たんなる異性の限界内の友情(前編)・1b
自分の部屋でうとうととまどろんでいた妙子は、何か食器がぶつかるような音を聞いて目を覚ました。皿の山やら、スプーンやらフォークやらを乱暴にかき回すような音や、冷蔵庫を何度も開けたり閉めたりする音が繰り返し眠りを妨害した。
時刻は夜中の二時過ぎだ。さっきみんなで食事の後片付けをしたのが午後九時で、その後順番にシャワーを浴びて、洗濯などを済ませていたら十二時を過ぎてしまって、みんなを寝かしつけた後に(放っておくといつまでも夜更かしするので)ベッドに入ったのがほんの三十分前ほどのことだ。
やっとゆっくりできると思ったら、今度はこの騒ぎだ。
やれやれと思って起き上がりながら、妙子はふと、昼間からずっと気がかりだったことがいよいよ動き出したらしいことがわかって、安心と期待の気持ちが膨らむのを感じた。
ずっと部屋に閉じこもっていたしのぶが、ようやく起きてきたのかもしれない。
妙子はそっとドアを開けてみた。リビングはほとんど真っ暗で、台所のほうで冷蔵庫のぼんやりした明かりが見えるばかりだ。その前で背の高い人影が動いて、ときおり光を遮っている。
妙子は囁きかけてみた。
「しのぶさん?」
妙子はだんだん声を大きくしながら繰り返し呼び掛けた。何度目かの呼び掛けでやっと気づいたらしく、人影がびくっと反応し、こちらを振り向いた。逆光の中で、しのぶの短いくせっ毛の髪が、頭の上で燃えるように逆立っている。大きな黒い瞳には冷蔵庫の光が映り込んでいる。その下は黒いタンクトップに黒いスウェットのパンツという、いつもの部屋着姿だ。
「妙子?」
かすれた声が返事した。「ごめん、起こしちゃった?」
しのぶの声がいくらか穏やかだったので、妙子は安心して部屋の明かりをつけた。ぱっと明るくなって、しのぶのだらしない寝起きの顔がはっきりと見えた。
「お腹が空いたんでしょ」
「うん」
しのぶは照れ臭そうに笑った。妙子も笑顔を返した。
「ちゃんとしのぶさんの分は取ってあるのよ」
妙子はシンクの下の扉を開けて、大きな引き出しを引っ張り出した。それは料理をそのまま冷蔵したり、温め直したりできる便利な収納ボックスだった。
「はい、これ取って」
妙子は重いランチプレートを持ち上げて、しのぶに手渡した。それは今作ったばかりのように温かくて、湯気が立ち昇り、とてもいい匂いがした。焼いた魚と大きなエビ、具がたくさん入ったオムレツ、揚げた芋と、炒めたコメに、スライスされたバナナが添えられている。昼食と夕食をまとめて一つの皿に盛っているので、すごいボリュームだ。
「それだけじゃないよ。大きな豚肉のシチューもあるの。これは今から温めるから、ちょっと待ってて」
大鍋を火に掛けたりしながら、妙子は振り返った。「食べちゃってていいよ、しのぶさん」
「ありがとう、いただきます」
しのぶはがつがつと食べ始めた。ときおりうまいうまいと言葉にならないうめき声を上げたりしている。妙子はそれを聞くと嬉しくなってしまった。
「もう元気になった?」
妙子が思い切って訊いてみると、しのぶは箸を止めて、急にしょんぼりうつむいてしまった。
「ごめん、余計なこと言っちゃった。忘れて忘れて」
妙子は慌てて両手をぶんぶん振り回した。いらんことを訊いてしまったと心の底から後悔した。
しのぶはうつむいた顔をゆっくりと上げて、少しずつひきつった笑いに変えながら、なんとか返事を返した。
「思ったよりダメージがでかいみたい」
「しばらくゆっくり休んだほうがいいよ」
「うん、そうする」
食事を再開したしのぶを、妙子はシチューをかき回しつつ、思案を巡らしながら見つめた。こういうとき、どういう言葉を掛けるのが一番いいのだろう?
かわいそうに、しのぶは失恋ですっかりしおれてしまった。あらましについては昼のうちに華が話してくれた。妙子は自分の経験に照らし合わせて考えてみた。
そうして、妙子はしのぶの横に椅子を置いて座ると、慎重に言葉を選びながら、こんなことを語った。
華だって悪気があったわけじゃないし、龍之介さんだって悪気があったわけじゃない。ただ、タイミングが悪かったのだ。人が人を好きになるのは、時の移り変わりの中でどうとでもなる。意外なところで意外な人と結ばれることだってある。たとえお互いが一番好きな者同士であったとしても、タイミングが合わなければ結ばれないことだってある。それとは逆に、それほど好きでない相手であっても、タイミング次第で結ばれてしまうことだってある。あのときのしのぶは、たまたま蚊帳の外に弾かれるタイミングであの場所にいてしまったから、そうなってしまったのだ。
しのぶは食事をとりながら、妙子の話を黙って聞いていた。どのくらいしのぶの心に響いたかはわからないが、少しは彼女が自分で自分を変な方向に追いつめることを防げるのではないかと、妙子は思った。
話に夢中になり過ぎて、シチューが少し焦げてしまった。




