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ガラパゴス・ガーディアンズ  作者: 霧山純
第二話「ヘラクレスとヒドラ(前編)」
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ヘラクレスとヒドラ(前編)・3

「お姉ちゃん、寝てるなら手伝ってよ」

 居間のテーブルに夕食の皿を運んでいる(つばさ)が、華の顔を見下ろして言った。短パンとTシャツの上にレモン柄のエプロンを着けている。

「寝てないよ」

「寝てるじゃん」

 華は座布団を折って枕にして、畳の上で長く身体を伸ばしている。ゆったりした部屋着姿だ。

「寝てるように見えて寝てないんだって。ちゃんとここにフランス語の参考書があるんだから」

 華はそう言って、顔の上の空中をひらひらと手で煽いだ。目はぼんやりしている。「えっと……、どこまで読んだんだっけ……」

「ネビュラって、そういう便利な使い方があるんだね」

 翼は皮肉を言いながら、台所に取って返した。頭の後ろで左右に分けた髪がぴょんぴょん跳ねていた。


 父と母もやって来て、四人そろっての夕食が始まった。今夜は華の好物のとんかつなのだが、華はどうも箸が進まないようだ。

「あんたの体力の足しになるかと思って、なるべく魚よりお肉にするようにしてるんだけどねえ」

 と、母はしょんぼりしている。

「勉強と運動で無理し過ぎてるんじゃないのか?」

 父はもりもり食べながら言った。両親の職業は大工で、昔から鍛えているので体力は人一倍ある。

「今日はなんだか食欲ないの……」


 華の目はぼんやりしたままで、なんとかがんばって口を動かそうとするが、端からぽろぽろ落ちている。

「失恋でもしたの?」

 翼がこちらを覗き込みながら言う。

「そんなわけないでしょ」

 華は妹のふとももの皮をぴしりと指ではじいた。「ただ疲れてるだけだよ」

 埒が明かないので、とうとうご飯に味噌汁をかけて無理やりかき込み、おかずの肉はほとんど残したままで、華は立ち上がった。

「もう寝るね」

 よろよろと足を引きずるように部屋へ向かう長女を、残された三人は心配そうに見送った。



 実は、華の食欲がなかったのには理由があった。その日、朝から体育三本立て、それから数学、化学、物理と頭をフルに使う授業を経て、最後に苦手なフランス語がやって来たので、華はとうとうウトウトしたまま一時間を過ごしてしまった。

「やばいな、ただでさえわけがわからないのに、授業を無駄に消化しちゃったよ」

 人もまばらなカフェテリアで遅い昼食をとりながら、華は遅れを取り戻そうとタブレットの教科書に目を走らせた。とりあえず理解できないところにペンで印をつけていく。ほとんど印で真っ赤になった。


「あ、桃井さん、お疲れ」

 そこに、体育でよく顔を合わせる男の子がやって来たので、華は軽く会釈した。今日の授業で初めて言葉を交わしたせいか、なんとなく無視し辛かった。

 彼の名前は芦高(あしたか)サトル君といった。紺のブレザーに青いネクタイを着けている。くっきりした眉が凛々しく、運動神経も良くて、美少年と言ってもいいくらいなのかもしれないが、華はあまり興味がなかった。


「今頃ご飯食べてるの?」

 サトルはなぜかテーブルの向かいに座ってきた。ちょっと邪魔かもしれない。

「ごめん、ちょっと邪魔かな?」

「ううん、大丈夫だよ」

 華はサンドイッチをほおばりながら、タブレットから目を離さない。

「俺たち、体育の準備係に選ばれたじゃない? 先生からいろいろ言いつけられている仕事があるんだ」

「あ、そうか」

 華はようやく顔を上げた。今朝、朝一の授業で、華とサトルは体育の用具を開始前に準備する係に任命されたのだった。


 顔を上げてみると、サトルが黒目がちな目でこちらをじっと見つめていたので、華はどきりとした。

「フランス語を勉強しているの?」

 サトルが訊いた。

「うん」

「もしかして、苦手なのかな?」

 印だらけのタブレットを彼に見られたのがわかって、華は慌てて画面を手で隠した。恥ずかしくてたまらない。でも、誰かに相談したい気持ちもある。

「うん……、ちょっと苦手かな……。いや、すごく苦手かも……」


「どのくらい苦手なの?」

「どのくらい苦手とか、そういうレベルじゃないの。もうわけがわからなくて、何がわからないのかわからないくらい、わからないの」

 サトルは吹き出した。

「そのくらいわからないと、授業に全然ついて行けないんじゃない?」

「そうなの。だから焦っちゃって……」


 ふいにサトルが身を乗り出した。

「フランス語なら、僕は得意だよ。フランスに友達がいて、ネビュラでよく会ったりするから」

「本当? すごいね」

 華は感心するものの、彼との間にまだ距離を感じる。サトルは言った。

「とにかくわからないものは早めに潰しておかないと、これからどんどんわからないことが増えていって、大変なことになるよ」

「何がわからないのかわからないんだから、どうしようもないよね」

「君が何をわからないのか、指摘してあげることくらいはできるよ」

「本当に?」


 それはすごく助かる。自分の現在位置を知るだけでも、迷路から抜け出す確かな手立てになる。急にサトルが救い主に思えてきた。

「それじゃ、これを見てくれる?」

 華は、印だらけのタブレットをサトルに渡した。

「これはすごいな……」

 サトルは最初圧倒されていたが、ほんの数秒目を走らせた後、一言で結論付けた。


「まずは音読することだね」

「音読?」

「桃井さんはきっと、文字を読んでも音のイメージが湧かないんじゃないかな」

「そうなの。まず、どう読むのかがわからないから、意味を読み取るのにも時間がかかるし」

「何度も音読することでフランス語の発音とリズムに慣れて、単語を見るだけで頭の中で声が聞こえてくるようになれば、意味もおのずと頭に入ってくるよ」

「そうなんだ……」


 華の中で何かがほぐれた。今まで教科書とにらめっこしていてもまったく理解できなかった、エベレストのように険しかったフランス語が、なんとか富士山くらいにはなったような気がした。

「ありがとう、おかげですごく、不安が解消されたよ」

 華は心の底から感謝でいっぱいになった。ネビュラで彼の名前をちゃんと確かめてから、こう言った。

「ありがとう、芦高君。これからも、わからないことがあったら、教えてくれる?」

「もちろん」

 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


「ところで、体育の係の件なんだけど」

 サトルは話題を変えた。「桃井さんはこれから予定ある?」

「今日は部活が休みだし、特にないけど……」

「体育倉庫に付き合ってくれるかな? 先生から用具のチェックをするように言われたんだ。君も係だから、どうせなら一緒にやったほうがいいと思って」



 高等教育学校では体育の授業と部活動が密接に繋がっている。基礎体力を鍛えるのは体育の授業で行い、部活動は主に試合が中心だ。試合に出られるほどの力があれば、いくつかの部を掛け持ちすることもできる。部活動は試合前に集中して練習を行う他はあまり行われていない。ただし陸上部だけは毎日何がしかの練習をやっている。華は夏はソフトボール部、秋はバスケ部の試合に参加することになっている。試合に出ると、それが単位として認められる。


 試合のシーズンでない体育館は、放課後になると誰もいなくなる。

 体育倉庫は狭いなりによく整頓されていて、種目別に用具が並べられている。サトルはタブレットのチェックリストを読み上げ、その用具がちゃんとその数だけあるかを華が直接チェックしていった。用具に目を走らせるだけで、その輪郭が光って数がカウントされていく。

 跳び箱、体操マット、バスケットボール、バレーボール、バレーのネット、ハードル、走り高跳び用のマットとバーとスタンド――


「このロッカーは何?」

 リストをほとんどチェックし終えた頃、倉庫の端にけっこう大きなロッカーが隠れていることに、華は気づいた。

「それは防災用具だよ。体育館は避難所としても使うから」

 と、サトルはリストから顔を上げずに答えた。

「そうなんだ……、芦高君、ちょっと見てみてもいいかな?」

「戻せなくならないように注意してね」


 好奇心が抑えきれなくて、華はロッカーを開けてみた。ほのかにカビ臭さが漂う。ロッカーの中にはぎっしり物資が詰め込まれていた。飲料水、缶詰の箱、毛布、折り畳み式のトイレ、懐中電灯、古風なラジオ、そして、大量のアルミのシート。

「このペラペラしたシートは何?」

「防寒シートだね。身体に巻いてごらん。あったかいらしいから」


 華はそのアルミのシートを一枚そっと取り出してみた。小さく折りたたまれているが、すごく薄いので、広げるととても大きくなる。

「破れそうだけど、破れないんだね。なんだか、面白い」

 華はシートを身体に巻いてみた。確かにすぐポカポカしてくる。

 サトルもロッカーのところにやって来て、アルミのシートを二、三枚広げ始めた。

「芦高君もやってみなよ」

「うん」

 サトルは頭からシートを被った。それは足先まで覆うほど大きい。華は調子に乗って、さらにもう一枚、頭から被った。それだけで、汗をかくほど温かくなった。


 すると、サトルが声のトーンを落として、囁くように、こんなことを言った。

「桃井さん、今、何時かわかる?」

「今?」

 華はいつものように視野の端に浮かぶ時計を見ようとピントを合わせてみた。

「あれ?」

 ところが、あるはずの時間の表示がない。

「わかんない。時計が消えちゃった。なんでだろう?」


 華はネビュラをいろいろ操作してみるが、何かおかしい。妙に重くて、見たい情報に辿り着けない。もしかしたら、壊れてしまったのだろうか?

「桃井さん、シートを被ったまま、こっちに来てくれる?」

 サトルが直してくれるのかと思い、華はフラフラとそばに寄っていった。彼はアルミのシートでぐるぐる巻きの華を、重ねてある体操マットの上に座らせた。そして、ふいに顔を近づけてきた。

 華はなんだかゾッとして、思わず声を上げた。

「何するの?」

「シーッ」

 サトルは自分の唇に人差し指を当てて、華をそっと押し倒した。

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