王の帰還(前編)・3a
「まあ、いわゆる吊り橋効果というやつだな。恐怖のドキドキが、恋のドキドキにすり替わったんだよ」
龍之介は、あの三月七日の火星で繰り広げられたグレート・リバースの通過儀礼を振り返った。その間も、彼の両手はボウルと泡立て器を盛んに動かし続けている(カチャカチャカチャカチャ……)。「あのとき、沈んだバリアーの中で不安だった樹雨は、西郷さんにずいぶん支えてもらったらしい。俺はそれどころじゃなかったから、全然気がつかなかったんだけどな。それで、あの後、みんなで鐘の街の片づけをやっただろ? そのときに、どちらからともなく、なんとなく良い感じになったらしい」
「へえ、へえへえへえへえ」
などと妙な声を出しながら、華が興奮しすぎてぴょんぴょんジャンプしたものだから、背中に負ぶわれていた纏がぐずり始めた。泣き出しそうな赤ん坊を、華は慌てて振り返った。「ごめんね、ごめんね、纏さん、びっくりしちゃったね。――それで? 西郷さんと樹雨さんはどうなったの?」
「西郷さんは、もし火星に残れたら残りたいと、小山隊長に相談したそうだ。それでまあ、その話はいったん隊長が預かるとして、とりあえずは帰ろうということになったんだ。それで、みんなと一緒にオデュッセウス号で地球に帰ってきた。それから三か月後に、ユズと天野の妊娠がわかったから、俺たちの小隊は宇宙勤務から外された。みんなはそれぞれ、別の仕事を見つけなくちゃならなくなった。そうしたら、西郷さんは大喜びで火星勤務を希望したよ」
「へえ、だとしたら、ユズは大手柄ですね。妙ちゃんはずっと前から赤ちゃんが欲しい欲しいっていってたけど、まさかユズがねえ……」
華は、今ごろ自宅で待っているであろうユズに思いを馳せた。午前中にいきなりパーティの連絡が来たときにはしょうがない奴だと思ったものだが、そのくらいの祝福はしてあげてもいいような気がしてくる。
ユズの自宅でパーティが始まる午後五時まで、残り三十分を切った。アイスクリームの進み具合は、今ちょうどすべての材料を混ぜ終わって、型に流し込もうという段階だ。抹茶、バニラ、チョコレートがざっと三十人分くらいある。これだけあれば文句はあるまい、とみんなは思った。
「ほら見ろ、やってやれないことはないだろ?」
しのぶは鼻の頭にチョコレートをくっつけて、さもすべてが自分の手柄ででもあるかのように大威張りで言った。
「もう腕がパンパンだよ。このくらいで勘弁して……」
ひたすら泡立て器で卵を混ぜ続けていたオットー・ハイネマンは、最後のボウルを仕上げると、震える両手をだらりと垂らし、ソファーに倒れ込んだ。「ねえ、妙子、腕揉んでおくれ。自分じゃ出来ないんだ」
「あらあら、甘えた声なんて出して」
と、困った顔の妙子はいそいそとオットーの隣りに座って、マッサージを始めた。
華はテーブルの上に三つのステンレスのバットを並べた。それぞれが抹茶アイス、バニラアイス、チョコレートアイスになる予定だ。
泡を立ててふわふわになった卵黄と砂糖に、温めた牛乳と生クリームを混ぜ合わせると、アイスクリームの元が出来る。その過程で抹茶の粉を加えたり、バニラエッセンスを加えればそれぞれの味に変わるのだが、三つ目のチョコレートを加えようとしたときに、愛梨紗の待ったがかかった。
「ちょっと待ちー、チョコは薄く伸ばしてパリパリにしたほうが美味しくなるっちゃなかかと思うと」
と、愛梨紗は強く主張した。
「そりゃあ、美味しくなるだろうけどさ、あと十分で溶けたチョコがパリパリに固まるかな?」と、しのぶは疑問だ。
「一応、急速冷却アイスクリームメーカーにぶち込めば、固いチョコレートが五分くらいで出来るかもしれない、って書いてあるよ」
と、華はタブレットで説明書を読んだ。「ああ、でも、それだと薄く伸ばしたりできないのか。塊になっちゃう」
「それじゃあ、柔らかいやつでもしょうがないじゃないか。今回はそれでいこうよ。時間もないことだし」
そう言ってしのぶが溶けたチョコレートをアイスクリームの元と混ぜ合わせようとしたとき、待望していた例の人物が窓の外に現れた。
強い力で叩きつける風が、ガラス窓を外から震わせた。突然に台風が襲いかかってきたかのような強風だ。大きな物体が日光を遮って部屋の中が薄暗くなったので、いよいよあいつがやって来たなと、しのぶは身構えた。
「ロジャーが窓を開けてくれって言ってるよ」
直接ネビュラに連絡を受けた龍之介が、ベランダのほうへ駆け寄った。そこには、茶色と銀のツートンカラーで塗られた立派な垂直離着陸機がぴたりと静止して浮かんでいた。
しのぶはそれを見るなり、持っているものをすべて放り出して窓に近づいた。
「AF‐93ケストレルじゃねえか。どうやって手に入れたんだ、あいつ」
びっくりした纏も、母親の背中で目を見開いている。
「纏さんもあれが見たいの?」
と、華が訊くと、纏は(首がすわってなくてうなずけないので)代わりにじっと母親の顔を凝視した。
みんなは窓の外に集まって、ロジャーこと山田健太郎のド派手な登場を歓迎した。轟々と吹き荒れる風が、ベランダに出たみんなの身体を包み込んだ。纏は目を細め、おでこを丸出しにして夢中で戦闘機を見つめている。
戦闘機のキャノピーが大きく上に開いた。青いフライトジャケットを着た健太郎が、長い髪をなびかせ、気取ったように二本指で敬礼した。
「やあ、諸君、待たせたね。ねえ、しのぶ君、ちゃんと約束通り来ただろう?」
「なんだよ、サングラスなんかしちゃって生意気に」しのぶは腕を組んでぶっきらぼうに言った。
「これは暗視ゴーグルも兼ねてるんだよ。もうすぐ日が落ち始めるからね」
「それはいいけど、ちゃんと液体窒素とクーラーボックスは持ってきたのかよ?」
「もちろん」
健太郎は後ろの座席を親指で示した。「しっかりご希望の品をご用意いたしましたよ」
「じゃあ、早く上がれ」
と、龍之介が促した。「時間がないんだ」
健太郎は戦闘機をその場にホバリングさせたまま、翼の上を走って(端から見たら正気の沙汰とは思えないだろう)、ベランダに飛び降りた。
新婚の新居に初めてお邪魔した健太郎は、その高い天井に浮かぶ大きなスクリーンに気づいた。そこでは懐かしい火星の風景と、そこで出会った人々が明るい笑顔で新しい日常を送っている映像が映し出されているが、今は「一時停止」の文字がど真ん中を占拠していた。
「なんだい、こりゃ?」と健太郎は訊いた。
龍之介が答えた。
「そいつは樹雨が火星から送ってきたんだ。作業しながら観ていたんだが、忙しくなったからいったん止めてある」
「もったいないじゃないか、みんなで観ようよ」
そんなことを言っている健太郎の前を、大きな荷物を持ったみんながドヤドヤと通過していった。愛梨紗としのぶが協力して液体窒素のボンベを運び、華と妙子とオットーがそれぞれ大型のクーラーボックスを持っている。
健太郎はよく通る声で呼びかけた。
「そいつは使い方を間違うと危ないから、扱いは僕に任せておくれ。みんなは樹雨ちゃんたちからのメッセージを観るといいよ。やっぱり物事は一つずつ片づけていかなくちゃね」
「気が利くじゃんか」と、しのぶも喜んだ。
そうしてみんなはソファーに座るよう促され、ようやくスクリーンに再び注目した。




