桃井華、宇宙消防士になります!・3
助けが来た!
華は跳ね起きて窓のそばへ向かった。諦めたつもりだったのに、そんな気分はすっかり消し飛んでしまった。床が濡れていて何度も滑った。倒れ込むようにして窓に顔を近づけると、本当に人がいた。窓の大きさと同じくらいの丸い透明なヘルメットを被った人間の顔が見えた。若い男の人だった。彼の肩に乗っているライトが、彼自身と華の両方の顔を照らした。二人は目を合わせて微笑み合った。華の胸に温かいものが込み上げてきた。男の人は目がきりっとしていて、すごくかっこよく見えた。
男の人は手の平を前に何度も突き出すようなしぐさをした。ずっと廊下の奥のほうを指さすようなしぐさもした。どうやら離れて向こうのほうへ行くように指示しているらしい。華はうなずきを返すと、窓から遠く離れた反対側の壁まで走った。
しばらくの間、ひどくやかましく金属がぶつかり合う音がしたかと思うと、続けてドリルで壁に穴を開ける音が廊下中に響いた。もう二度とないかと思っていた、人間のこうした生きた営みにまた触れることができて、華の全身に喜びが満ちてきた。
ドリルの穴が点々と開けられて、人間が一人通れるくらいの長方形が壁に描かれた。続けて回転する刃が差し込まれて、大量の火花を散らしながら、穴と穴を繋いでいった。最後に何度か蹴るような音がすると、切り取られた分厚い外殻がこちら側に向かって激しく倒れた。その勢いで廊下全体が揺れるほどだった。
穴の向こうから、一人の男性が姿を現した。肩のライトが眩しくて、彼の格好の細かい様子はわからないけれど、オレンジ色の分厚い服をまとっているようだ。
穴の向こうは宇宙ではなく、暗くてぼんやりしているが、複雑な金属の骨組みが張り巡らされた小部屋のようになっていた。
「怪我はないかい?」
彼は優しく日本語で語りかけた。訛りのない、生粋の日本人のように思えた。どこかにスピーカーがあるのか、ヘルメットを通してもスムーズに聞こえてくる。
「私は大丈夫です」
華は浮き立つような気分で答えた。
「IDは持ってる?」
「搭乗券ならあります」
華は左の手首に巻いた白い腕輪を掲げてみせた。宇宙に出てくる前に着けさせられた、パスポートを兼ねた搭乗券だ。
男性は腕輪に目を走らせた。彼の視野の中には、ネビュラを通して華のデータが表示されているのだろう。彼はきびきびした口調で、接続されている外部の誰かに報告を行った。
「要救助者を一名確保。氏名、桃井華。年齢十四歳、国籍日本。これより救助を行う」
言い終えると、彼の表情がふっと緩んで、華に優しくこう言った。
「寒いかい?」
「はい、少し……、でも、ちょっとくらいなら我慢できます」
「偉いな」
「えへへ」
微笑みかけてくる彼の笑顔は、まるでケーキのように甘く、華も思わずとろけそうになる。
「でも大丈夫、すぐあったかい服を着せてあげるよ。それを着ないと外に出られないからね」
彼は窓の外に顔を向けて、こう言った。
「ロジャー、防護服を一着頼む」
そして、さっき大穴を開けた壁のところへ向かうと、大きなハッチを外から引っ張り込むようにして閉めた。
「ロジャーって?」
「外にいる相棒だよ。本当は日本人だけど、あだ名でロジャー」
「あなたは?」
それが一番知りたい。
「俺は三国龍之介。三つの国の……、龍は難しいほうの龍。まだ新米だけど、低軌道第八管区第十七小隊の宇宙消防士」
それは華が初めて見る生身の宇宙消防士だった。
「私は桃井華です」
「うん」
それは知ってるよ、と言わないのが彼の優しさだろう。
「私、助かるんですか? 他の人たちはどうなりました?」
龍之介は一瞬表情を曇らせて、首を横に振った。
「君は必ず助ける。だけど、今度の事故はとても規模が大きくて、他の人たちについては、まだはっきりとは言えないんだ」
「すぐそこに救命カプセルがあるはずなんですけど……。私の母と妹がいるんです」
華は隔壁の向こうを指さした。心配そうな華を見て、龍之介は強くうなずいた。
「本部に確認を取ってみよう」
「母と妹の名前は……」
「大丈夫、君のIDさえわかれば十分さ」
それからほんの少し通信でのやり取りがあって、母と妹の無事と、さらに父とあの白人の夫婦の消息までも確認できた。
「よかった……」
華はくたくたと膝が崩れて、思わず龍之介に抱きかかえられる格好になった。
「もう脱出できたんですか?」
「まだ格納庫の中で待機中らしい」
華の顔に不安がよぎった。龍之介は励ます。
「そこにさえいれば、何が起きてもまず大丈夫さ。カプセルはどんな爆発に巻き込まれようが、大気圏に突入しようが壊れないように厳しく規格で定められているからね。」
それを聞いて、華はホッとした。
「あとは君が助かりさえすれば、みんな一緒に帰れるわけだ」
「はい!」
すっかり元気になった華は、今すぐにでも壁に開けた穴から外へ飛び出したい気分だった。
そのとき、さっき閉めたハッチからコンコンとノックが聞こえた。
「荷物が届いたみたいだ」
龍之介は通信でロジャーにお礼を言うと、ハッチのハンドルを回して扉を向こうに押しやった。その床に、畳まれた白い防護服とヘルメットが置かれていた。ロジャーの姿はすでにない。
「これって、どうなってるんですか?」
穴の向こうの小部屋が、華には不思議でしょうがない。
「こいつは簡易エアロックだよ。壁に穴を開ける前にこいつを外から固定して、ここに空気を溜めることで、出入りするときに建物の中の空気が抜けないようにする仕組みさ」
「へえ……」
「さあ、服を着るんだ」
華は、ひどく分厚い服を、龍之介に手伝ってもらいながら苦労して着込んだ。防護服は全体が真っ白で、胸の高さに赤くて太いラインが身体を巻くように描かれている。遠くからでも要救助者だとわかるようにしているのだろう。着ているうちに、たちまち汗をかきそうなくらいに温まった。通気性がまったくない、まるで野球のグローブに全身を包まれているような気分だ。着終えると、上から透明な丸いヘルメットを被せられ、背中に薄い生命維持装置のパックを背負わされた。すぐに電源が入り、防護服内に冷たい空気が流れ込んできた。
「一応、冷却装置はついているんだけど、あまりあてにはならないんだ。すまないけど、我慢してくれよ」
そんなことくらい、命が助かることに比べたらなんということはない。華は元気に答えた。
「大丈夫です」
「ようし」
それにしても、華のさっきまでの可憐なワンピース姿とは似ても似つかぬぬいぐるみのような着膨れ具合に、二人は顔を見合わせて笑い出した。
「すぐ外で、ロジャーが宇宙船に乗って待っている。命綱を張って向こうに渡るから、少し怖いけど、がんばってくれよ」
「はい!」
二人は意気揚々と簡易エアロックの小部屋に入り、穴を開けた側のハッチを閉めた。
まさにそのときだった。この世の終わりのような衝撃が二人を襲った。
ディビッド・リップマンのニュース映像には、グラス・リングのガラスの輪にスペースプレーンが突き刺さる瞬間が映し出された。今は、その残骸から絶えず炎が噴き出し続けている。
リップマンはしばらく絶句して、何も言葉が思いつかないようだったが、ようやく気を取り直して、こう言った。
「私たちはもう一度、人類が宇宙へ進出するということについて、もっと深く考えなければならない時期に来ているようです」
地球と、太陽系に散らばるほとんどの人間が、この事態に釘づけになっていた。そして、ついさっき助け出されたばかりの人々も、救助船の中から、さっきまで自分たちがいた場所がさらにひどい有様になっている様子を呆然と見守っていた。
リップマンは続ける。
「人が宇宙を目指すのは本能によるものなのでしょうが、人が過ちを犯すのもまた本能によるものです。人間の過剰な欲望は判断を誤らせ、己の能力を過信し、大きな犠牲を生み出します。人が宇宙へ出ていくことを止められないのなら、その安全をこれまで以上に保障する手立てが必要です。私たちは今日という日を胸に刻み、明日を生きなければなりません」
人々は祈った。それは犠牲者を悼むと同時に、欲望を抑えきれない人間たちの、許しを請う祈りだったのかもしれない。
華と龍之介は強く抱きしめ合って、スペースプレーンが激突した衝撃に耐えた。ボールのように何度も弾み、ヘルメットをお互いにぶつけて、上も下もわからぬ状態で、かなり長い時間抱き合っていたように思えた。いつの間にか簡易エアロック内の重力は失われていた。
「グラス・リングのムーブメントが止まったみたいだ」
龍之介は脇に華を抱え、片手で手すりをつかんだ状態で宙に浮いていた。肩のライトがエアロック内を照らしている。埃が舞い上がり、まだ振動が続いていて、周囲を細かく揺らしているのがわかる。
「何が起きたんでしょう?」
華の声も震えた。
「すぐ近くに何か大きなものがぶつかったみたいだったな。外に出られるかどうか、本部に確認してみよう」
龍之介の視線が宙をさまよった。ネビュラを通して情報を収集しているようだ。