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ガラパゴス・ガーディアンズ  作者: 霧山純
第三十九話「油を注がれた者(後編)」
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油を注がれた者(後編)・2b

 赤ちゃんのおくるみのように身を包んでいたローブを開いて、アカネとカエデは自分の足で床に立った。アカネはワインレッド、カエデはロイヤルブルーのローブの裾を床に引きずりながら、船室の窓へとちょこちょこ歩いていった。


 その間、ロケットはわずかに左に傾いて旋回し、徐々に青い球体の内側へと進んでいた。

 双子が丸窓の下に辿り着くと、そこから窓の外を見るには、彼らが思いっきり背伸びしてもまだ身長が二回りほど足りなかった。


 アカネとカエデは、樹雨のほうを振り返り、持ち上げてくれないかと目で訴えたが、樹雨はその場を動こうとしなかった。腕を組んでじっと立ったまま、双子からなんとなく目を逸らして、窓の外の赤と青の境目を見つめていた。そうして頭の中は、激しい怒りで我を忘れていた。


 なぜかここに来て、樹雨は自分がずっと騙されていたのではないかと思い始めていた。三か月前のクリスマスイブの晩、カプセルの中に眠っていた双子たちを見たときには、かわいいとは思っても、まだ気持ちはフラットだった。それからたくさんの苦労があって、二人が自分の名を呼んで懐いてくれるようになると、だんだん愛着が生まれてきた。この子たちはこれから大人になっても、自分のことを母として慕ってくれると、どこか期待していた部分もあった。ある意味、それが打算でもあった。今のうちは、これだけ苦労させられても、やがてそれが大きな見返りとなるのならば、まだいくらか我慢できると思っていた。


 五条さんと八海さんが、アカネとカエデをそれぞれ胸に抱いて、窓から外を見やすいように持ち上げた。二人は食い入るように、外にいる人物を見つめていた。

 青い半球に立っているその人物も、双子たちが窓から顔を覗かせていることに気づくと、その剥き出しの手を持ち上げて、こちらに向けて手を振ってきた。


「ありがたやありがたや、南無三宝大荒神なむさんぽうだいこうじん南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)阿毘羅吽欠菩提薩婆訶あびらうんけんぼーじーそわか、アーメン」

 黄明和尚が唱えるお経も、エキサイトしてくるとだんだんデタラメになってきた。


 クロアゲハの華は、樹雨の様子が気になって、彼女の周りをふわふわと飛び回った。あまり鼻先に近づくと何かの拍子で握りつぶされそうな気配が漂っているので、華はなるべく刺激しないように距離を置いて飛んだ。


 天野妙子が、双子のそばに寄って窓の外を見た。彼女はスター・チャイルドに遺伝子を分けた天野幸子とほぼ同じDNAを持っているので、こうして双子たちと肩を並べた姿は、そのまま親子のようでもあった。


 妙子は、青い半球の上に立つ人物と視線を交わらせた。男とも女ともつかない、慈愛に満ちた相貌はまさに仏像か聖像のようだった。その深い輝きを湛えた瞳の奥には、はてしない悲しみがあった。それを見た妙子は胸がどきりとした。

 妙子がその一瞬で感じたのは、「この宇宙にも終わりがある」ということだった。その終わりをいくらかでも先へ延ばすために自分たちがいて、その一日一日が未来を作っているのだということが、このわずかな視線の交わりの中から伝わってきた。あの人が背負っている悲しみを受け取ることが、この儀式の目的なのだということを、妙子は理解した。


「あなたは本当に幸子さんとそっくりですね」

 妙子の頭の中に、何重にも音が合わさったような深い声が聞こえた。その一音一音が、心が落ち着く、きれいな和音になっている。「あなたにお会いできて、とても嬉しく思います」

 その声は、妙子以外には聞こえていないようだ。彼女は戸惑った。自分は、この場ではそんなに重要な立場ではない。自分はただ幸子と血の繋がりがあるだけであって、もっとそれにふさわしい人が他にいるのだ。


「樹雨さん」

 妙子は後ろを振り返り、腕を組んで不服そうにしている樹雨の顔をじっと見つめた。樹雨はすぐに気づき、きまり悪そうに視線を横に逸らした。

 妙子は、はっきりとこう言った。

「樹雨さん、あなたがここに来て、あの人と話をするべきだと思うの」

「私は、ただの子守りですから」

 樹雨は言下に否定した。「その子たちと血が繋がってもいませんし、ただ頼まれたことをやっただけです」


 妙子は負けじと言い返した。

「でも、あなたがこの子たちのお母さんでしょ?」

 その言葉を聞いたアカネとカエデが、二人のおじさんの胸元で互いに顔を見合わせた。外でこちらを見上げている人物と、そこで腕を組んでなぜだか怒っている樹雨とを、交互に見比べてから、双子たちはもぞもぞと身体を動かして、おじさんたちの胸から飛び降りた。


「ちため」

 と言いながら、アカネが手を伸ばして、ちょこちょことこちらへ歩いてきた。カエデはその後ろから、ちょっと恥ずかしそうについて来た。

「いいんだよ、気を使わなくても」

 樹雨は、まだ意固地になっている。腕を組み、視線を逸らしたままこう言った。「あんたたちは生みの親のところへ行きなさい」


「ちため」

 と、それでもアカネはやって来て、とうとう樹雨のオーバーオールの裾をぐいぐい引っ張り始めた。カエデも一緒になって、もう片方の脚につかまった。

 その健気な双子の様子に、周りの大人たちは感極まっていた。夏海などは目に涙を溜めて、「抱きしめちゃえよ」とジェスチャーで表している。


 しかし、樹雨は本当に心の底から、腹が立って仕方ないのだった。周りの人たちは他人事だと思っているから、そうやって泣いたりできるのだ。さんざ苦労させられて、こちらもたっぷり愛情を注いで、本当に楽しかった三か月だったけれど、結局それで自分は都合よく利用されただけなんだという思いが、樹雨の胸の中を渦巻いていた。涙なんか出るはずもなかった。抱きしめようなんていう、そんな前向きな感情とは真逆のものが、今は自分の心を支配しているのだから。


 じれったくなったアカネが、一瞬だけむっとした顔になった。しかし、そこにも、なんだか深い悲しみがさっと影を差すのが、周りで見ている大人たちの誰からもはっきりとわかった。

 カエデが、姉の肩をぽんぽんと叩いた。怒っている樹雨をこれ以上刺激したくないようだった。しかし、アカネはどうしても、こうしたいのだという気持ちに素直に従った。


 アカネは、力いっぱい樹雨の胸に飛びついた。それは驚くようなジャンプだった。思わず樹雨がその両手で捕まえなければ、勢い余って頭の上を飛び越えそうなほどの勢いだった。

 アカネと樹雨は鼻がくっつき合うほどに顔を近づけた。

「ちため……」

 そう言いかけたアカネは、もう一度言い直した。「おかあたん、ずっといっちょ」

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