黄金の林檎・1a
オットー・ハイネマンは鏡の前で身だしなみの確認をした。相変わらず痩せているが、結婚して食生活が変わったおかげで、昔のように頬がこけてはいない。久しぶりにしっかりと剃った口の周りにいくつか出血を見つけると、乾いたタオルを何度も押しつけた。金髪の髪は昨日ちゃんと切ってきたし、メガネは新調したから曇り一つないし、ネクタイは曲がっていないし、香水も無難なものを選んで、どこからどう見ても何の問題もない。
念のためにジャケットに糸くずやほころびなどがないかどうか、もう一度だけ見ておこうかと思ったが、いい加減やめておいた。もう、さっきから十回くらいやっているのだから、何も見つかるはずがない。
妻の部屋からは、もう何時間も大騒ぎしながら身支度する声が聞こえてくるのだが、一向に終わる気配がない。妻と、その姉と、オットーの母の声がわいわいわいわい何か言っている。
アパートのドアが開く音がして、外から父が入ってきた。父の名はペーター・ハイネマン。息子と同じ黒いスーツの下にベストを着け、胸から白いポケットチーフを覗かせている。父と息子の違いといえば、髪の色が父のほうが若干薄いのと、口髭があるかどうかと、身体の厚みがあるかないかくらいのものだ。
「まだやってるのか?」
父は、女たちの部屋を見ながら呆れた声を出した。「もう慣れたつもりだったが、今日はいつもの三倍は時間がかかっているな」
「車は来たかい?」とオットー。
「とっくに待ってるよ」
父は女たちの部屋を強くノックした。それでも声が静まらないので、ほんの少しだけドアを開けて、そっと声を掛けた。
「おい、いい加減にしないか」
「ちょっと待ってて、ティアラの位置が定まらなくって」
そう答えたのは、オットーの母のヘレナ・ハイネマンだ。母は背が高く、がっしりとした体格で、美しい威厳のある顔立ちをしている。一枚の布を襞を作るようにより合わせたドレスを身にまとい、頭に薄いベールを乗せている。彼女は二人のまったく同じ顔をした女の子の頭を交互に何度も調整しては、納得のいかない様子だ。
「そんなのは向こうに着いてからでもできるだろ」
「途中で人に見られると、みっともないでしょ」
「車に乗ったらわからないよ。もう外で待っているんだから、早くしなさいな」
二人の女の子のうち、ピンクを基調としたドレスを着たほうが、ペーターの顔を見て申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、お義父さん」
義父・ペーターはたちまちデレデレになる。笑うと口髭が上に曲がった。
「いいんだよ、妙子。悪いのは女房だから」
「あら、お父さん、そっちは幸子よ」
「嘘言うな、ヘレナ。幸子がこんな風に謝ったりするものか」
「そういう言い方ってある?」
ピンクのほうが頬を膨らませた。「私だって、たまには謝ることくらいあるよ」
「なんだ、本当に幸子か」
義父の口調は急にぞんざいになった。
黙って聞いていた青いほう(こちらは妙子)が、我慢しきれなくなってクスクス笑った。
「ダメよ、妙子、またティアラが動いちゃったじゃない」
「ごめんね、お義母さん。おかしくって」
妙子はまだ肩を揺らして笑っている。
「そんなの針金で固定しておけよ」
義父はついに我慢ならなくなった。「とにかく出るぞ。もう聞く耳持たん」
ペーターは毅然とそう言い切って、威勢よく部屋を出たのだが、女たちはその後を追うこともなく、相変わらず部屋に残ってきゃあきゃあ騒いでいる。家長の威厳もへったくれもない。
頼りない父の代わりにオットーが声を掛けた。
「パーティ会場にもヘアメイクさんがいるからさ。そっちでやってもらったほうが早いよ。素人じゃどうやったって限界があるって」
「それもそうね」
と、母は急に意見が変わった。「あの子が言うんなら間違いない」
夫に厳しく、息子には甘い、母・ヘレナなのだった。
ハイヤーの運転手は怒ることもなく一家を出迎えた。ちゃんとスーツ姿で白い手袋をはめ、車のドアを開けて待ち構えている。クラシックな黒いリムジンは歴史を感じさせた。ここからすでにパーティは始まっているのだ。




