王の帰還(前編)・1b
荷物を片付けている龍之介があまりに汗だくなので、華は窓を全開にして外の空気を入れた。
ガラパゴスは赤道直下だが、気候は驚くほど冷涼だ。南極から流れてくる水温の低いペルー海流の影響を受けて、年間平均気温は二十℃前後、真夏でも三十℃を超えることはめったにない。さらに八月末は一年でもっとも気温が低い時期であり、ガラパゴスでは真冬にあたる。
そして、人口密度の高いガラパゴス人工群島は、昼間に温度が急上昇しヒートアイランド現象を起こすために、海との温度差が生じて強い海風が吹く。さらに高層マンションの三十六階ともなれば、周りに風を遮るものが何もない。
「おおお、すごい風だねえ」
華は真正面からびしばしと顔に叩きつける風をもろに浴びた。胸に抱かれている纏も、目を細くして口を真一文字に結び、強い風に耐えている。栗色の髪が激しくなびき、おでこが丸出しになっている。「纏さん、どうですか? この風は」
娘は負けず嫌いな性格なのか、強い風が自分をねじ伏せようとしているらしいことを感じるや否や、あえて顔を背けずにしっかり前を向いた。華はそれを見て、なかなか頼もしい子だと感心した。
見渡す限りの青い海が広がっている。ガラパゴス人工群島は実際の地球を模した配置になっているので、日本区の周り(特に南東方向)は広い海なのだ。雨が少ないガラパゴスには、雲もほとんどない。
「おうい、そろそろ寒くなってきたから、窓を閉めてくれ」
急に汗が冷えた龍之介は、まくっていたシャツの袖を伸ばし、襟元のボタンを留めた。
「はーい」
と華は返事し、胸に抱いている纏に話しかけた。「纏さん、そろそろ戻ろっか」
纏の顔を覗き込むと、風と戦うのにも飽きたのか、眠そうに目をつぶったので、華は微笑んだ。そのとき、娘の背後に何かが高速で滑り込んでくるのが目に入った。
それはものすごく久しぶりに見た、千堂しのぶ発明の垂直離着陸高速無蓋飛行機だった。それが華たちのいるベランダのすぐ真正面に停止した。
「おっす、華、ちょうどいいタイミングだったね」
囲いも何もないカーペットの上で胡坐をかいている千堂しのぶが、颯爽と手を振ってきた。彼女は黒いタンクトップとジーンズといういつものスタイルだ。「何と言って連絡しようか迷っていたところだったんだ。ちょうど出てきてくれて助かったよ」
「みんな、どうしたの? こんな大勢で」
華はなんとなく察しはしたものの、あえてわざとらしくそう訊いた。
空飛ぶ絨毯には、しのぶの他に、パイロットの佐藤愛梨紗、救命医の天野妙子、そして、その夫のオットー・ハイネマンが乗っていた。
オットーは慣れない乗り物に乗せられたせいか、げっそりした表情で青ざめている。それでも紳士的な態度を保って、華に挨拶した。
「お久しぶりですね、華さん」彼の日本語もだいぶ様になってきた。
「お久しぶりです、ハイネマンさん。妙ちゃんもずいぶんお腹が大きくなったね」
横座りしている妊娠五か月目の妙子は、ピンクのマタニティドレスを着ていて、それがアップにした髪と調和し、とても似合っている。
妙子はお腹を軽くさすりながら、美しく微笑んでこう言った。
「これからユズちゃんの安産祈願パーティにいくところなの。華ちゃんにも招待状が来てたでしょ?」
「ああ、やっぱりそれなんだね……」
華はこのままスルーしようと半ば考えていたのだが、こんなに大勢で誘われたのでは断るにも断り切れない。「ユズじゃなくて、妙ちゃんの安産祈願パーティだったら喜んで行くところだったんだけど」
「やけん、今夜それば一緒にすることになったとよ」
と、補足したのは操縦席にいる愛梨紗だ。彼女はパーティのために黒いロリータ・ファッションに身を包んでいて、華は一目見るなり「素晴らしい」と思った。「来月からみんな忙しゅうなるけん、今夜のうちにまとめてやっちゃろうってことになったと」
そうなったら行くしかない。華は慌てて振り返ると、龍之介を大声で呼んだ。
「ねえ、龍之介さん、みんなが誘いに来てくれたの。これからパーティに行こうよ。妙ちゃんの安産祈願も兼ねてるんだって。ハイネマンさんもいらっしゃってるし、いいでしょ?」
疲れた顔の龍之介がベランダまでやって来た。
「おお、こりゃまたおそろいで」
「なにやってたんだよ、龍之介」としのぶ。
「引っ越しの荷物を片付けてたところなんだ」
「まだ終わってなかったのかよ」
寝室とリビングを合わせた広間には、まだ大量のコンテナケースが運ばれてきたままの状態で山積みになっている。
「新しい仕事の準備もあるし、赤子もいるし、なんだかんだでいろいろあってね……」
「それなら、私たちで手伝ってやるよ」
しのぶは勢いでそう言ってから、事後承諾を求めるようにみんなを振り返った。「ねえ、いいだろ? 大勢で掛かったらあっという間だよ。愛梨紗もご馳走の前にお腹を空かせたいだろ。それに、ちょうど男手もいるしさ」
そうしてみんなの期待の目はオットー・ハイネマンに注がれた。彼は丸眼鏡をくいと指先で押し上げると、
「とりあえず、地上に降りられるなら、なんでも出来そうな気分だよ」
と言った。彼は一刻も早くこの恐ろしい乗り物から降りたかったので、そうさせてもらえる理由があるなら何でもすがりつきたい気分だった。
そうしてみんなはベランダに飛び移った。そのときもオットーはひいひい悲鳴を上げて、「下を見ちゃダメよ、オットー」などと妙子に励まされながら、なんとか手すりを乗り越えた。
思わぬ助けを借りて、引越しの片付けはあっという間に進んだ。
龍之介とオットーは重い家具を運んで、それぞれふさわしい場所に配置した。お腹が大きな妙子はケースを開けて荷物を仕分けし、華としのぶはその指示の通りにそれぞれの置き場に運んだ。愛梨紗は用が済んだコンテナケースを畳んで、呼び出した自治体のドローンに回収してもらった。
最後にリビングの真ん中にソファーを並べると、ついにあれほど長い間手こずってきた引っ越しの荷解きが終わった。
一仕事終えたみんなは、ソファーにぐったりと寄りかかった。華はみんなのためによく冷えたカルピスを作った。開け放しの窓から気持ちのいい風が吹き込んで、開けた玄関のドアへと抜けていった。
「本当に本当に、みんなありがとう。おかげで助かりました」
「お礼はいいから、早くパーティの支度をしなよ、華」
「もちろん、ちょっと待っててね」
華は龍之介の背中を叩き、有無を言わせぬ感じで一緒に着替えに向かった。そうしている間、纏は妙子が預かった。
数か月後の未来を先取りするように、妙子は纏をその胸に抱き、オットーと微笑みを交わした。
そのとき、ソファーの前のテーブルに放り出されていたタブレットがぴかぴかと輝き、呼び出し音が鳴り響いた。
画面には大きく明朝体で「三国樹雨」の文字が表示された。




