たんなる異性の限界内の友情(前編)・3a
華は生来これほどの恐怖を感じたことはなかった。
まさに蛇に睨まれた蛙、猫に追いつめられたネズミ、森で熊と出くわした人間のようだ。戦場で敵兵と鉢合わせになり、ナイフを抜いて睨み合っているときの、あの緊張感とも似ている。人と人とのかかわりの中で、あまりに距離を詰め過ぎたがためにお互いの利害がぶつかり合い、相手が死ぬか自分が死ぬかの瀬戸際に立たされたときの切羽詰まった気分とは、こういうものなのだ。
ダイニングテーブルでパンケーキを食べているだけのしのぶが、とてつもなく獰猛な猛獣のように思える。そんな相手に向かって不用意な言葉でも発すれば、たちまち首筋に食いつかれて息の根を止められてしまうだろう。
華は一歩も動けなかったが、龍之介は勇敢にも、しのぶのそばに近づき、隣りに椅子を置いて、そこに腰かけた。
しかし、一言も言葉を掛けられない。しのぶから発散される無言の威圧感が龍之介の口を万力のように締め付けていた。
「あの、龍之介さんたちは朝ごはん食べて来とーとね?」
愛梨紗が救いの手を差し伸べてきた。
「いや、まだなんだ。ロジャーもだよな?」
健太郎がうんうんとうなずく。
龍之介は言った。
「昨夜、遅くまで飲み食いしていたから、今朝は全員朝寝坊なんだ。さっき俺たちが部屋を出たときに、ちょうど朝飯当番の守が起きてきたような具合だよ」
「パンケーキならすぐ焼けるけん、お二人さんも食べりー」
「おう」
と、健太郎も椅子に腰かけた。「俺はメープルシロップがいいな」
「テーブルに乗っとーけん、好きなの選びんしゃい」
テーブルを見ると、ハチミツやメープルシロップの他にも、バターやホイップクリームやチョコクリーム、さらにバナナやイチゴやブルーベリーなどのフルーツが大小の器に小分けにされて行儀よく置かれている。この豪華さが愛梨紗のこだわりだった。
「プリンとか、アイスクリームもあるばってん、どげんするね?」
「そいつはすごいな、どれどれ」
と、健太郎は立ち上がって冷蔵庫を見に行った。
自然な流れでテーブルには龍之介としのぶの二人だけになる。
華、妙子、ユズ、そして早苗の四人は、一歩も動けずにその様子を遠巻きに見ていた。華は恐ろしさで震えているのに、華以外の三人は、これからいったい何が起こるのだろうという好奇心のほうが勝っていた。
台所では愛梨紗が忙しく働いている。
「しのぶは飲み物は何がよか?」
「私は紅茶がいい」
「龍之介さんは?」
「ミルク」
と代わりに答えたのは、なんとしのぶだった。「龍之介はミルクだよね?」
「ああ」龍之介はうなずいた。
「愛梨紗、ミルクは冷たいやつお願いね」と、しのぶ。
テーブルに温かい紅茶と冷たいミルクが置かれた。
健太郎は自分でコーヒーを入れてきたが、ちょっと離れたところで立ち止まり、椅子には座らなかった。
龍之介としのぶが向き合った。
しのぶは唐突に言った。
「私、横浜に帰るね」
「えっ」
「親父の顔が見たくなっちゃった」
龍之介の顔が固まって動かなくなった。いろんな考えが頭の中を巡っているのか、口をかすかに動かすばかりで言葉が出てこない。
「千堂さん、それはどういうことですか?」
急に身を乗り出したのは寮長の早苗だ。「あなた、もしかして……」
「辞めるとか、そういうことじゃないよ」
しのぶは笑って否定した。
「本当か?」と龍之介。早苗が訊いてくれたおかげで、不安がちょっと軽くなった。
しのぶは言った。
「ちょっと頭の中を整理したくなったんだよ。一週間も休みをもらえたんだからさ」
それから、立っているみんなを見回して、
「あんたたちも里帰りしたらどう? 華も、ずいぶん田舎に帰ってないんだろう?」
急に話しかけられた華は動転した。
「う、うん……」としか答えられない。
「妙子は?」と、しのぶ。
「私は一回家に帰らなきゃ。夫のドイツの実家からご両親がいらっしゃるらしいの。あのプロメテウス号のことで、ずいぶん心配しているみたいだから」
「そうか……」
しのぶがそうやって、これから一人一人を尋問していくような重苦しい空気になったとき、思い切って動き出したのは健太郎だった。
「しのぶ君、横浜に帰るのなら、俺が一緒に行こうか?」
「え、なんで?」
しのぶが拒否感を顔に出したので、健太郎は怯んだが、一か八かさらに踏み込んだ。
「実は、イ‐6800を俺が預かってるんだ。整備部の連中、今回の件でいろいろバタバタして、いろんな調査が立て込んでてさ、受け取りの時間が取れないから、この休みの間だけ、俺に預かってくれないかって頼んできたんだよ。その間、自由に使っていいってさ」
しのぶの顔がぱあっと明るくなった。
「そいつはいいね。イ‐6800なら、親父への何よりのお土産になるよ。あれに乗っていったら、きっと子供みたいに喜ぶよ」
「そうだろうそうだろう」
急に突破口が開けた。重苦しい空気に風穴を開ける一突きだった。それは健太郎だけでなく、ここにいるみんなが同じように感じていた。




