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ガラパゴス・ガーディアンズ こちら航空宇宙消防本部第十七小隊  作者: 霧山純
第十四話「たんなる異性の限界内の友情(後編)」
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たんなる異性の限界内の友情(後編)・3b

 しのぶの吐息が、龍之介の鼻をくすぐった。見下ろす龍之介と、見上げるしのぶの顔が向き合っている。彼女はこんなにも大きくて黒い目をしていたのだ。がんばってこちらに何かを訴えてくるその視線は、龍之介の頭から言葉を考える力を奪った。鼻と鼻が触れ合う距離にあった。もう少し顎を突き出せば、唇さえ触れ合えるだろう。


 龍之介は、この場の雰囲気に流されるつもりはまったくなかった。このまま一線を越えれば、後戻りできなくなる。その先に待っているものは、誰も幸せになれない修羅の世界だ。いや、それ以前に、こんな形でするキスに、龍之介は何の魅力も感じなかった。


「ダメだ」

「いいの」

 龍之介はなんとか一言絞り出したが、しのぶは間髪入れず言葉をかぶせて、逃げ道をふさいだ。


 次の一手をなんとか考えなければと、龍之介の頭が猛烈に回転していた、そのときだった。

 頭の中に大音量の「ワルキューレの騎行」が鳴り響いた。木管のトリルが心をざわつかせ、ヴァイオリンが空を切り裂き、トロンボーンが高らかに歌い上げる。くそ、あのおばさんだ。また連絡がないとかどうとか文句を言うつもりだ。よりにもよって、こんなときに。


 それは廊下で必死に耳を澄ませていた華たちも同様だった。聴覚を極限まで動員していたタイミングでのこの不意打ちに、三人は廊下に這いつくばって悶絶した。驚かせる意味でも、耳にダメージを与える意味でも最悪だった。

 華のネビュラに、龍之介からの必死のメッセージが文字で届いた。

「すまん、桃井、代わりに出てくれ」

「わかりました」

 と文字で答え、華は階段をこっそり降りた。話し声をしのぶに聞かれるわけにはいかない。


 一階の居間では、しのぶの父の正人と、しのぶの旅の道連れの健太郎とが、二階でのやり取りの結果を今か今かと待っていた。

「どうだった?」

 飛びつくように近寄ってくる健太郎を、華は手で制した。

「ごめんなさい、違うんです。早苗さんから通信が入ってるんです」

「なんだよ、まぎらわしい」


 健太郎が居間に引っ込むのを待って、華は階段の一番下の段に腰かけ、ようやく応答の操作をした。「ワルキューレの騎行」がピタリと止まると同時に、早苗の小言が洪水のように襲ってきた。

「どうしてすぐに応答なさらないのですか? そもそも、なぜ私から連絡を寄こさなければならないのです? さっきから二時間も何をなさっていたのですか? 現地に到着したならば到着したと報告するべきですし、あなた方が今何をなさっているのか私が把握できるように常に注意を払うべきでもあるはずです。いったい、あなたがたは何のために――」

 華はネビュラのボリュームをできるだけ小さくして、早苗の無意味な苦情が治まるのを待った。ときどき合間に「ごめんなさい」を挟めば、相手も話をちゃんと聞いてもらえていると思うだろう。


 そうして、ようやく華に話す順番が回ってきた。

「今、龍之介さんがしのぶさんとお話ししているところなんです」

「なんですって? 三国さんは山田さんの監視のためにそちらに向かったはずではないのですか?」

「だって、そうするしかなかったんですよ。しのぶさんのことをみんな放っておけなかったんです。しのぶさん、大変だったんですよ」

「ええ、まあ、それはよいとして、どのくらいお二人のお話は進んでいるのでしょうか?」


 華が早苗からの質問攻めを受けている間も、二階では龍之介としのぶの攻防が続いている。

 しのぶは、埒が明かない龍之介の腕を引っ張って、布団の上に押し倒した。上体を起こそうとする龍之介の上に覆いかぶさり、胸と胸が触れ合いそうなほどに肉薄した。

 しのぶは、龍之介の鼻に自分の鼻をこすりつけた。そして、こう囁いた。

「私を、あんたのものにしてよ。二号さんでもいいからさ。いつでもあんたのそばにいられるようにしてよ」

 龍之介は、まったく動じることなく答えた。

「お前はいつでもそばにいていいよ。ただし、二号さんはダメだ」

「どうしてよ?」

「お前のためにならない」


 しのぶは、龍之介のたくましい胸板をTシャツ越しに触った。温かい感触と、手のひらに伝わってくるゆっくりとした鼓動が、しのぶに安らぎを与えた。そうしながら、彼の優しさの前では、自分のわがままがとてもみっともないものに思えて、しのぶはとてもみじめな気持ちにもなった。

「ごめんね、龍之介。私がこんなにめんどくさい女だなんて、思わなかったでしょ」

「そういうめんどくさいところがかわいいんだよ」

「ばか、本気にするだろ」


 しのぶはぶっきらぼうに言った。素直に感情を吐き出すと、温かいものが胸を満たしてきて、ついこの瞬間まで盛り上がっていたやけっぱちでヒリヒリするような気分が急激に収まっていくのを感じた。龍之介が会いに来てくれただけでも嬉しい。これで、この家に残っていた思い出を大事に心の中に仕舞っておける。放り捨てたり、心の奥に閉じ込めたりしなくても済む。自分の過去を否定して、空っぽの人間にならなくて済む。ただ、しのぶには、どうしても一つだけ、諦めきれないことがあった。


「龍之介」

 と、しのぶは彼の胸の上に指で円を描いた。

「なんだ?」

 しのぶは、目を逸らし、もじもじしながら言った。

「私、男の人とキスしたことないの」

 それはしのぶにとって、格好つけていた自分の殻をぶち破る、一世一代の大告白だったのだが、龍之介はただ一言、

「そうか」とだけ答えた。

「一回だけ、お願い」

 龍之介の上に覆いかぶさったままのしのぶは、懇願するように黒い瞳で訴え、顔を近づけた。「それだけやったら、身を引くからさ」


 そのやり取りを、廊下にいる愛梨紗とユズは食い入るように聞いていた。板張りの床に這いつくばり、襖に耳を押しつけて、お互いにネビュラで「ああああああ」とか、「おおおおおお」とか、ただ本能のままの文字を送り合っている。華のネビュラにも、その二人の文字が送られてきていた。


 階段の下で早苗にやり込められている華は、上で何が起きているのか知りたくて知りたくて、早くこの話を切り上げたくてしょうがなかった。

「桃井さん、監視を怠ってはなりませんよ。三国さんと千堂さんとの間に間違いがあっては大変ですからね」

「龍之介さんが、そんなことするわけないじゃないですか」

 華はとにかくイライラしていた。こんな話をしている間にこそ、間違いが起きたらどうするんだと言いたいのを必死でこらえている。

 早苗は、妙に粘っこい口調でさらに念を押した。

「いいですか、何度でも申しますけれど、もし、千堂さんの身に何かあったら……」


 華は、とうとう我慢しきれなくなった。あらゆる心配と苛立ちと早苗に対する怒りとがない交ぜになって、それが一気に噴火した。

「私が、そんなことさせませんから!」

 家じゅうにその声が響き渡った。


 居間でお茶を飲んでいた父・正人と健太郎の身体が、華の剣幕に驚いて、同時に宙に浮いた。湯呑が手元から滑り落ち、お茶が畳にぶちまけられた。

 もちろん、二階にもその声は届いた。床を突き抜け、屋根を吹き飛ばす勢いだった。這いつくばって耳を澄ませていた愛梨紗とユズの胸を貫いて、呼吸困難を起こさせるほどだった。


 そして、それは龍之介としのぶの元にも届いた。

「私が、そんなことさせませんから!」という華の声を聞いたしのぶは、ここに来て、急にいつもの千堂しのぶに立ち返った。逃げようとする男を絡めとる妖艶で蛇のような女から、チームのために働く男勝りな宇宙消防士に戻った。それは劇的な変化だった。

「華も来てるの?」

「そうみたいだな」と、龍之介はとぼけた返事を返した。


 龍之介の胸に押し当てられていたしのぶの手に、彼の鼓動がどっどっどっと高まっていくのが伝わってきた。さっきまでどんな誘惑を受けようとも、どっしりと揺らがずに構えていたくせに、急に怯える小動物のように心臓が踊っている。龍之介の表情に、明らかな動揺が表れている。


 しのぶは、我慢できなくなって吹き出すと、続けて大笑いした。

「あんたたち、やっぱりお似合いだね」

 龍之介は恥ずかしくていたたまれない。せっかくここまで格好よく決めてきたつもりだったのに、最後の最後でこの体たらくだ。


 しのぶは、笑いに笑って染み出した涙を手で拭うと、大きくため息をついた。

「あーあ、なんか、ばかばかしくなってきちゃった」

「頼むから、忘れてくれ」

「忘れるもんか、一生忘れないよ」

 しのぶは、龍之介の頬を平手で軽く叩いた。そして、真顔で言った。「あんたは私の青春なんだから」

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