たんなる異性の限界内の友情(後編)・4a
心の中のもやもやをすべて清算して、しのぶが意気揚々と襖を開けた向こうには、這いつくばって耳を突き出している三人の同僚がいた。
「あんたたち、全部聞いてたの?」
冷ややかな目で見降ろすしのぶに、華たちは首を大きく横に振って答えた。ユズは首が千切れるほど激しく振っている。愛梨紗はふわりと編んだ三つ編みが横にいる二人を叩くくらいに振っている。そして華は、いいえ、私は何も知りませんという表情を装って必死に振っている。
「噓つくんじゃないよ。本当に、しょうがない奴らだなあ」
しのぶは呆れてそれ以上ものが言えなかった。だが、まったく怒ってはいない。むしろ、なんだか嬉しそうでもある。
しのぶの後ろから、赤いフライトジャケットを着た龍之介が、そろりそろりとやって来た。華たちのほうを見ないように、目を逸らしている。
「龍之介さん」
華に鋭い声で名前を呼ばれて、龍之介は一瞬、びくっと身を縮ませた。
「なんだ?」必死で平静を装う。
華は、厳しい顔で龍之介に近づくと、スンスンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。上から下まであらゆる部分を嗅ぎながら、彼の周りを一周する。
「なにも変なことはしてないよ」
龍之介は弁解するように言った。「ちょっと汗をかいただけだ」
華は龍之介を見上げた。
「信じてもいいですね?」
「おう!」
龍之介がきっぱりとそう答えると、華は素直に信じて、心から安心した笑顔になった。それを見て、龍之介もつられて微笑んだ。
「桃井、さっきはありがとう」
何に対するお礼なのかわからない華の頭には「?」がたくさん浮かんでいる。
「さっき、君が叫んでくれたおかげで、何もかもが丸く収まったよ」
いまいちよくわからない華ではあったが、とりあえずこれで一件落着だということだけはわかった。
「私、ちょっとシャワー浴びてくるね」
黒いタンクトップとジーンズ、それに裸足の足という格好のしのぶが髪の毛をかき回すと、細かい汗が飛んだ。「きれいさっぱり洗い流さないと」
先頭を歩くしのぶの後ろから、龍之介、華、愛梨紗、ユズが続いた。そうやって並んで階段を下りていくと、下の階からこちらを見上げる健太郎と父・正人の顔が見えた。早く結果が知りたくて、いても立ってもいられないという様子だ。
「ハイ、ロジャーさん、親父、お待たせ」
しのぶは階段を下りながら、明るく声を掛けた。
「なんだか元気そうだな」父は安心したように言った。
「うん、龍之介と、華たちが来てくれたおかげで、なんか、すっきりしちゃった」
「そいつはよかった」
父は、娘の頭を優しく撫でた。手にいっぱい汗が付いたことにちょっとびっくりしながらも、彼女のがんばりをねぎらうように髪を撫でつけてやった。感無量といった表情だ。
「いろいろお世話になりました」
父・正人は華にお礼を言った。華はここでも、なぜ自分がお礼を言われるのかわからなかったが、とりあえず「本当に良かったです」と答えた。
みんなは居間に入り、思い思いにちゃぶ台の周りでくつろいだ。華が上座に座らされ、龍之介と父・正人に挟まれてぎこちない時間を過ごしている間に、愛梨紗とユズは台所で昼飯のそうめんを茹で始めた。
やがて、しのぶがシャワーを浴び終えて、団扇を使いながら戻って来た。微妙にさっきまでとは違う黒いタンクトップを着ている。
そのとき――
「あの、しのぶ君」
ずっと後ろに引いて気配を隠していた山田健太郎が、いよいよ満を持したかのように、思いつめた顔で一歩前に出た。しかし、声が小さくて、しのぶには気づいてもらえなかった。
そのときのしのぶの目に捉えられていたのは、遠くからのそのそとやって来る白黒のハチワレ猫だった。
「あら、千恵蔵、やっと会えたねえ。お口ペロペロしてるの? ご飯おいしかった?」
しのぶが力いっぱいの猫なで声で話しかけると、千恵蔵も「にゃーん」と甘えた声で答えた。頭をこすりつけながら、しゃがんでいるしのぶの周りをぐるぐる回っている。しのぶは団扇を必死に振って、暑さでふうふう言っている。
「ごめんね、今、汗かいてるから、ちょっと待っててね。後でいっぱい抱っこしてあげるからね」
千恵蔵はしのぶに思う存分撫でられて、とりあえず満足したように両目でウインクすると、お尻を見せてどこかへ行ってしまった。
それをずっと後方で見守っていた健太郎が、今度こそはと思い切って動いた。
「しのぶ君、ちょっと聞いてくれるかな」
「はい?」
「さっき親父さんとも話をしたんだけど、今、もし君がフリーなら、僕と付き合わないか?」
「なんなの、ずいぶんストレートだね」
しのぶはたじたじとなって、逃げだしそうに足が後ろを向きかけた。「そういうことは、じっくり時間をかけて煮詰めていくものじゃないの?」
しのぶの顔はすでに火照って真っ赤なので、それがシャワーのせいなのか健太郎の告白のせいなのか判別がつかない。
父・正人が話に加わった。
「さっき俺がそう言えって、こいつに約束させたんだ」
「勝手に決めんな!」しのぶは叫んだ。
「独り身でフラフラしているより、そっちのほうがいいだろ」
「だから、勝手に決めるなって」
健太郎は、しのぶの近くまでずんずん寄ってきた。しのぶは後ずさる。
「しのぶ君、僕はずっと前から、君のことが気になっていたんだよ。君は気づいていなかっただろうけど」
「それはどうも。でも、私はまだ、ロジャーさんのこと何も知らないし……」
「四時間もお喋りしたのに?」
「あれはまだ、基礎知識の段階だよ」
「僕はいったい何をすればいいんだろう? 教えてくれないか?」
しのぶはうつむいてしばらく考えてから、ぼそぼそと答えた。
「龍之介とは一か月一緒に暮らしたから、いろいろわかったけど……」
健太郎は、助けを求めるように父・正人の顔を見た。父は困ったように言った。
「今から一か月泊めろったって、無理だぜ」
「それじゃあ、どうしましょう?」
「そうだな……」
正人は腕組みをして考えた。着流しを着ている父の、そのポーズはなかなか様になった。いろいろと思案を巡らせた末、突然何かが閃いたらしく、彼は言った。
「そうだな、一つ勝負と行こうか」
「勝負ですか?」と健太郎。
「そう、お前パイロットだろ? 俺も航空関係の専門家だ。空中戦で決めようや」
「それで僕のことが、しのぶ君にいくらか伝わりますかねえ」
「お前のがんばり次第で、その人となりがわかるはずだぜ」
「なるほど、わかりました。それじゃあ、やりましょう、お義父さん。望むところです」
さあ、今すぐ外へ出ましょうと、健太郎が促す仕草をしてみせると、父・正人はぴしゃりと言い返した。
「馬鹿野郎、相手するのは俺じゃねえ」
「は?」
父・正人は突然立ち上がり、台所へ向かって歩いていってしまった。しばらくすると、こんな会話が聞こえてきた。
「ねえ、お嬢ちゃん、飴あげるから、あっちのお兄ちゃんとちょっとだけ飛行機で勝負してもらってもいいかな?」
「うん、よかよ」
げえっ、と健太郎はうめき声をあげた。




