ラグランジュ・ポイント(後編)・2a
五人そろって螺旋階段を上がると、すぐ目の前に木のドアが現れた。惑星を代表する総督の執務室にしては、ごく素朴な木材で、年季の入ったニスの匂いがする。ちょうど目の高さのところにパネルがあって、筆記体のフランス語で「総督室」と書かれていることだけが、この部屋が特別なものであることを表していた。
五人の後を、二人の騎士がしんがりを守って階段を上ってきた。彼らが建物の中を歩くたびに、鎧の金属がぶつかり合う派手な音が響いた。その一歩ごとに、木製の階段は悲鳴を上げるようにきしんだ。
夏海は先頭に立ち、緊張の面持ちでドアの前でこぶしを握った。ポール・マルテル総督が、自分の知っているポール・マルテル市長であるという保証はない。最初からモリアーティに与していたのかもしれないし、彼らと出会った途端に思想が塗り替えられてしまったのかもしれない。もしも、彼が正気を保っていて、元のままの市長だったとしても、その場合は、彼が自分たちの力になれるという期待が持てない。
夏海はまったくプランが立たないまま、頭は真っ白で、何も考えが浮かばなかった。後ろでは、にこやかな二人の騎士――ヴェナトリアとクラヴァータ――が、夏海の緊張をほぐそうと、優しいうなずきを送ってくれている。
夏海は覚悟を決めて、三回ノックした。
「どうぞ」
と、よく響く深い声が部屋の中から聞こえた。
夏海は、思っていたよりもすんなりとその声が胸に納まるのを感じて、いくらかホッとした。その声には、以前にも聞いたことのある彼独特の親しみがあった。
「失礼します」
夏海は大きくドアを開けた。
大きなマホガニーの執務机が目に入った。その奥は広々とした窓になっていて、その前に、褐色の肌をした肩幅の広い人物が笑顔を浮かべて座っていた。彼は真っ白なシャツに、ロイヤルブルーのネクタイを締めていた。
そこにいたのは、夏海のよく知る、ポール・マルテル市長だった。彼はすぐに立ち上がると、その長身で天井を擦るようにして近づいてきた。
「よく来たね、夏海。去年の秋の会議以来だったかな。最近は忙しくて、ずいぶんご無沙汰してしまった」
彼は、聞き心地のよいフランス語訛りの英語で話しかけてきた。
「本当にお久しぶりですね」
夏海も英語で応じると、にっこりと微笑み、総督と握手を交わした。「いつの間にかご出世なされたようですね。おめでとうございます」
「ありがとう」
ポール・マルテル総督は軽くウインクすると、夏海の後ろでしゃちこばっている四人の隊員たちに目を走らせた。「この子たちは君の部下かい?」
夏海は大きく首を横に振った。
「いいえ、この子たちは私の先輩たちです。私はこの隊のリーダーがお産のために現場に出られないので、その代理を務めているわけなんです」
「しかし、キャリアは君のほうがずっと上だろう?」
「チームの中ではひよっこですよ」
夏海が謙遜すると、後ろの四人は恐縮したようにうつむいた。
執務室のドアが少しだけ開いていて、その向こうで二人の騎士が見張りに立っているのが、総督の目に留まった。
「君と……、その横にいる君」
総督は二人の騎士を指さして言った。「少しばかり、彼女たちとゆっくり話がしたいので、しばらくドアを閉めておいてくれないか?」
すると、ヴェナトリアは意外なほど冷たい声で答えた。
「いいえ、片時も目を離すなと命令を受けておりますので」
「そうか」
総督は肩をすくめると、その長身を少しかがめて、自分の椅子へと戻った。彼のすぐ横には、緑の火星を模した星旗と、赤い火星を幾何学模様で描いた火星開発統治機関の旗とが、並んで立っている。
ポール・マルテル総督は、目の端でドアの外を気にしながら、夏海に向かって小さく手招きした。
「みんな、ちょっとだけ前に出てきてくれないか。最近どうも耳の調子がおかしくてね。よく耳鳴りがするんだ」
すると妙子が、気の毒そうに眉を八の字にして言った。
「私が診察いたしましょうか?」
総督は嬉しそうに笑った。
「そうだね、今度時間を作って診てもらおうか。――それより、もうちょっとだけ前に出てきてくれないか。全員……そう、そのくらい」
よく見ると、夏海たちの足元にはふかふかの絨毯が敷かれていて、その中央が幾重にも重なった円形の模様で彩られていた。それはまるで魔法陣のようで、見る者を吸い込むような禍々しさがあった。
「その円の辺りにみんなが入るようにしてくれるかな」
妙に総督がしつこく指示してくるので、五人ともが、これは何かあるなと勘づき始めていた。
少し開いているドアの外では、二人の騎士がじっと監視の目を注いでいる。
総督は、騎士たちの視線を五人の身体で隠すように身をかがめて、小声でこう言った。
「これから何が起きても、驚いたような声を出してはいけないよ。君たちはもう、彼らの目の届かない領域に入り込んでいる。安心してくれたまえ」
このメンバーの中では、一番驚いた声を出しそうな妙子とユズが、後ろから二人の仲間によって口をふさがれた。しのぶが妙子の口を、愛梨紗が(背伸びして)ユズの口をしっかり押さえた。
「妙子、あんた、いい匂いがするな」しのぶは大きく鼻で息を吸った。
「やめて」
妙子が本気で嫌がった声を出した瞬間、五人の身体は床下に吸い込まれていった。




