アバター訓練(後編)・1
暗くて狭いエアロックに二人きりで入ってから、しばらく時間があった。華と龍之介はお互いに向き合って、ぴったりと身体をくっつけている。エアロックの空気が抜けている最中であることを示すために、壁の緑のランプが点滅している。
第十七小隊アルファ・チームのリーダー、三国龍之介は、ネビュラを通して仲間と何か連絡を取り合っている。その彼の、オレンジ色の防護服の分厚い胸と自分の胸とを押しつけ合うようにして、桃井華はとてつもなく間近で彼の存在を感じていた。アバターの機械の身体を通してすら、精巧な神経組織は呼吸で膨らんだり縮んだりする龍之介の胸の感触や、お互いの服がこすれ合う音を伝えてくれる。もしもこれがロボットの身体でなかったなら、華の高鳴る鼓動は彼に筒抜けだっただろう(実はこのとき、アバターの挙動を監視している地上のスタッフたちは華の心拍数を見て右往左往していた)。
ああ、もしも龍之介さんが忙しくしていなかったなら、ほんのちょっとでも尋ねて、私のことを覚えているか確かめたい……。そう願いながらも、このもどかしいひとときがいつまでも続いてくれるのも悪くないと華は思った。
ネビュラを見るために空中をさまよっていた龍之介の視線が、不意に華の顔へ向けられた。華はぎくりとした。
「桃井、聞こえるか?」
「はい!」アバターの同期はばっちりだ。
「向こうの消防宇宙船の準備ができたそうだ。これから君を連れてそっちへ乗り移る」
「チームの他のみんなは?」
「先に向こうで説明を受けている。君を送り届けてから、俺たちアルファ・チームはこの船に戻ってくる。君たちブラボー・チームの五人だけで遭難船へ向かってもらう」
「わかりました」
「向こうに移るまではもうしばらく一緒だ」
「はい……」
すると突然、龍之介は華の背中に腕を回すと、彼女の身体をぐっと我が身に引き寄せた。
「えっ?」華の頭の中でいろんな想像が駆け巡った。「龍之介さん?」
エアロックの空気が完全に抜けきって、壁のランプが真空を示す赤い光に変わった。まったくの無音になり、外側の扉がゆっくりと開いていく。華はすぐに自分の余計な期待を恥じた。
漆塗りの大広間のような真っ黒な宇宙が現われた。その片側の端にむやみに眩い真っ白な光が浮かんでいる。それが太陽だった。その光を検知するや否や、龍之介と華のヘルメットの、太陽に向いている側だけに何重もの黒いフィルターがかかり、眩さと熱を抑えてくれた。
龍之介が軽く足元を蹴ると、二人の身体はゆっくりと宇宙船を離れた。
龍之介の腕は、華をしっかりと抱きしめている。二人の身体にはそれぞれ命綱が繋がれている。宇宙に浮かぶ二人の背後で、宇宙船の赤い扉が自動的に閉じた。白い命綱が波を打って伸びていく。
視界から太陽の残像が消えていくと、その向こうにもう一隻の消防宇宙船が浮かんでいるのがわかった。わずか五十メートルほどの距離だ。赤く塗られた船体は新品らしくぴかぴかに光っている。
「こんな形であの新造船を使うことになるなんて思わなかったよ」
「あの船は新しいんですか?」
「今日が初お披露目さ。俺たちのボロ船が退役して、あいつと交代する予定だったんだけどな」
「なんとか無傷でお返しします」
「気にしなくていいよ」
ふいにちょっとした会話ができて、華の胸はときめいた。
新しいほうの宇宙船では、扉の開いたエアロックの中でアルファ・チームの宇宙船技師の菊池源吾と、同じく宇宙船技師の千堂しのぶが待ち構えていた。しのぶのアバターのガラスの頭部の内側に、彼女の引き締まった凛々しい顔がホログラムで映し出されている。
龍之介と華が飛び込んでくると、中の二人がその身体を受け止めてくれた。
狭いエアロックの中で四人はぎゅう詰めになった。真空を示す赤いランプがみんなの顔を照らしている。源吾が壁のスイッチを押すと、扉がゆっくりと閉じた。続けて生暖かい空気が流入してきて、赤いランプが点滅を始めた。
しのぶの声が、ネビュラを通してみんなの頭に直接響いた。
「龍之介、久しぶりだね」
「ああ」
しのぶが握った拳を上に挙げたので、龍之介も自分の拳をそれにぶつけて答えた。
「菊池さんから聞いたんだけどさ、龍之介が私たちを指名してくれたんだって?」
「ああ、そうだ」
「ありがとう、龍之介」
緊張でこわばっていたしのぶの顔から、たちまち素直な喜びが溢れ出して、止まらなくなった。龍之介は無表情を装っているが、目元だけがほんの少し優しくなった。
「お前たちだって、第一志望の隊と仕事したいだろう?」
「えっへへ、まあね」
二人の慣れ親しんだ会話を聞いていると、華はなんだかいたたまれない気分になった。ちょっとした会話でときめいていた自分がバカみたいだ。そりゃあ、一つ屋根の下で一か月も一緒に暮らしていたしのぶさんにはずっと後れを取っているにしても、龍之介さんに対する気持ちは私だって誰にも負けていないつもりなんだ。このくらいでへこたれてたまるもんか。
「ねえ、華」
ふいにしのぶが声をかけてきて、華はぎょっとした。
「なによ」思わず声が大きくなる。
「これが噂の三国龍之介だよ。会いたかったでしょ?」
「ばかっ、そんなことないもん!」
華は顔を真っ赤にして(赤いランプが点いていて助かった)、急いでうつむいた。そう叫んで、すぐに後悔した。
「ねえ、龍之介、華と何か喋った?」
「何を?」
「うふふ、そんなことだと思った」
しのぶは何やら思わせぶりにくすくす笑っている。
もう、しのぶさんったら、ユズみたいにべらべらと余計なこと言って、そっちこそ龍之介さんに会えたからって浮かれてるんじゃないかしら。
「おしゃべりはそこまで」
源吾が、ネビュラを通さない本物の声で言った。その声は低く、厳かに響いた。エアロックに空気が完全に満たされて、緑のランプが点灯した。今度は船室に向かう内側の扉がゆっくりと開いていく。中では、第十七小隊のアルファ・チームとブラボー・チームの残り全員がそろって待っていた。
新造船の曇り一つない大きな風防ガラスが視界いっぱいに広がっている。それは天井の半ばまでを星空で満たしている。大きな背もたれのついた座席が十席分、間隔を空けてゆったりと配置されている。部屋の広さにはかなりの余裕があって、そこにたくましい生身の宇宙消防士が三人と、ひょろりとしたアバターが三体、こちらを向いている。それぞれが座席の縁や、壁や、天井に張り巡らされている手すりにつかまって、ふわふわと宙に浮かんでいる。
アルファ・チームの三人は、救命医の夏木コウジ(ユズの兄)、パイロットの山田健太郎、通信士の犬養守たち。その隣りには、ブラボー・チームの救命医の天野妙子と、パイロットの佐藤愛梨紗、そして、通信士の夏木ユズのアバターがいる。アバターの身長はみな同じなので、愛梨紗のものだけが妙に大柄に見える。
龍之介と源吾はヘルメットを脱いで壁に引っ掛けると、天井の手すりを猿のように渡って、仲間たちの集団に加わった。しのぶと華もそれに続いた。
「あっ、ちょっと待ってもらえますか?」
突然、ユズが場の雰囲気と合わない明るい声を上げた。別に明るくしようという気がなくても、彼女の場合は自然にそうなってしまう。「みんなの見分けがつくように、色分けさせてください」
ユズはチームのみんなと向き合うと、魔法をかけるように指をさしていった。アバターが着ているオレンジ色の防護服の両腕に、ユズが勝手に考えたイメージカラーのラインが入っていく。ラインの周りには目立つように黒く縁取りがされている。華は赤、妙子は青、愛梨紗はピンク、しのぶは緑、そしてユズはオレンジで防護服と色が同じなので、ラインに沿って蛍光色が派手に回転するように工夫した。それが第十七小隊全員のネビュラで表示されるようになった。
ユズのその機敏な作業を、先輩たちは温かく見守っている。ものの数秒でそれは終わった。
龍之介が一人、近くの手すりにつかまり、みんなと向き合った。広大な宇宙を背にした龍之介は、小隊の面々を見渡し、厳かに声を張り上げた。
「これより、遭難船の救助活動を開始する」
全員の顔が引き締まった。
龍之介は華たちブラボー・チームを見つめた。突然に現場に駆り出された五人の訓練生の頭に叩き込むように、はっきりとした声でこう言った。
「これから君たちブラボー・チームにはあの遭難船へ乗り込んで、中にいる十二人の乗組員を救助してもらう。まずは人命が最優先だ。十二人の救助が済み次第、船のコントロールが可能かを試してみる。もし、コントロールがうまくいかなかった場合には、航空宇宙自衛隊とアメリカの宇宙軍がその後を引き継いでくれる。有毒な積み荷が地球にばら撒かれないために、俺たちの他にもたくさんの国の人たちが動いている。俺たちはその最前線にいる。とにかくできることから一つずつ片づけていこう。まず何より十二人の乗組員の安否を確かめ、可能であれば彼らを救い出すことだ。わかったか?」
「はい!」と、ブラボー・チームの五人は声をそろえた。
龍之介は続ける。
「あの遭難船の船名はプロメテウス号。船籍はアメリカ。十二名の乗組員の国籍は日本、アメリカ、それぞれ六名ずつ。船長はアメリカ人のグレゴリー・ガーンズバック氏だ。詳しい名簿は通信士のユズが持っている。後で情報を共有するように」
龍之介に下の名前を呼ばれて、ユズはなぜか嬉しそうに、腰をくねらせて悶えた。ただ「夏木」と呼ぶと兄のコウジと紛らわしいからそうしただけなのはわかるが、私だって下の名前で呼んでほしいのに、と華は面白くなく思った。だが、そういうどうでもいい考えは任務の緊張の下に隠れて消えてしまった。
「俺たちアルファ・チームは、もう一つの消防宇宙船で待機し、君たちのバックアップを務める。説明は以上だ」
龍之介のその一言で、突然、アルファ・チームの男たちが背中を向けて動き始めた。壁に掛けてあるヘルメットをおのおの被り、首の接続を確認する。エアロックの内側の扉が開き、緑のランプが目に飛び込んできた。
「もう行っちゃうんですか?」
思わず華は追いすがりながらそう言った。つい不安な気持ちが素直に出てしまって、またすぐに後悔した。
すると、出ていこうとする男たちの中で龍之介だけが一人、急に進むのをやめ、天井の手すりを持ち替えて、こちらへ振り返った。そうして華と向き合った。怒られるかと思って華はびくびくした。ところがヘルメットの中の彼の目は優しく、口元には微笑みを浮かべている。
「桃井、心配か?」
華は慌てて首を横に振った。
「そんなことありません! 私は仲間を信頼しているし、これまで一生懸命訓練してきましたから……」
「そうだな」
龍之介はゆっくり手を伸ばすと、華のガラスの頭をそっと撫でた。「君なら大丈夫だ。あのときと同じように、俺がついている。きっと、うまくいくさ」
龍之介の手のぬくもりがアバターを通して伝わってくるようだった。突然のことに、華は返す言葉が思いつかなかった。ただ、とにかく幸せな温かさが身体中を駆け巡った。そうしてあたふたしている間に、龍之介たちはエアロックに入ってしまった。
華は聞き逃さなかった。龍之介は確かに、「あのときと同じように」と言った。やっぱり、グラス・リングでのことを覚えていてくれたんだ。もう、それだけで四年と数か月の努力は報われたようなものだ。ようし、絶対に龍之介さんの期待に応えるぞ。十二人の乗組員を必ず救助して、そして、もう一度龍之介さんとちゃんとお話しするんだ……。
「華ちゃん、早く座ってベルト締めて」
他の四人はすでに座席に着いている。妙子が困った顔をして、ぼーっとしている華の腕を引っ張った。
「ごめんごめん」
操縦席の愛梨紗は、みんながベルトを締めたのを確認すると、すぐにエンジンの出力を上げた。華の身体が座席に押し付けられた。
貨物船プロメテウス号が目の前にある。消防宇宙船はそいつに側面から接近している。左右に延びた長大な黒い船体は、まるで墨汁を固めた一本の氷のようだ。それは太陽の光を不気味に照り返している。あと五時間弱で、こいつが地球にぶつかる。
華はネビュラを通して龍之介の存在をすぐそばに感じていた。彼も離れたところで同じ光景を見ているはずだ。もう何も不安はない。全力を出し切ろう。




