルは飛び上がった。思わず出かかった声はなんとか抑えたが、後ずさった勢いでドアノブに激しく手を打ちつけた。激痛と驚きに悶絶して、しばらく息ができなかった。

 体操マットの上に、想定していなかった大きな物体があったのだ。窓からの朝日を浴びてギラギラと輝くそれは、不定形で骨格を持たない水銀の化け物のように思えた。さっき壁を透視したときにはなかったはずのものが、そこにある。


 だが、よく見てみると、それはなんということはない、昨日華と一緒にたくさん見て触っていた、ただのアルミの防寒シートだった。それが体操マットを覆うように広げて置かれていたのだ。昨日仕舞うのを忘れていたのだろうか。

 いや、待てよ……

 サトルの背中に、再び戦慄が走った。ただのシートにしては厚みがある。体操マットの表面の凹凸よりも明らかに膨らんでいる。何者かがシートの下に隠れているのだ。よく見れば、小刻みにシートの表面が震えているではないか。

 勘付かれた! サトルの頭の中に真っ先にその考えが浮かんだ。早く逃げなければ! 本能的に足が外へ向かいかけた。


 そのとき、シートの端から何かが落ちた。小さめの生徒用の上靴だった。それが片方、体操マットの脇に転がり落ちた。シートの中から「やばっ」とかすかに声が聞こえて、短い靴下を履いた白い足がにゅっと飛び出した。チェック柄のスカートの裾も見えた。足の先で上靴を拾おうとしているのか、懸命に探っているが、てんで見当違いの場所をつついている。やがて諦めたらしく、足が引っ込んだ。しかし、シートがまくり上がって隠れきれない。そうやって、そいつががさごそやっているのを見て、サトルは緊張が一気に抜けた。


「桃井さん?」

 サトルは思い切って声をかけた。

「芦高君?」

 と、今度はこもった高い声がシートの下から答えた。

「桃井さん、どうやって入ったの? 鍵がかかっているはずなのに」

「私だって係なんだから、鍵くらいもらってこれるよ」

 それは確かに華の声だった。「それより、早く入りなさいよ。外から見られちゃう」

 シートの下から細い手が出てきて、盛んにサトルを手招きした。サトルは躊躇した。

「ごめんよ、昨日は強引に話をしたりして……。後から考えたら、やっぱりちょっと礼儀がなってなかったかなって……」

「いいから、入りなさいってば!」


 サトルがそっとシートをめくると、中にいた華は懐中電灯を点けて、「ばあっ」とおどけた。

「さあ、早く」

 シートの中は、華の体温で温まっていて、華の匂いがいっぱいで、サトルの胸は一度落ち着いたはずなのに、またドキドキしてきた。

 横になって向き合うと、二人の顔は相手の息を感じるほど近かった。サトルは念入りに歯磨きをしておいて本当に良かった、と思った。華は懐中電灯で交互に互いの顔を照らした。


「桃井さん、いつからいたの?」

「昨夜眠れなくって、家族に心配されちゃったりしたから、思い切って無人バスで夜中に学校に来たの」

「へえ」

「それで、飛び入りで外国の授業に参加させてもらったんだよ」

「どこの?」

「フランス語の授業を受けようと思って、職員さんに訊いたら、フランスは今は夜だからカナダのモントリオールで受けたらいいですよって言われて、カナダで受けたの」

「どうだった?」

「向こうの子たちって、フランス語がすごくペラペラなんだよ」

「だろうね」

「なんで笑ったの?」

「ごめん」

「そうじゃなくて、やっぱり言葉って、地域によって全然違うんだなって思った。自動翻訳じゃわからないニュアンスもあるんだな、って」

「ふうん」

「内容はよくわかんなかったけど、みんなのフランス語を聴いているうちになんだか気持ちよくなっちゃって、芦高君が昨日教えてくれたことの意味がわかった気がしたよ」

「そう、それならよかった」

「それと、今度ちゃんと『ボヴァリー夫人』を読んでみようって思った」

「それを授業で習ったんだ?」

「うん」

 そこまで話して、会話が途切れた。


 交互に顔を照らしていた懐中電灯の動きが止まった。華は自分の顔に光を当てて、一晩中考えて出した結論をちゃんと伝えようと思った。長い間の後、華は言った。

「それでね、私、決めたの」

「う、う、うん」

 サトルは相槌を打とうとするが、喉がカラカラでうまくいかなかった。

「私もヘラクレスに入るよ」

「本当に?」

 両目を見開いたサトルの顔を、華は懐中電灯で照らした。彼はずっと欲しかったプレゼントがもらえた子供のように嬉しそうだ。華もなんだか嬉しくなった。


「私たちの活動が、グラス・リングみたいな大きな事故を未然に防ぐ手立てになるのなら、それはむしろ、大いにやるべきことだと思ったの」

「もちろん、その通りだよ」

「私が宇宙消防士になろうとすることと、ヘラクレスで活動することは、矛盾しない。そうだよね?」

 きっと、それなら龍之介も許してくれるはずだ、と華は心の中で自分を納得させた。

「うん、矛盾しない」

 サトルはうなずき、右手を差し出した。シートの中は狭いので、肘を小さく折らなければならなかったが。

「ようこそ、ヘラクレスへ」

「よろしくね」

 華とサトルは握手を交わした。これだけ距離が近いのに、初めて肌と肌が触れた。

「華ちゃん、君の手って温かいんだね」

「よく言われる」

 二人は笑った。



 正気に返ってから、華は地獄のような眠気に襲われた。思えば昨夜から一睡もしていない。体育の時間はなんとかなったが、その後はさすがに無理があったので、昼休みまでの授業を全部キャンセルしてカフェテリアのソファーで眠ることにした。

 遠くの喧騒をBGMに、心地よくうとうとしていると、なにやら自分の周りが話し声でうるさくなってきた。華が華がと、よく知った声が自分のことを話題にしているのが聞こえてくる。うっとおしく思いながら、華はゆっくり目を開けた。


「ねえ、華、あんた、あの人と付き合ってるの?」

 すかさず目に飛び込んできたのは、沙織(さおり)の好奇心むき出しの顔だった。その後ろに明美(あけみ)美保(みほ)もいる。

「はあ?」

「芦高君と付き合ってるの? あんた、体育のとき彼とよく一緒にいるらしいじゃない」

「なんであんたたちが彼のことを知ってるのよ?」

「噂が広まってるんだよ。どうなの? 付き合ってるの?」

 沙織が矢継ぎ早に尋問してくる。


「そりゃあ、授業は重なってるし、同じ準備係ではあるけど、まともに話したのなんて、昨日が初めてだよ」

「そうかなあ、けっこう前からいつもそばにいるって聞いてるよ」

 確かに、体育のときにはサトルの顔を見る機会が多かった、と華は思い出した。そういえば昨日、彼が言っていたな、「ずっと前から、こういう機会を窺っていた」って。そうか、そういうことだったのか。なんだ、それならあんなまだるっこしいことしないで、最初からパーンと言ってくれればよかったのに。そう思うと、華はなんだかサトルのことがいじらしく感じられてきた。

「ほら、ニヤニヤして、彼のこと思い出したんでしょ?」

「別に、ニヤニヤなんかしてないもん」

 華は自分の両頬を叩いた。


 沙織の尋問がしばらく続きそうだと見て、明美が割り込んできた。

「華、あんたの分も取ってきてあげるから、何食べたいか言ってよ」

「明美と同じでいいよ」

「オッケー、沙織は?」

「私も同じで」

「了解、じゃ、美保、行こっか」

「私は聞いていたいんだけど」

「私に一人で運ばせる気か?」

 明美は渋る美保を連れて、行ってしまった。



 沙織から根掘り葉掘り訊かれた後(もちろんヘラクレスのことは黙っている)、四人は一つのテーブルを囲んだ。明美の大好物のブロッコリーのクリームシチューが四つ、湯気を立てている。ここで初めて判明したのだが、沙織はブロッコリーが大嫌いだった。

 しかし、尋問は続く。


 ブロッコリーを明美の皿に放り込みながら、沙織は言った。

「今日も体育の授業の後、仲良くお喋りしながら歩いていたらしいじゃない」

「別にお喋りしたっていいでしょ」

 華はもう、うんざりしていた。

 そこに明美が参加する。

「でも、いいことだと思うよ。現実の恋を大事にするってことは」

「うん、うん」

 と、美保もうなずいた。明美は言った。

「華、あんたさ、五年も先の、しかも会えるかどうかもわからない人のことを想い続けるより、今、目の前にいる男を捕まえることのほうが、何倍も有意義だと思うよ」

「龍之介さんを悪く言わないで」


「男は青田買いするもんだよ」

 と、美保も加わった。

「青田買い?」

「男の子って、子供っぽかったり、何考えてるのかわからないようなところがあったりするけど、いつかは大人になって、かっこよく成長するの。そうなってから捕まえようと思ったって、そのときにはもう誰か彼女がいるもんよ。だから今のうちに、男の子を青田買いすることが大事なの」


「そうだよ、竜之介さんにはもう彼女がいるかもよ。いや、きっといるよ。あんたが言うほどかっこいいならね」

 と、明美が追い打ちをかける。「芦高君は、買い、だと思うな」

「認めちゃいなさいよ、華」

 沙織がそう言って手を握ってきたので、華は強く言い返そうとするが、なぜか何も言葉が出ず、

「うん……」

 と、小さくうなずいた。

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