たんなる異性の限界内の友情(後編)・3a
「おい、しのぶ、いるのか?」と声を掛けたが返事がない。
そっと襖を開けて覗くと、布団の上に大きく放り出したしのぶの裸足の足が見える。窓は開け放たれており、外から涼しい風が吹き込んで、龍之介の手元の隙間からすっと背後へ抜けていった。
「おい」とまた声を掛ける。外では小鳥がチチチと鳴いて、縁側の風鈴の音がここまで届いた。寝ているのなら仕方がない。返事があろうとなかろうと、龍之介は中に入るつもりだった。
「お前たちはここで待っていろ」
華と愛梨紗とユズを廊下に残し、龍之介は部屋の奥へ入った。そして、静かに襖を閉めた。
畳を踏みしめる誰かの気配を感じたのか、しのぶは薄目を開けて、天井から自分の足先へとゆっくり視線を下ろしていった。
そこでばったり、龍之介と目が合った。赤いフライトジャケットの鮮やかな彩りが、しのぶの脳内に心地よく流れ込んできた。
「龍之介……?」
「目が覚めたか?」
しのぶは横になったまま、自分の隣りにあぐらをかいて座る龍之介を見ていた。何の感情も湧かない、ぼんやりとした表情を浮かべている。
「なんだ、夢か」
と、しのぶはつぶやいた。「いつものやつじゃん」
しのぶは手探りで、すぐそばでぐしゃぐしゃにまとまっているタオルケットをつかむと、黒いタンクトップの胸の上でそれを広げた。もっと本格的に眠ろうとしているようだった。
龍之介は、何度も擦られて赤くなっているしのぶの頬を、そっと指で撫でた。まだ少し、涙の感触が残っている。しのぶは目を閉じたまま、嬉しそうに微笑んでいる。
「もっと触って、龍之介。夢が長続きするように」
しのぶは、本気でこれが夢だと思っているようだ。
龍之介は、頬だけでなく、しのぶの頭にも手をやって、優しく髪をかき回した。しのぶは、催促する猫のように首を伸ばして、龍之介の手に自分の頭を押しつけた。龍之介は、もっと強く髪をぐしゃぐしゃにした。
「夢でいいから、俺の話を聞いてくれ」
「うん」
「お前は、俺にとって、とても大事な存在だ」
「へえ、そうなの」
しのぶは、そう言われるのがさも当たり前であるかのような言葉を返した。「いつもありがとうね」
龍之介は、沼にはまり込んで足が抜けなくなっていくようないら立ちを感じた。しのぶの理想の世界に引きずり込まれて、自分の言葉の意味がすり替えられるのが嫌だった。だから声を大きくした。
「しのぶ、これは夢じゃないんだよ。お前の願望の中の俺じゃないんだ」
「ダメだよ、夢の中でリアルなことを話しちゃ。夢が覚めちゃうでしょ」
しのぶはがっかりした様子で、目を閉じたまま、深くため息をついた。「あーあ、終わっちゃったかな。いつもいいところで終わるんだよなあ」
「だから、夢じゃないんだってば」
龍之介はとうとう、しのぶの肩をつかんで、少し強めに揺さぶった。彼女の目がはっきりと自分を見るまで、それを繰り返した。
夢の続きを期待していたしのぶは、揺さぶられることにしばらく抵抗していたが、あまりにそれが長く続くので、ついにこれはただ事じゃないぞと気づき、急に両目をパッチリ開くと、肘をついて上半身を起こした。
「龍之介? うそでしょ」
「俺だよ、間違いない」
しのぶは、すぐそこに座っている、しかも自分の肩を両手でつかんでいる龍之介に対して、どのくらいの距離を置くべきか、測りかねていた。胸に掛かっているタオルケットをもっと上にあげて胸を隠したかったのだが、もし、それをすると、それを拒絶と感じた龍之介が手を離してしまうのではないかと予感して、それができなかった。恥ずかしいけど、龍之介ならまだ許せる。そもそも、龍之介じゃなかったら別に恥ずかしくない。
ついに場面が次の展開を迎えたことで、襖の向こうの三人は、己の聴力の限界を極限まで拡大しようとするかのごとく、必死になって耳をそばだてた。ひんやりとした木の床に四つん這いになって、身体を寄せ合っている。
「ユズ、あんまり襖に触ると雑音が入るからやめなさい」
華は、声を出すわけにはいかないので、ネビュラを通して文字のメッセージを送った。
「ごめんごめん、耳をくっつけたら、もっと聞こえるかと思って」と、ユズも文字で返事を返す。
「二人とも興奮し過ぎっちゃなかと?」と、愛梨紗は文字でも訛っている。
龍之介はフライトジャケットを脱いでTシャツ姿になると、しのぶの背中に腕を伸ばして、彼女の肩を抱き寄せた。しのぶはされるがままに、龍之介と肩をくっつけた。二人は壁にもたれかかり、並んで座った。
龍之介の鼻先に、しのぶの髪があった。
「ごめんね、汗臭くって」と、しのぶ。
「大丈夫だよ」
二人はしばらくそうしていた。
なぜ龍之介がここにいるのか、しのぶは訊かなかった。訊けば話がリアルになる。リアルにならなければ、まだ夢の続きだと思える。
龍之介は、次に何を言うべきか、慎重に言葉を探した。しのぶがまだ現実を受け入れようとしていないことはよくわかる。力いっぱい抱きしめてやるだけで彼女は満足だろう。だが、いつまでもそうしてはいられない。そうしてはいられないが、次の行動の選択を誤れば、しのぶは二度と耳を貸そうとはしなくなるかもしれない。
絶対に誤解されないような、自分の本当の気持ちを、ここで正直にぶつけなければ。
「しのぶ、俺は……」
「なに?」と、しのぶは顔を上げた。
二人の距離は一センチもなかった。




