たんなる異性の限界内の友情(後編)・2a
しのぶたちから遅れること十五分、龍之介一行はすぐ近くの新横浜の空港に降り、そこでなるべく古い型のキャンピングカーを借りて、陸路でしのぶの実家のある飛行場へと向かった。
龍之介は五年前にこの辺りに少しだけ住んでいたので、地理に詳しい。
「田んぼのど真ん中だとかえって目立つから、思い切って相手の懐に飛び込んでやろう」
龍之介は、キャンピングカーを滑走路脇の廃車置き場へと潜り込ませた。天高く積み上げられた廃車の中に紛れ込んでしまえば、外から人に見られる心配はない。鉄くずやがらくたをタイヤで踏みつけながら、なるべく狭い袋小路の奥へと頭を突っ込んだところで、龍之介は車を停めた。ここなら前と左右が絶壁で、外から見えない。
「お前たち、あんまりはしゃぐんじゃないぞ」
きゃあきゃあ言いながら外へ飛び出していきそうになっていたユズと愛梨紗を、龍之介はとっさに引き留めた。
「龍之介さん、ここからどうするんですか?」
華が訊くと、龍之介は後ろの荷台を親指で指した。
「桃井、さっき積んでおいた道具箱を持ってきてくれ」
「はい!」
龍之介は後部座席をすべて後ろに倒してフラットにすると、そこに道具箱を置いた。華とユズと愛梨紗は輪になって龍之介を囲んだ。
龍之介は道具箱の中を探って、奥から小さなジュラルミンのケースを取り出した。
「お前たちはこれを見たことがあるかい?」
ケースの中には、精巧なアゲハチョウの模型が入っていた。龍之介がそれを手のひらに乗せると、突然、命が吹き込まれたように模型の羽がパタパタと動いた。
華たちは首を横に振った。
「なんですか? これ」と華。
「まだ最近導入されたばかりだから、教科書にも載っていないんだね。こいつはバタフライ三号といって、救助の現場で音を立てずに生存者を探すためのドローンの一種なんだ。黄色い地に黒い線が入っているところなんか、いかにも警戒色で消防って感じだろ?」
「一号と二号はないんですか?」
と、ユズが余計なことを訊く。
「初期型はいかにも機械だというのが丸わかりだったんだが、三号ではかなり改良されて、ほとんど本物の蝶と見分けがつかないんだ」
龍之介がフッと息を吹きかけると、バタフライ三号は自然な動きで宙に浮かんだ。「だから諜報にも使える」
小さく開けた窓から、バタフライ三号は外へ向けて飛び立った。
「お前たちのネビュラにも映像を送ってあげよう」
華たちのネビュラに小さな小窓が開いた。華はそれを視界いっぱいまで広げた。
真下に見える、廃車置き場の全景が次第に遠ざかっていく。視線が九十度起き上がって前方に向くと、横に延びる長大な滑走路が映し出された。そこから横へ三百六十度回転し、辺り一面を眺望する。すべてを見渡すと、滑走路の端のさらに遠くに建っているしのぶの実家が見つかった。昔ながらの和風建築が、この場の景色から浮いて見える。
「あそこに龍之介さんも住んでたんですか?」
華が訊くと、龍之介は「一か月だけな」と答えた。
玄関のすぐ前に駐機されているイ‐6800が見えた。
「ロジャーたちは中かな」
バタフライ三号は建物の裏へと廻り込んだ。南側には縁側があり、小さな畑があって、ひまわりの花がいくつか咲いている。縁側の奥の、日当たりの良い居間にはちゃぶ台が置かれ、そこで健太郎としのぶの父が向き合ってお茶を飲んでいる。二人とも神妙な顔をしているところを見ると、会話の内容はあまりはかばかしくないようだ。
「懐かしいなあ、親父さん」龍之介はつぶやいた。
「思ってたよりダンディ」とユズもつぶやく。
しのぶの姿が見当たらないので、バタフライ三号は上昇し、二階を目指した。龍之介が知っているしのぶの部屋は、南東の角にあるはずだ。見れば窓がめいっぱい開いている。
やや遠巻きに部屋の中を覗くと、広々とした畳の上に敷かれている布団の端が見えて、そばには脱ぎ捨てられた靴下が転がっている。壁には健太郎から借りた青いフライトジャケットが丁寧にハンガーに掛かっている。ここがしのぶの部屋なのは間違いないのだが、肝心の本人が見当たらない。
「ここからがバタフライ三号の本領発揮だ」
大胆にも部屋の中へと飛び込んでいく。そこはすがすがしいほどの日本間で、きれいな畳が敷き詰められ、青い桔梗の花が描かれた襖があり、ガラス戸と一体になった障子が窓辺を飾っている。部屋の端に小さな木の棚があって、かわいらしい宇宙船のぬいぐるみが並んでいる。畳の真ん中にやや斜めに布団が広げられていて、タオルケットがくしゃくしゃに丸まり、すぐ横で古臭い扇風機が回っている。
しのぶはどこにいるのだろう?
バタフライ三号を三百六十度回転させてみるが、人の気配はない。
「龍之介さん、これって犯罪じゃないんですか?」
「まずいかな」
ユズがそんなことを言うので、龍之介も怖くなって、バタフライ三号を部屋から脱出させようとした。
そのときだった。
突然、ネビュラの視界が真っ暗になった。
龍之介も、華も、愛梨紗も、ユズも、全員が同時に真っ暗になったので、驚いて悲鳴を上げた。
「壊れたかな?」
龍之介が操作してみるが、まるで手応えがない。
「電池切れですか?」と華。
「いや、少なくとも三時間は飛べるはずなんだ」
「残念、次の作戦を考えましょう」
ユズがそう言って、道具箱を漁り始めたとき、「待て」と龍之介が片手を挙げた。
真っ暗だったバタフライ三号の視界が、ゆっくりと赤くなり、次に突然真っ白になって、レンズの絞りとピントが調節された後に映ったのは、しのぶの真ん丸な目玉だった。黒い瞳がきらきらと輝いて、まつげがシャッターを切るように上下に何度も閃いた。
「なんだ、蝶か。びっくりさせないでよ。変な虫かと思ったじゃんか」
しのぶの姿が見えなかったはずだ。彼女はバタフライ三号の背後に回り込み、両手ですっぽり包んで捕獲したのだ。幸いにも、潰れるほど強い力では抑え込まれていなかった。
ようやく解放されたので、龍之介はバタフライ三号を操作して、しのぶの目の前で左右にヒラヒラと舞ってみせた。すると、しのぶは優しく微笑んだ。
「あんた、逃げないの? 人懐っこいんだね」
しのぶは布団の上にあぐらをかき、人差し指を天井に向けた。龍之介は、その指先にバタフライ三号を降ろした。羽をパタパタさせて挨拶すると、しのぶは嬉しそうに笑った。
「千恵蔵がどっか行っちゃったから、あんたに話を聞いてもらおうかな」
しのぶは寝転がり、裸足になった両足を天井に向けた。龍之介は、バタフライ三号をしのぶの足の裏に止まらせた。しのぶは腰に手を当てて、両足をうんとまっすぐ上に伸ばした。
しのぶは唸るように言った。
「やっぱり龍之介のことが忘れられないよ!」
華はどきっとして、思わず龍之介の顔を見た。龍之介は真顔で斜め下を向いて聞き入っている。
しのぶは、足の裏に掴まっているバタフライ三号に話しかけた。
「田舎に帰ってきたら気持ちが吹っ切れるかと思ったんだけどさ、かえって昔の記憶がどんどん蘇ってくるんだよ。玄関を入ったときの家の匂いとか、畳の匂いとか、庭の土の匂いとか、全部あのとき龍之介と過ごした一か月の記憶と重なるんだよね。前はそれが楽しい記憶だったんだけど、今はそれを思い出すたびに胸が引き裂かれそうになるんだ。思い出しちゃいけない気がするんだ。なんでそうなるのかな?」
愛梨紗が、隣りのユズのサロペットを引っ張ったので、ユズが「なに?」と訊いた。
「うちら、しばらく外に出とかん?」
あっ、とユズも察して、華に言った。
「私たち、外で待ってるね」
愛梨紗とユズはバタフライ三号との接続を切った。これ以上、しのぶの話を盗み聞きするのはいけないと感じたのだ。
華も、少し迷ってから、やっぱり接続を切った。
「龍之介さん、私も外に出てます」
「ああ」
龍之介はそう答え、一人で車内に残った。彼は逆に、ここは逃げずにすべてを聞くべきだと感じていた。それが自分の果たすべき責任だと思ったのだ。なぜなら、しのぶが発する言葉は、彼自身の行いの結果なのだから。
しのぶは両足を降ろして、布団の上で大の字になった。龍之介はバタフライ三号を八の字を描くように飛ばした。しのぶは言った。
「龍之介が誰かのものになったら、私の五年間もその人のものになるの? 私はその間のことを忘れなきゃいけないの? 龍之介のことを考えることもダメなの?」
しのぶは寝返りを打って横向きになった。
「私と龍之介の記憶が染み込んだ、この家のことも忘れなきゃいけないの? そんなことしたら、私は何になるの?」
龍之介はバタフライ三号を下降させ、しのぶの顔の横で飛ばした。しのぶはそこに手を伸ばした。
「ロジャーさんといっぱい話をして、心を上から塗りつぶそうとしたけど、やっぱりダメだった。龍之介の記憶を捨てることなんてできないよ。そんなことするくらいなら、私、他の男の人なんて知らなくていい。龍之介のことだけ思い出していたいんだ。龍之介が他の人のものになったって、その記憶は私が持っていてもいいでしょ? 私、もう一生独身でもいいんだ。そのほうが、龍之介のことをずっと忘れないでいられるし……」
しのぶはまた仰向けになり、両手で顔を隠した。それから呻くように言った。
「でも、そうしたら親父が悲しむだろうな……」
やりきれない気持ちからか、しのぶは胸を上下させて激しく息を吸ったり吐いたりした。顔を覆った両手の下で、頬がみるみる濡れていく。
龍之介はバタフライ三号をしのぶの手に止まらせた。羽をパタパタさせて、なんとか泣きやませようとした。
しのぶはこちらに手を伸ばし、潤んだ目で訴えた。
「私、もう限界かもしれない。こんなに自分が龍之介のことを好きだなんて思わなかった。こんなに大好きだなんて、自分でもびっくりだよ」
龍之介は、しのぶの伸ばした手の先からゆっくりとバタフライ三号を離していった。
今のしのぶの心は、折れてバラバラになった骨のようなものだ。折れた骨は添え木になるものを当てなければ、曲がったまま繋がってしまう。すべては時間が解決するというのなら、曲がったまま繋がった骨でも解決と呼べるのだろうか?
今のしのぶには添え木が必要だ。




