憧れの第十七小隊・2
一番安いジュースを長い時間かけてすすっていた夏木ユズは、そろそろ席を立たなければならないという気まずさに襲われていた。ユズが座っている席を、さっきから小さな子供たちを連れた親子が狙っていたからだ。
兄たちの話し合いは沈黙のまま長い時間を無駄に過ごしているように思えた。お互いに睨みあうだけで、一向に建設的な話に向かわない。ユズのお小遣いには限りがあるので、追加の注文をして粘るわけにはいかない。小さな子供がこちらの空のグラスをジーッと見つめているのに、もう耐えられなくなった。
「どうせ結論なんか出なそうだから、しばらく散歩でもして時間を潰そうかな」
ユズはそう呟くと、余裕を装ってゆっくり席を立った。
ユズの今のいでたちは、白くて裾の短いワンピース姿だ。こんな服装を兄の前ではめったにしたことがない。いつもは動きやすいパンツ姿のことが多いのだ。今日は泳ぐ気満々なので、中にセパレートのオレンジの競泳水着を着ていた。
兄たちと顔を合わせずに済むよう、ユズはリゾート用モジュールの反対側にある、居住用モジュールに向かった。逆回転する二つのムーブメントを移るために、無重力の不思議な通路を通った。壁の手すりにつかまると、自動的にそれが動いて通路の先まで運んでくれる。子供たちが面白がって行ったり来たりしていた。
居住用モジュールには丘と森が作られ、小川が流れ、小鳥たちが飛んでいた。土を掘ればミミズや虫たちがいて、できる限り本物の自然を再現していた。そこここに広い庭を持つ邸宅が建ち並んでいる。それらにはすでに持ち主がいて、生活の気配を強く感じさせていた。庭でバーベキューをしている香ばしい匂いがあちこちから漂ってくる。子供たちが笑う声、ゆったりと道を散歩している年寄りたち、教会の鐘、ときおり家族を乗せて走る自動車などが、牧歌的な風景を作り出している。
地球のそれと大きく違うのは、それらの風景が壁にへばりついてせり上がっていき、天井でひとつに繋がっていることだ。世界がひとつの筒になり、まるで緑の万華鏡のようだ。
眺めは珍しいものの、自分の町ではないのでどこか居心地の悪さを感じながら歩いていたユズに、突然声をかけてきた者がいた。
「突然の失礼をお許しください、お嬢さん」
それはパリッとした背広姿の白人の紳士だった。白髪交じりの執事のような風貌で、よく通る高い声の英語で語りかけてくる。「今日はどのようなご用事で来られたのですか?」
彼は隣りをついて来るので、ユズは歩き続けながらそっけなく答えた。
「ただの散歩ですよ」
「なるほど、ところで、お気に召された物件などはございましたか?」
「特に何も」
ユズがすたすた歩いていくと、紳士もすたすたとついて来る。
「わたくし、クロフォード・ラグランジュ・リゾート社で案内人を務めております、フランシス・ハーヴェイという者です」
ハーヴェイは白い手袋をはめていた。その手を伸ばしてきたので、ユズも渋々握手した。彼は訊いてもいないのに両手を大きく広げて得々と説明を始めた。
「現在、この居住区にはおよそ百戸の邸宅が建っております。これほど大きな庭と建物を持ちながら、美しいリゾート地にも隣接し、しかも価格もお手頃という条件は地球ではまず見当たりません。住むもよし、投資にもよし、というわけです」
「私にはそんなお金はありませんから」
そっけなくあしらうも、ハーヴェイはひるまない。
「元手など必要ないのですよ。お金は銀行が肩代わりします。お嬢さんに必要なのは未来を見通す確かな目と、ちょっとした覚悟だけです」
「借金なんかしませんから」
ずいずい進むユズの横を、ハーヴェイはしつこく並んでついて来る。
「借金さえ必要ないのです。お嬢さんは不動産購入手続きのサインをする。それに続けて、不動産売却のサインをする。それだけなのです。買ったその場で転売するのです。物件を売って得たお金はあなたの手の中です。そのお金で、また新しい物件をお買いなさい。スペースコロニーはいくらでも新しく作ることができます。買い手はいくらでも現われます。今のうちなら、銀行もリスクが少ないですから、いくらでもお金を貸してくれます。出遅れれば、巨額の費用が必要になりますから、新規参入は絶望的です。今しかないのです」
ユズはようやく立ち止まった。ハーヴェイは胡散臭さをきれいな微笑みの中に隠して、優雅に立っている。
「今から始めれば、簡単にお金持ちになれるの?」
「ええ、間違いなく」
ユズは少し考えて、彼の目を見た。
「後で連絡してもいい?」
犬養守は、ついにいたたまれなくなって席を立った。チームを守ろうとする龍之介の気迫と、筋の通った意見でなければ許さんぞという源吾の強い圧力に対して、今のままでは対抗する術がない。健太郎やコウジは今のところあてにならない。一旦は引き下がって、体勢を立て直す必要がある。そんな考えを地味な造作の顔面いっぱいで彼は表現した。
「僕はちょっとそこらへんを歩いてくるよ。君らは泳いだりして楽しんでくればいいと思うよ。せっかくこんなところまで来たんだからさ」
そう守は言って、その場を離れた。
残された龍之介たちは互いに顔を見合わせた。
「どうする?」
龍之介の問いかけに、源吾だけが一人、首を横に振った。
「俺も一人で考えさせてくれ」
源吾を席に残して、龍之介、コウジ、健太郎の三人は砂浜に立った。
「とりあえず、遊ぶか?」
コウジが言うと、龍之介はにやりとした。
「そうだな」
「せっかく来たんだしね」と健太郎も同意した。
派手なシャツと短いズボンの下は、三人とも海パンだ。服を脱ぎ捨て、それを源吾に預かってもらうと、三人は甲高い声で叫びながら、人工の澄み切った海に飛び込んでいった。めったにない休暇だ。楽しまなければ。
一人でチームを離れた守は、二つのモジュールが接合してムーブメントを回転させているモーターの周辺を歩き回った。そのモーターに隣り合う区画は無重力で、子供たちの格好の遊び場になっている。
守のネビュラの視野に、ムーブメントのモーターの詳細図が表示された。モーターの原動力は太陽電池で、コロニーの周辺に張り巡らされたパネルから電力が供給されている。守は、モーターの回転の様子を秒単位で遡って教えてくれるグラフを観察した。ここ数日のデータをまとめてチェックできる。それらのアクセスは宇宙消防士だけが法律上許されている特殊なパスワードを用いて行う。
ひととおりチェックを終えると、そのデータを統合して送信する手続きに入った。まさにそのとき、守の肩を何者かが叩き、彼はぎょっとして振り返った。
そこにいたのは、以前にも会ったことのある夏木コウジの妹だった。守の顔から血の気が引いて、自分でも真っ青になっているのがわかった。
ユズはいたずらっぽく微笑んで自分の唇に人差し指を当てると、守の手を引いて木の陰に引っ張り込んだ。そこには大きなヤシの木が植えられていて、背の低いハイビスカスの植込みもあり、身を隠すことができた。
女の子に手を引かれて、守はドキドキしながら従った。つい一瞬前まで真っ青だった顔が、今度は真っ赤になった。
ユズは守を木陰に座らせると、すかさず言った。
「守さん、変な連中に騙されちゃダメだよ」
「え? どういうこと? どうして君がここに?」
「私のことはとりあえずどうでもいいの」
「はあ……」
「それより、守さん、あなたのことよ。私、さっきね、フランシス・ハーヴェイとかいう変なおじさんに話しかけられたの」
「その人、誰だい?」
守はのらくらとして、てんで要領を得ない。
「スペースコロニーの土地を買って、それをすぐに売って、お金儲けしようなんていう誘いに乗っちゃダメだよ。そんなうまい話には、必ず裏があるんだから」
「僕は別に……」
ユズは、また守の手をしっかり握った。そして、ぐいと引いて立ち上がらせた。守はドキッとした。
「さあ、守さん、私と一緒にみんなのところに行こう。私は絶対に反対だよ。守さんは今のまま、宇宙消防士の通信士としてがんばるのが一番だと思う。私、守さんのことを尊敬しているんだよ」
「僕のことを?」
「そうだよ。だから、私と一緒に行って、みんなと仲直りしようよ。そして、すぐにでも、こんな嫌なところから離れようよ。ここはまともな人がいるべきところじゃないと私は思うんだ。こんなところにいると、頭がおかしくなっちゃうよ」
「はあ……」
守はまだ煮えきらない。
そんな彼の手を、ユズは引っ立てるように強く引っ張り、海岸にいる兄たちのところへ向かった。やっぱり私がここに来てよかった、と強く思いながら。




