私、ずーっとずーっと前から……・4b
ポリュペーモスを斜めに傾けて、頭と足を隅に押し込むことで、なんとかギリギリでエアロックの中に収まることができた。この緊急エアロックは回転する構造物の中にあって、重力が発生しているので、床のハッチを開けて出入りするような形になる。
華が上になり、しのぶが下になって、肩車の姿勢になった。そうやってアルミ合金の直方体の骨組みの中に入り、放り出されないようにベルトで身体を固定する。
「オーケー、愛梨紗、扉を閉めて」
緊急エアロックは手動で開け閉めできる。華の合図を受けて、愛梨紗は消防宇宙船から伸ばしたアームで扉の横のハンドルを回した。
扉が左右から閉じていく。
「華、しのぶ、気をつけないかんよ。私たちも出口見つけたら、すぐ迎えに行くけんね」
「待っててね」とユズ。
「気をつけて」と妙子。
華は上を向いて手を振った。
「ありがとう愛梨紗。ユズと妙ちゃんも。いつも通りやっていれば大丈夫だから」
「行ってきまーす」と、しのぶ。
扉が閉まった。暗闇の中で緑のランプが点滅し、一気に空気が抜けていく。急激に気圧が下がったために、防護服の表面の水蒸気が凍って、霜がうっすらと全身を覆った。
「華、今朝起きたとき、今日がこんな日になると思ってた?」
華を肩に乗せているしのぶが言った。「訓練はいつも抜き打ちだけどさ、自分の命がどうなるかなんてことまで考えないじゃん」
しのぶは袖や胸に張り付いている霜を払った。
華はこのとき、「私はいつも龍之介さんのことを心配しているから、普段の気持ちと今とではあんまり違いはないかな」と答えようとしてしまったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。危ないところだった。代わりに、
「そうだね」と短く答えた。
しのぶは物思いにふけるようにつぶやいた。
「龍之介は、いつもこんな毎日を過ごしてるんだよね。すごいよね……」
「そうだね」
と、華はそっけなく答えたが、心の中では首をぶんぶん上下に振って、思いっきりうなずきたい気分だった。自分もしのぶさんみたいに、素直に龍之介さんのことを言葉にできたら、どんなに気持ちいいだろう。そのもどかしさに、華は思わず太腿でしのぶの首を絞めてしまうのだった。
「華、リラーックス、緊張してるの?」
「ごめん、しのぶさん」
壁のランプが赤に変わり、完全な真空になった。
しのぶが言った。
「床を開くよ。遠心力で放り出されるから、しっかりつかまって」
「うん」
と、華は素直に従った。
しのぶはポリュペーモスの長いアームを操作して、右手でエアロックの手すりにぶら下がり、左手で壁のハンドルを回した。
足元が左右に開き、ポリュペーモスの胴体がガタゴトとあちこちにぶつかりながら外に出ていった。
足元に真っ青な地球があって、全体を見渡すことができる。その地球に向かって、きらきらと七色に輝く液体が降り注いでいる。回転する構造物にぶら下がっているポリュペーモスは、その雨の中で振り回されていた。
華もしのぶも、防護服の中に入り込んでくる液体を感じていた。それは生ぬるくて、体温とほとんど同じ温かさだった。不思議と不快感はなかった。だが、これに触れた自分たちはこの後どうなるのだろうかという不安はどうしてもぬぐえない。命の保証はないかもしれない。だけど、それはみんなも同じだ。そう思うと、もうどうにでもなれという、やけっぱちな気分になってくる。
それがなぜか、悪い気分ではなかった。華の胸には奇妙な高揚感があった。
「離すよ!」しのぶが叫んだ。
「うん!」
返事と同時に、ポリュペーモスは宇宙に放り出された。クロノ・シティがたちまち遠ざかっていく。
華は飛ばされながら、龍之介がいるであろう桟橋の方向に狙いを定めた。ネビュラでロックオンしているので、見間違えることはない。
光る雲のようなものに姿を変えたプロメテウス号は、大きく広がってクロノ・シティ全体を囲っていた。そこから粘液のようなものがガラスのドームへ滝のように滴り落ちていて、外側に突き出した桟橋はその流れに完全に飲み込まれている。
ポリュペーモスの頭部がちょうど目標と向き合ったところで、しのぶが推進ユニットに点火した。ポリュペーモスの足元から炎が噴き出し、遠心力とは逆の方向へ一気に加速した。すさまじいGが二人の身体を襲った。
華は桟橋に接近しながら通信を試みた。
「龍之介さん、源吾さん、無事ですか? そこにまだいますか?」
予想通り、返事はない。
「もう流されちゃったのかな」
しのぶはつぶやいた。「どうしよう、どうすればいいんだろう」
華は諦めない。今度はアルファ・チームの消防宇宙船への通信を試してみた。
「こちら第十七小隊ブラボー・チーム、アルファ・チーム、聞こえましたら返答お願いします」
すると、すぐに返事が返ってきた。
「こちら第十七小隊アルファ・チーム。華ちゃんかい? 今どこにいるの?」
その声は犬養守だった。
「私としのぶさんは桟橋の近くで龍之介さんと源吾さんを探しています。何か手掛かりはありませんか?」
「君たち動けるの? こっちはもう船がダメになっちゃった」
「私たち、ポリーで飛んでるんです」と、しのぶ。
「なるほど、大したもんだ。それで、龍之介と源吾はネビュラの回線が切れていて、連絡がつかないんだ。ただ、連中の認識票にアナログ発信機が付いているから、一応そのへんにいるらしいことはわかるんだ。その周波数を教えるよ」
「ありがとうございます。助かります」
「さすが、古い技術は残しとくもんだね」と、しのぶ。
たちまち華としのぶのネビュラに、二つの光点が表示された。それは桟橋の根元の待機所に当たる部分だった。二人は大勢のアメリカ宇宙軍の軍人たちと一緒に避難しているらしかった。
華はほっとしたあまり力が抜けて、大きく息を吐いた。
「良かった……」
「龍之介ったら、この期に及んで、みんなを助けるまで自分はここを動かないとか言い出しかねないな」
しのぶはぼそっと言った。そこには諦めのような、誇らしさのような、妙な親しみがあった。
華は、自分もいつかそのくらいの距離まで龍之介に近づきたいと強く思った。だから、しのぶがうらやましくてしょうがなかった。
「守さん、これから私たち、龍之介さんのいるところまで行ってみます」
「よろしく頼むよ」と守。
そこに、コウジと健太郎が割り込んできた。
「米軍は自分たちでなんとかするから、お前らは無理せず脱出しろって伝えてくれるかい」とコウジ。
「船を直したらすぐ俺たちも向かうから」と健太郎。
「わかりました」
華は答え、桟橋の方向へと目を向けた。「行こう、しのぶさん」
龍之介たちがいるはずの、待機所の周りは粘りと光沢のある液体が川のように流れている。入り口のハッチはなんとか見つけたが、流れの真っただ中にあって、こいつを開けると建物の中に液体が流れ込んでしまう。
しのぶはハッチをアームで叩いた。すると、中からドンドンと応答が返ってきた。人が確かにいる。しかし、ネビュラで交信することはできない。
「まいったな。これじゃ助けられないよ」
「他の入り口を探してみよう」
華はしのぶをうながして、桟橋の根元で歯車のように複雑に絡み合う重力発生装置を調べて回った。このどれかが待機所への道と繋がっているかもしれない。液体が嵐のように吹きつけ、その中を泳ぐように華たちは手掛かりを探していった。
そうしている間にも、二人の防護服の中にはどんどん液体が入り込んでくる。やがて華は気づいた。もう終わりだ。
「しのぶさん、感じる?」
しのぶは華の太腿に挟まれた頭を上下に振った。
「うん、感じる」
「どうしよう」
「とりあえず、流されないようにどこかに固定しよう」
「間に合うかな」
華としのぶは、急に訪れた限界に、残された意識を必死で振り向けた。
身体が溶けている。分解が始まっていた。骨も肉も服も一緒になって、液体の中に拡散していくのを感じていた。華の意識もまとまりを失って広がっていきそうになっていた。まるで疲れてウトウトと眠りにつくように、目を覚ましているのが難しくなってきた。
――美しいブナの森があった。一筋の渓流が流れ、その脇に小さな草庵が建っている。木漏れ日が森に降り注ぎ、小さな動物や鳥たちが穏やかに暮らしている。渓流にはたくさんの魚が泳ぎ、つややかな背をきらめかせている。
草庵は四方の壁を取り去り、屋根と柱だけを残している。そこに一人の僧が、背を向けて座禅を組んでいる。
その僧はなぜか髪を生やしていて、たくましい背中を持ち、オレンジ色の防護服に身を包んでいる。
その僧の元に、若い娘は朝食の粥を持って近づいていく。娘は、自分の名前が桃井華だということを知っている。そして、僧の名が三国龍之介だということも知っている。
華はここへ来る前、しのぶおばあさんからこう言い聞かせられていた。
「今度、あのお坊さんのところへ行ったら、思いっきり背中に抱き着いてやんなさい。それから、こう訊くんだ。『こうされて、どんな気持ちですか?』ってね。そこでどんな返事をするかで、あのお坊さんの修行の進み具合がわかるってもんさ」
華は、僧のことが大好きだったので、言いつけ通りに大喜びで、背中に抱き着いた。
「お坊様、今、どんなお気持ちですか?」
僧は答えた。
「俺の心は恐れで震えているよ。君は懸命に生き、たくさんの苦しみに耐えて、悩みを解決しながら前に進んでいる。とても立派な人間だ。そんな君の愛情を、俺は受け止められるだろうか。俺は君が燃やしている、その命の上澄みを、ただ自分の楽しみのためだけにむさぼることなんてできない」
「むさぼってくださいな。私はあなたのものなのですから」
「バカ言うな。君は君のものだ」
「だけど、そんなことを言っていたら、あなたはいつまでもひとりぼっちですよ」
「むさぼる関係なんてまっぴらごめんだ」
しのぶおばあさんは言っていた。もしも僧が、娘のことを受け入れないのなら、僧を追い出して、庵もすべて燃やしてしまえ、と。単に自分の悟りのためだけに修行しているような俗物に、衆生の何が救えるのか、と。そんな奴の世話をしてやる必要があるのか、と。
「ダメですよ。私は、あなたを愛しているんですから」
「俺だって、君のことを愛しているさ」
「本当?」
華は胸がどきどきして、息が苦しくなった。その鼓動が、龍之介の背中にも伝わった。「本当ですか? 龍之介さん」
「愛おしくてたまらない。愛おしいからこそ、俺なんかが君にふさわしいとは思えないんだ。俺はあの日出会ってから、君をずっと尊敬していた。君のことが頭から離れたことなんて一度もない。だから傷つけたくないんだ」
「龍之介さん、私は、あなたがそういう人だから、あなたを目指してがんばってこれたんですよ。龍之介さんは、いつも自分も他人も区別なく、すべてを守ろうとしてきた。そんなあなたが大好きなんです」
龍之介はここでようやく、華のほうへ向き直った。目はまだ迷いを湛えていたが、懸命に前を向こうとがんばっていた。
「龍之介さん」
華の励ましに、龍之介は覚悟を決めた。
「ありがとう、華ちゃん」
二人がお互いを受け止めようと、顔を近づけた、そのとき――
華は頬を叩かれて、目を覚ました。
「桃井、しっかりしろ」
その叩き方があまりに激しいので、華は思わず両手を突き出した。
「起きてます、もう起きてますから」
「よかった、桃井、ずっとうわ言ばかり言って、目を覚まさなかったから……」
そこにいたのは、なんと龍之介だった。オレンジの防護服に身を包んだ、いつものかっこいい龍之介だ。彼の精悍な瞳が目の前にあって、華はその眩しさに、また意識が遠のきそうになった。
「おい、しっかりしろ」
「大丈夫です」
華は、今度はしっかりと両目を開けた。
龍之介の背後には青空があった。とてもきれいな澄み切った青空が広がっていた。自分が横たわっているのは、とてもみずみずしい草原で、雨に濡れたような草が手に触れるのがわかった。
ふと、自分はこれまでどこにいたのか、華は必死に思い出そうとしてみたが、まるで遠い過去の出来事のように、それはすぐに意識にのぼってこなかった。それでも、おぼろげに、自分がクロノ・シティにいて、しのぶと一緒に必死で龍之介たちを探していたことを、やっと思い出した。
「龍之介さん、ここはどこですか?」
「クロノ・シティだよ」
「でも、空が……」
宇宙都市のクロノ・シティに青空が広がっているはずがない。
「そうだろう、不思議なんだが、こんなことになってしまった」
「パンドラの仕業ですか?」
「ああ、そうさ。でも、もう奴はパンドラじゃないんだ。今は弟のミカエルと融合して、新しく『エルピス』と名乗っている。『希望』という意味さ。しゃれたもんだろう?」
「エルピス……」
「ああ、これから大変だぞ」
龍之介は青空や草原を見渡した。さっきまで洪水のように荒れ狂っていた謎の液体はすっかり消えてしまって、なんだか美しい景色が広がっている。
華は少しだけ身体を起こして、龍之介と一緒に景色を眺めた。緑の草木に覆われて、クロノ・シティの桟橋の建屋が建ち並んでいる。重力発生装置が幾重にも重なって回転し、重力を作り出していた。
「ところで、小隊の他の人たちは?」
「そこらへんにいるよ。帰り支度をしてるところさ」
「帰れるんですね」
「しばらく休暇をもらえるらしい」
華は安心と嬉しさで元気になり、身体を起こした。龍之介がその背中を支えてくれた。そのとき華は自分の身体を見て驚いた。オレンジ色の防護服が、まるで新品のようにキラキラ輝いている。さっきまで液体で濡れていたような感じは少しも残っていない。
今ここに、華は龍之介と二人きりだ。草の上で並んで座っている。
「龍之介さんは、いつからここに?」
「俺もさっき目が覚めたんだ。源吾と一緒に、米軍の連中や船長たちと避難していたはずだったんだが、いつの間にか身体も意識も溶けたみたいになって、気がついたら草の上に寝ていた」
華とまったく同じだ。
「私、夢を見ていました。すごくきれいな夢を」
華は消えかけていた夢の記憶をたぐり寄せた。ああ、今思えば、あれはすべて夢だったんだ。幸せなような、がっかりなような。
ふと龍之介のほうをみると、彼はきまり悪そうに遠くを見つめていた。頬を掻いたり、頭を掻いたり、なんだか落ち着かない。
「俺も夢を見ていたよ。なんだか変な夢だった」
「どんな夢でした?」
龍之介はためらいがちに、途切れ途切れに答えた。
「なんか森の中の小屋みたいなところで……、それが変なんだ。壁がなくて、屋根と柱しかないところで、俺は座禅を組んでいて、そしたら急に……」
そこまで言うと、龍之介はもごもごと口を動かして、後が続かなくなった。
華は突然、立ち上がった。もう、いても立ってもいられなかった。あれは夢じゃなかったんだ。いや、夢だけど、あのとき見たことや聞いたことは、全部本当だった。だとしたら、もう黙っていることはできない。
華は思い切って叫んだ。
「私、ずっーっとずーっと前から、龍之介さんのことが好きでした! 私も、龍之介さんみたいに、強くてかっこいい宇宙消防士になりたいんです!」
龍之介は、最初驚いた顔をしていたが、すぐに微笑んで両手を伸ばすと、華の手を取った。
「俺も……」
そのとき、遠くのほうからやかましく騒ぐ男女の声が近づいてきた。
「おお、華ちゃん、気がついたか」
コウジが手を振っている横で、ユズが咎めるように言った。
「お兄ちゃん、邪魔しちゃダメじゃない」
第十七小隊のメンバーが勢ぞろいでやって来た。その手には糧食パックをたくさん抱えている。草の上でピクニックでもするような気分でいるらしい。
その中にはしのぶもいて、訝しそうな表情でこっちを見ている。
両手で華の手を握っていた龍之介は、慌ててそれを引っ込め、急いで立ち上がると、咳ばらいを一度してから、かしこまってこう言った。
「そうか、それなら今から腕立て伏せ三十回三セットだ」
「はい!」
華は威勢よく腕立て伏せを始めた。おかげで顔が真っ赤になっているのをごまかすことができた。
「なにこれ」
と、しのぶも笑いながら華の横に並んだ。「私だって、そのくらいできるんだから」
なぜか、みんなもつられて腕立て伏せをやり始めた。誰が一番早く三十回三セットできるかの競争だ。
そうやってにぎやかに騒いでいると、
「お前たち、何やっているんだ?」
小山隊長が呆れたような顔で別の方向からやって来た。その横にはシェリー・デスティニーもいて、どう反応していいかわからない複雑な表情をしていた。
隊長は言った。
「これからシェリーさんを連れて地球に戻るぞ。それがわれわれ第十七小隊の最後の仕事だ。最後まで気を引き締めろ」
「はい!」と、みんなは声を揃えた。
帰りの消防宇宙船の中で、パイロットの愛梨紗を除いた四人は、疲れのせいでうとうととまどろんでいた。妙子とユズは肩を寄せ合って寝息を立てている。華も意識を失いそうだ。そうして朦朧としている華の隣りに、しのぶがそっとやって来て、小声でこう囁いた。
「華、さっき、一回全部溶けちゃったときさ、私も同じ夢を見てたんだ。なんか森の中でさ、私はなぜかおばあちゃんになっていて……」
華は、もう寝ているどころではなくなった。
第一部「プロメテウス編」完結。
次回から第二部「ブラック・スワン編」が始まります。第二部は第二十五話までです。




