臨界領域・2b
「……と、いうことなので、よろしくね、龍之介ちゃん」
「待て」
と、龍之介は強く呼び止めた。「『と、いうことなので』じゃ、さっぱりわからん。ちゃんと説明してもらおうか。いつもいつもあんたたちの都合で振り回されて、こっちは大変なんだ」
それに合わせて、他の隊員たちも「そうだそうだ」と声をそろえた。
すると、声の主が変わり、あの油断ならない早口の陰謀家がこう言った。
「今、幸子が説明した通り、連合軍のスター・チャイルド奪還作戦が進行中ではあるけれど、僕はまだ彼らを信用しきれていないんだ」
彼はすぐに本題に入りたいようだが、龍之介はまず挨拶しないと気が済まなかった。
「久しぶりですね、バラードさん。あなたの姿をずいぶん長いことお見かけしませんでしたが、お元気でいらっしゃいますか?」
クリスチャン・バラードは、旧知の友に再会したような、少し嬉しそうな様子で答えた。
「僕はこれまでの人生の中でも、もっとも充実したひとときを過ごさせてもらっているよ。龍之介、君と話せて嬉しい。君と僕の価値観には共通する部分がたくさんある。また夜通し語り合いたいものだね」
「そうですね」
などと微笑んでいる龍之介の腕を、隣りのコウジが急かすように肘でつついた。
気を取り直して、龍之介は言った。
「幸子さんがおっしゃるには、俺たちのスペース・ガーディアン一号で双子たちをつきっきりで守ってほしいそうですが、それはすでに、連合軍やうちの小隊のもう一つのチームが受け持っているはずです」
「その通り」
クリスチャンは言った。「だから、繰り返しになるけれども、僕は彼らのことをまだ信用しきれていないんだ」
龍之介は言った。
「うちのブラボー・チームは、モリアーティの幹部たちと行動を共にしています。すでに彼女たちにはマルテル総督から真実が知らされていて、そのことを伏せて彼らと協同しているんです。あなたはそこを疑っているのですか?」
「そうじゃない」
クリスチャンは、ややこしい内容を整理するように、言葉を区切りながら言った。「スター・チャイルドの二人は、太陽系の新しい王なんだ。地球にも、エウロパにも、ましてやモリアーティにも、どこにも属していない、独立した存在なんだ」
龍之介たちの頭から大量の「?」が飛び出して、狭いコックピット中に飛び交った。クロアゲハの華は、それをジャンプして避けた。
それを無視して、クリスチャンは続けた。
「あの二人が正式に王になるためには、この火星で通過儀礼を行わなければならないんだ。それを経験しなければ、二人は王としての資格を得ることができない。だから、君たちにはその手伝いをしてもらいたいと思っている」
「話が長くなりそうだな」
と、ロジャーこと健太郎はつぶやいて、点火していたアキレウスのエンジンをいったん止めた。機体の振動が収まって、急に船内が静かになった。
「それで、あなたがおっしゃる通過儀礼とは?」龍之介は尋ねた。
クリスチャンは言った。
「君たちも去年見たはずだ。僕と幸子がエウロパの海底に潜ったとき、たくさんの悪意に取り囲まれて、僕は危うく精神を破壊されるところだった」
「あなたはそれを、不機嫌と名付けられましたよね」
みんながすっかり忘れていた中、犬養守だけがその用語を覚えていた。「そして、それをあなたは克服した」
クリスチャンは嬉しそうな声を出した。
「ありがとう、守。今はまだまだ修行中だけれど、僕もいつか幸子のように、その不機嫌から自由になれるようにがんばっているところだよ」
「それで、その不機嫌をふまえたうえで、通過儀礼とはなんなのでしょうか?」龍之介はじれったそうに、もう一度尋ねた。
「龍之介、すまないが、もう少しだけ話を聞いておくれ。君たちには、この不機嫌というものがどこから生じているのかについて、知ってもらいたいんだ」
「ええ、遠慮なく、おっしゃってください」龍之介は諦めて、先を促した。
クリスチャンは荘重な声で語り始めた。
「人は誰しも、特別な存在でいたいと願っている。自分を価値あるものだと認めてもらいたいと思っている。この社会は、そうした人間たちの願望が坩堝のように煮詰まり、混沌としている。当然ながら、誰でもが成功できるわけではない。敗北を舐めなければならない者たちが一定数、必ず出てくる。それは社会が成熟していようが、未開であろうが変わらない。勝者がいれば、敗者がいる。そうして敗北した者たちが背負わされているのが、この不機嫌なんだ」
クリスチャンは一息ついてから、また話を続けた。
「不機嫌は上から下へと落ちていく。勝者たちは当然の如くに不機嫌を放り出し、下へとばら撒く。下の者はそれを受け入れざるを得ない。僕はこれを『不機嫌のトリクルダウン』と呼んでいる。富が上へ吸い上げられるのと同時に、不機嫌は下へと流れ落ちていく」
龍之介は「あなたこそ、その勝者たちの頂点ではないですか」と言おうと思ったが、話の腰を折るのでやめておいた。
クリスチャンは続けた。
「何万年もの人類の歴史の中で、不機嫌のトリクルダウンは当たり前のように行われてきた。文明の形態がどうであれ、本質は変わりがなかった。君主が国を支配しているときでも、民主的な統治がなされているときでも、競争によって階層が生まれ、富は上へ、不機嫌は下へと分かれた。社会があるところには、かならずそういう不平等が生まれるんだ。だから、僕はそれを逆転させようと思った」
クリスチャンは少し間をおいて、こう言った。
「太陽系の新しい王であるスター・チャイルドの二人には、この不機嫌のトリクルダウンを逆転させる王として君臨させたいと思っている。それは僕と、幸子と、エウロパの指導者がともに考えを出し合って決めたことだ。上から下へ不機嫌を押しつけることは野蛮な所業なのだということを知らしめたい。そして、それを成し遂げるための精神エネルギーを誰もが自分の中で生み出せるように変えていきたいんだ」
龍之介の口から、自然とその後の言葉が湧いてきた。
「すると、通過儀礼というのは、双子たちがその不機嫌を克服するということなのですね?」
「その通りだ、龍之介」
クリスチャンは昂り過ぎた気持ちを抑えるように、声のトーンを落とした。「儀式は、龍之介、君が名付けた『地獄の門』で執り行われる。ここに今、太陽系全体からやってきた不機嫌が集結しようとしている。ここから逆転が始まるんだ。スター・チャイルドが悪意を上に吸い上げることによって、今度は富が自然と下へ流れ落ちるようになるだろう」
「あなたは本気で、それが実現できるとお考えですか?」
龍之介は、念を押すように訊いた。そこに非難する意味はないけれど、どこか妬みのようなものが含まれていた。龍之介だって、そんな理想を抱いたことはこれまで何度もあった。だが、その権限がないばかりに、悔しさを吞み込むしかなかった。
このクリスチャン・バラードという男は、そのあり余る権力を利用して、ある意味で究極の道徳を世界にもたらそうとしている。本当に世界がそう変わるのなら素晴らしいことだが、それを素直に受け入れきれない気持ちがあることを、龍之介は否定できなかった。
だが、今はそれを受け入れるしかなかった。それに反対できるだけの根拠を誰も持ち合わせていなかったからだ。クリスチャン・バラードの権力は強大すぎた。龍之介は周りのみんなと顔を見合わせると、こう言った。
「わかりました。あなたがご希望されている通り、スター・チャイルドがこの場所へ無事に辿り着けるよう、力をお貸ししますよ」




