パンドラ・3a
誰もが知る、世界共有の宇宙エレベーターは、ガラパゴス諸島のすぐ隣りから宇宙へ伸び、上空三万六千キロメートルに宇宙都市クロノ・シティを擁する。
それとは別に、国や企業が独自に所有している宇宙エレベーターが世界にはいくつか存在する。それらを外部の人間が利用するには、さまざまな制限がある。
ソラリ・スペースライン・グループも、自社の宇宙エレベーターを持っている。それはオーストラリアの西岸から二千キロメートル沖のインド洋上にあった。
そのインド洋の宇宙エレベーターから、機械細胞一式を詰め込んだゴンドラが宇宙へ向けて送り出された。
その宇宙エレベーターの上空三万六千キロメートル地点には、ソラリ・スペースラインの宇宙ステーションがある。全体がガラス張りで太陽の光を複雑に照り返すそれは、グラス・シティと呼ばれていた。
機械細胞の詰め合わせは、グラス・シティを通過して、さらに宇宙エレベーターを上っていった。そして、十万キロメートル上空に達したところで、ゴンドラに乗せられたまま、投石器から放たれるように、宇宙へ向けて放り出された。
そのゴンドラは、地球と月の重力がちょうどつり合う、ラグランジュ・ポイントを目指した。その一帯は、何十というリゾート衛星や、研究開発を行うスペースコロニーがひしめき合っており、地球と月の間にあって、物流やエネルギーの確保において非常に都合がよかった。宇宙船が盛んに往来し、太陽電池パネルはあり余るほど飛び交っていたからだ。
シェリー・デスティニーとジェフ・カレルは、その宇宙研究所の主任になった。他の研究員たちは南極の後始末やなにやらで散り散りになってしまった。ハースとブラックスミスの二人の博士は、宇宙と地球を往復して、ソラリ・スペースラインのために秘かに忙しく働いていた。学会に発表したり、論文を書くことは会社との契約で禁じられていた。この大発見で世間の注目を集めることができないことに、博士たちは強い不満を抱いていた。その不満を解消したのが、会長のクリスチャン・バラードからの直接の賞賛と、惜しみない支援だった。
南極での狂乱は、シェリーにとっても思い出すのが恥ずかしい記憶だった。世間にそれを知られていないことは大きな救いだった。
あの、太陽がまったく昇らない夏に、南極の地下研究所では「奴」がすべての主導権を握っていた。
奴は人間の言葉を話さなかったが、研究員たちは彼と心を通じ合わせていた。
研究所のガラスの球体の中の生態系は、あの七日間の世界創世の後、すぐに飽和状態に陥った。今の大きさのままではまったく維持できないことは明白だった。研究員たちは話し合って、満場一致で(もはや熱に浮かされていた)、地下の壁を掘り広げていくことに決めた。
岩盤と氷床は資源の宝庫だった。地上に太陽が昇らずとも、地下には自分で太陽を作り出せる生き物たちがいる。岩と水とエネルギーがあれば、いくらでも世界を広げていける。
奴は人間たちの安全を約束してくれた。彼は従順でありながら、強い好奇心を持っていた。人間の命令におとなしく従うと同時に、自分からもやりたいことをどんどん見つけていった。思いのままに地下の楽園を広げていくことに、みんなは熱中していた。壁を突き崩して以来、ソラリ・スペースラインへの報告はいくらか控えめにごまかすようになった。余計な口出しをされたくなかったからだ。もしも奴が主導権を握っていなかったなら、こんな愚かなことは誰もしなかっただろう。みずからの将来を危険にさらすことになるからだ。だが、誰もそれを止められなかった。
本社からたまにしかやって来ないジョン・グイドが、四か月半ぶりに地下研究所を訪れたとき、研究員たちはみんな、楽園からの追放を覚悟した。
シェリーとジェフがクビにならずに済んだのは、クリスチャン・バラード会長の粋な計らいだった。彼は怒るどころか、これを大変喜んだ。機械細胞をうまく使えば、会社が持ち直せると確信を得たようだった。ただし、七人の研究員たちは今後集まることを禁じられた。
南極の地下で増殖し、岩盤を貫いて展開されていた新世界がその後どうなったのか、シェリーとジェフは何も知らない。誰かが後始末に奔走しているだろうことは容易に想像できる。それを秘密裏に行う困難はどれほどのものだろうか。
二人に与えられた新しい仕事は、スペースコロニーや宇宙船の中で回転し、人工重力を生み出す「ムーブメント」の開発だった。それに機械細胞を応用し、ムーブメントの製造やメンテナンスに革命を起こすことが、二人の使命となった。
秘密の宇宙研究所は、シェリーとジェフにとって新しい楽園となった。二人はここで結婚した。シェリーはそのことを田舎の家族に手紙で報告した。ネビュラでの接続を禁じられていたので、直接話すことはできなかった。その一年後に子供が産まれたときも、家族には何枚かの写真を送ることしかできなかった。孫と両親を会わせられないことにシェリーは罪悪感を覚えた。それを振り切るように、二人は仕事に没頭した。
機械細胞を用いたムーブメントは、実用化に向けて順調に開発が進められていった。
ところが、ここで大きな問題が一つ持ち上がった。機械細胞を統括する知性である奴は、二つの性格を持っていた。従順さと好奇心だ。その好奇心が、彼の場合、極めて強かった。あの南極で七人の研究員を狂乱に巻き込むほどの熱量があった。このままでは実用化の大きな障害になるので、シェリーとジェフは奴をある段階で二つに分けることを決めた。
シェリーはその二つに名前を付けた。従順な性格には「ミカエル」と名付け、好奇心いっぱいな性格には「パンドラ」と名付けたのだ。奴はその日から姉弟になった。
製造段階ではその二つが協力し合って仕事を行うが、出荷の段階になるとパンドラが取り除かれる。自立した好奇心は製品には不要だからだ。人間の命令を素直に聞く従順なミカエルだけが完成品のムーブメントには残される。
それで、何の問題もなく製品は出荷されていった。
最初のうちだけは本当に何の問題もなかった。
その問題が表に現れたのは、新しいムーブメントが出荷されるようになってから二年後、二〇六八年の春のことだった。




