ヘラクレスとヒドラ(前編)・1
「ちょっとチクッとしますよ」
と言われるなり、左右の耳の後ろに続けざまに注射を刺された。若い女性の看護師さんの手さばきは慣れたもので、むしろ慣れ過ぎていて少し乱暴な感じもした。
桃井華は目隠しされているので何も見えない。部屋に入るとすぐに、背もたれがまっすぐな椅子に座らされて、上から何かの器具で頭を固定され、目を何かで覆われ、仏像のように身動きできなくなった。
今度は女医さんの優しげな声が聞こえた。
「では、今からチップを入れますね」
耳の周りを触れられているようなかすかな感覚以外は、麻酔が効いていて何も感じない。
「はい、終わりましたよ」
あっという間に目隠しが外されて、華は何が待ち受けているのだろうとワクワクしながら目をぱちぱちさせたが、涙がにじんでいてちょっと眩しい他はさっきとほとんど変わりない。
「この後テストをしますね。お名前をお呼びしますので、待合室でお待ちください」
と、看護師さんに事務的に促されながら廊下に出ようとすると、順番を待っていた同世代くらいの女の子が飛び込むように入ってきた。その子がすれ違いざまに華の顔をちらっと窺うようなそぶりを見せたので、華は「全然怖くなかったよ」と声をかけそうになったが、その隙もなくその子は看護師に捕まって椅子に座らされていた。廊下には長椅子に座りきれないくらいたくさんの男の子や女の子たちがいて、みんなソワソワしていた。
混んでいる待合室まで戻ると、華の三人の友達が待ってくれていた。明美と沙織と美保だ。三人とも華と同じくらいの背格好だが、沙織だけは髪を長く伸ばしていた。沙織はその髪をきゅっと後ろにまとめて、左右にぶんぶん振りながらよく喋る。明美も元気いっぱいで目が大きくて声も大きい。美保はおとなしそうだが言うときはずばりと言う。そんな感じでだいたい華と似た性格を分かち合っているような三人だった。
「どんな塩梅よ」
と、明美が華の耳の後ろを覗き込んだ。
ここで初めて華は自分の耳の後ろに手を触れてみた。貼り付けられたガーゼのがさがさする感触しかない。
「全然なんとも、いつもと変わりないよ」
華は首をかしげる。
「まだ起動してないもんね。そりゃそうよ」
と、沙織が椅子を勧めてくれた。「座りな」
「ありがとう」
三人が場所を空けてくれて、華は長椅子に腰かけた。華はちょっと不満そうに言った。
「さっき隣りのお店でさ、デザインはどれがかわいいかとか、ピンクと黄色のどっちがいいかとか青がクールでかっこいいとか言ってたじゃない? 結局、埋め込んじゃったら同じじゃんか」
「そんなの、当り前でしょうが」
と、美保が鋭く言い放った。
「だったら、もっとゴツゴツした高機能のやつにすればよかった」
「どうせ、すぐ新しいのが出るんだから。こんなの使い捨てよ使い捨て」と明美。
そんなことを喋っているうちに、すぐ名前を呼ばれた。
「桃井華さーん、起動テストを行いますので、検査室までお越しください」
検査室は真っ白で何もない、五メートル四方ほどの立方体の部屋だった。その真ん中に、一人用の椅子が奥を向いてぽつんと置かれている。
白衣姿の女医さんが、華の肩に優しく手をかけて、
「気分は悪くない?」
と訊いてきたので、華は「大丈夫です」と答えた。すかさず看護師さんが華を椅子のほうへと促した。
椅子は少し高くなっているので、華はえいっと飛び上がるように座った。両足はバーの上に乗せた。腰をベルトで固定する。目の前は真っ白い壁で、照明を反射して目が眩むようだ。
手ぶらの女医さんは、自分の視野の中に見える何かを目で追っている。華の今の状態が表示されているのだろう。
「では、ネビュラを起動しますね。準備はよい?」
「はい」
華が返事すると、途端に部屋がうす暗くなった。照明が消されたわけではないことは、なんとなくわかった。青いフィルターをかけたように、重い「気配」のようなものが華の視野を満たしていた。
「起動テスト、フェーズ・ワン」
女医さんがそう言った瞬間、正面と左右の壁と天井と床全体――つまり視野すべてに、色彩豊かに輝く様々な文字や数字や図形が表示された。さらには壁と華自身の間の空間にも、文字や図形がぎっしり浮かんで動き回っている。まるでビッグバンだ。視野いっぱいの突然の情報の爆発に、華は思わず「きゃっ」と悲鳴を上げた。
「気分は悪くない?」
と、女医さんが訊いてきたので、華は「大丈夫です」と嘘をついた。
「起動テスト、フェーズ・ツー」
女医さんがそう言うと、空間を満たしていた文字や図形が一つずつ消えていった。消えていくごとに、華は一息つける気分だった。やがて、視野の右の端に今日の日付と現在時刻だけを残して、すべての表示が消えた。無機質なデジタルで、二〇六四年三月十六日日曜日、午後二時三十三分という文字が浮かんでいる。これからはいちいち時計を見なくても済むのだ、なんて便利なんだろう、と華は思いつつ、いつもこれが視野の端にちらつくのはなんだか落ち着かないような感じもした。
「今の時刻がわかりますか?」
と、女医さんが訊くので、華は見た通りの数字を答えた。
「それでは、起動テスト、フェーズ・スリー」
今度は、華の目の前の壁が消えた。この展開はまったく予想していなかった。壁の向こうにある待合室が見える。華と同年代の若い男女が順番を待ってひしめき合っているのが、はっきりと観察できる。明美と沙織と美保の三人もいたが、のべつお喋りを続けるばかりで、こちらにはまったく気づいていない。
それに続いて、左右の壁も消えた。他の部屋で検査している人たちや、忙しく立ち働いている看護師さんたちが丸見えになった。
さらに、天井も消えた。上の階も取っ払われて、明るい空がいっぱいに頭上に広がっている。今日は天気がいいので、すがすがしく晴れ渡っている。細かくちぎれた綿のような雲が軽やかだ。貨物を運ぶドローンの群れが右から左へと横切っていった。
「わあ、すごい」
華が感動して隣りの女医さんを見ると、彼女は淡々と「気分は大丈夫?」と訊くので、華は「大丈夫です」と元気に答えた。
たちまち部屋が元に戻った。真っ白な立方体に急に閉じ込められた気がして、華は息が詰まった。女医さんが言った。
「起動テストは以上です。あとは説明書を見るなりして、自分で調べてね」
「ありがとうございました」
「気をつけて帰ってね」
女医さんは優しく微笑んでウインクすると、颯爽と検査室を出ていった。
華たち四人はようやく外に出られた。ネビュラの端末ショップ兼脳神経外科の建物には、途切れることなく子供以上大人未満な若い男女が出入りしている。
「華も、もうちょっと誕生日が早かったらよかったのにね」
明美が疲れた顔で言った。「そしたら、入学前のラッシュにぶつからなかったのに」
「どうも申し訳ありません」
華が丁重に頭を下げると、三人は笑った。沙織が言った。
「これからどうする? とりあえずご飯にする? 先に制服見ちゃう?」
日曜日の駅前商店街はにぎやかだ。お腹が空いて歩けないということで意見が一致して、何か食べるお店を探すことになった。
「ねえ、見て、富士山がきれいだよ」
歩いている途中、美保がまっすぐ前を指さして声を上げた。
「本当だ、今日は一段とくっきり見えるね」
沙織がうなずく。
ところが二人が見ている先は、ただの商店街の人混みだ。頭上にはアーケードの屋根、左右はお店が並ぶばかりで、富士山なんて見えるわけがない。
きょとんとしている華を見て、明美が自分の耳の後ろを指さして言った。
「ほら、これよ、これ」
すぐに華は合点がいった。三人はまだネビュラを導入していない華に気を使って、これまではこんな妙ちきりんな会話を封印していたのだった。これからは、何の気兼ねもなくこんなことが言い合える。
華はネビュラを起動しようと意識した。ただそれだけで視野の真ん中に様々な文字やアイコンが浮かんだ。華が顔を動かしても、それは一緒について来る。ただ、どれをどうすれば富士山が見えるようになるのかわからない。
「私に貸してみて」
と、明美が華の手を握った。操作権が明美に移り、たちまち目の前の建物や人混みがかき消えた。その向こうに雪を頂く堂々とした富士山が現われた。みんなが言う通り、今日は空気が澄んでいていつもよりずっとくっきり見える。
明美が言った。
「雨を降らせたり、雪を溶かしたりもできるんだよ」
往来の邪魔にならないように、四人は道の端に寄った。華と明美が並んで立ち、富士山の方向を向いた。明美がぎゅっと手を握ると、富士山の山頂の雪がすっと消えて、真夏の野性的な茶色い富士山に変わった。さらに今度は、富士山全体にどか雪が降り始め、あっという間に山頂から裾野まで真っ白な雪に覆われてしまった。
「すごい、なんでもできるんだね」
なんだか世界が一変したように思えた。十五歳になった途端に、魔法が使えるようになったようなものだ。
「近くの景色とか街の人たちの見た目も変えられるんだよ。江戸時代風にしたりとか、ヨーロッパ風にしたりとか、ここにいろいろメニューがあるから……」
目の前の景色を変える方法を、華は明美にざっと教えてもらった。
「共有モードにすれば、みんなで同じ景色が見られるんだよ」
「私がやってみてもいい?」
華は次に何をしようか考えた。三人は、華が何をするのか見守っている。
「よし、決めた」
華はニヤニヤしながらみんなを見回した。大きく声を張り上げ、三人をそれぞれ指さして、こう言った。
「お前たち、全員テディベアだ!」
その瞬間、華を除く三人は大きなもこもこしたテディベアの姿に変わった。それぞれちゃんと色分けして、明美はブラウン、沙織はホワイトにピンクのリボン、美保はイエローになった。
「ああ、なんてことを!」
頭を抱えて叫ぶ明美は、完全に茶色いテディベアだ。
そのあと華も平等にテディベアの姿(罰として毒々しい赤と黄色のストライプ)にさせられたことは言うまでもない。