臨界領域・4b
火星を見下ろす消防衛星で待機している桃井華は、小山三郎隊長からの緊急呼び出しによって意識を引き戻された。
ずっとクロアゲハに乗り移って龍之介のそばにいたものだから、急に人間の身体に戻って一Gの重力にさらされたときには、自分が岩の塊にでもなったかのような気がした。
赤いランプが目の前の空中タッチパネルに表示されている。小山隊長の呼び出しに応えるにはそのランプに触れなければならないのだが、そこまで腕を持ち上げるだけでもひどく骨が折れた。
「桃井、火星への総攻撃が開始された。我が隊の両チームの現在位置を知らせてくれ」
華は隊長の指示に従い、ディスプレイ上の火星の地形図の中を移動している二つの印を目で辿った。「A」と「B」が立体的な飾り文字で表示されている。マリネリス峡谷に沿って西に飛んでいる赤い「A」の位置がずいぶんずれていたので、華は秘密回線を通して最新の座標を入手し、情報を修正した。
そして、青く表示されている「B」の情報を確実にするために、秘密回線を使ってブラボー・チームの穂村夏海に接続しようとした。
そこにミスはないはずだった。
秘密回線の通信内容は暗号化され、さらには何重にも築かれた防壁によって、政府関係の一部の者しかアクセスすることができない。一般人と大差ない犯罪組織のモリアーティにおいては、その回線に近づくことすらできないはずだった。なぜなら、防壁を突破して不正なアクセスを試みた者は、その強力な逆探知システムによって、ただちに居場所を探り当てられ、報復攻撃を受けることになるからだ。それは端末を破壊することから、侵入者の肉体を含む物理的破壊に至るまで、すべてが合法と認められている。それほどに秘密回線への侵入は重罪なのだ。
それほどの危険を冒してまでも秘密回線へアクセスしようとする者はいるはずがないと考えるのは常識だった。ところが、その常識が目の前でひっくり返されるのを、華はこの瞬間に見てしまったのだった。
ディスプレイにはノイズにまみれた暗闇が映し出されていた。向こうのカメラのレンズに付着しているのであろう水滴が画面いっぱいに散っている。湿気のためかひどく全体が曇っているのは、それが火星の地上から送られてきた映像なのだということを示していた。華自身が(意識だけではあるが)ほんの数秒前までいたところなのだから、その暑さや息苦しさまでがはっきりと伝わってきた。
カメラは天井を向いているようだ。ただの暗闇のように見えていたものが、絞りを調節されたのか、いくらか鮮明に見えるようになった。
青みがかった甲冑を身にまとった人物が、カメラをまたぐような形で映し出されていた。その人物が足を広げて座っている地面にカメラが置かれているようだ。その人物の背後の天井には緑の葉が茂っており、その向こうからじわじわと青い光がにじみ出ていた。
その人物は、恐ろし気な鬼のような形相の面頬を身に着けている。
「桃井華さんでいらっしゃいますね」
その人物が透き通るような涼しげな声で自分を呼んだので、華はその声によって自分の心臓をつかまれたような気がした。それは女性の声だった。そして、その声には、すべての決着をここでつけてしまおうと覚悟しているような、どこか突き抜けた力強さがあった。
華は、それに答える前にまずは小山隊長に連絡を取った。指示された通りに二つのチームの正確な現在位置を報告した。それからディスプレイに視線を戻すと、そこに映っている人物は顔を覆っていた仮面を外し、素顔をさらしていた。
その女性の顔を、華は知らない。
「はい、確かに私は桃井華ですが、あなたは……?」
秘密回線を辿ってアクセスしてくる人間がそれなりの人物であるはずなのは間違いない。女性は自らの名を名乗った。
「私は、ここではクラヴァータと呼ばれておりますが、本名を常磐井道子と申します。あなたはご存じないと思いますが……」
華は、画面に映る太い眉の、古風な瓜実顔の女性にまったく見覚えがないし、その名前もまったく聞いたことがなかった。だから、
「はあ……」
と、気の抜けた返事を返すことしかできなかった。
常磐井道子は被っていた兜を脱いだ。長い黒髪がさらりと落ちて、画面の左右に広がり、天井に向けて幅を狭くしていく遠近感を強調した。彼女の顔には強い覚悟があった。
「あなたが私のことを何も知らないのは当然ですよね。でも、私はあなたのことをよく知っています」
彼女は思わせぶりなことを言って、カメラにはっきりと向き合った。「あなたが忘れていらっしゃらなければよいのですが……、覚えていますか? 芦高サトルという人のことを」
華は最初、あまりピンとこなかったが、少しずつ記憶を辿っていくにつれて、突然、胸に激しい電撃を当てられたようなショックを受けた。
忘れるはずがない。それは華が十代の頃に、龍之介と並んで強い影響を受けた男性の名だった。




