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ガラパゴス・ガーディアンズ  作者: 霧山純
第三十一話「イヤイヤ期」
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イヤイヤ期・4a

 黄明和尚と浅倉義夫主任が階段のほうへと向かおうとしたとき、その二人に呼びかけるようにカエデがベビーベッドの上で立ち上がった。彼は水色の産着を着ている。

「おっとたん」

 片手に林檎を持った和尚は、すぐにでも二階へ行きたかったのだが、その呼びかけに抗えずにベッドのほうへ吸い寄せられた。

「なんだ? カエデ、目が覚めちまったのか」真顔を維持したいのに、つい目尻が下がってしまう。


 カエデはその聡明な青い瞳を、和尚の手元の林檎に注いでいる。

「ご」

「こいつは林檎だ……、でも本物じゃないぞ。おっと、触っちゃいかん」

 伸ばされたカエデの両手を、和尚はやんわりと抑え込んだ。「おい、八海、こいつの相手をしてやってくれ」

「はいはい、すぐ行きますよ」

 エプロンを着て朝食の後片付けをしていた八海さんがバタバタと走ってきた。


 カエデはしきりに「ご、ご」と言って林檎に興味を示している。浅倉主任はその様子を面白く感じたのか、その軽薄な手でカエデの頭を軽薄に撫でようとした。

「こら、お前は触るんじゃない」

 和尚は、浅倉主任を妨害するように間に割って入った。

「なんで俺はダメなんだよ」

「アカネだけじゃ飽き足らず、カエデまで手なずけられたらこの世の終わりだ」

「それは俺の人徳というやつだぜ。和尚も俺に嫉妬している暇があったら、子供に信頼されるように魂を磨くんだね」


 その軽薄なセリフを打ち消すように、八海さんも間に割って入った。

「はいはい、浅倉さん、邪魔ですよ。カエデ、こっちにおいで」

 八海さんの大きな胸に抱かれたカエデは、それでも名残惜しそうに林檎に手を伸ばしている。黄明和尚は彼を説得するように言った。

「今からわしらは二階へ行って、こいつが何なのか調べなきゃいかんのだ。もしも、こいつがなんでもないとわかったら、お前のおもちゃにさせてやるから、それまで待っていなさい」

「ぶーっ」

 と、カエデは不満そうに唇を震わせた。


 丸太のテーブルで最後のお茶漬けをかき込んでいた樹雨は、箸を置いてカエデのそばへやって来た。

「カエデ、おトイレは大丈夫?」

 すると、カエデは首を横に振った。

「行かなくて大丈夫?」

 カエデは首を縦に振った。どうしても林檎が気になるのか、彼は八海さんの胸の中から降りたがって身体をくねらせている。


「しょうがないな、お前も来なさい」

 観念した和尚は、カエデの両脇を持って床に立たせた。「お前、もう階段は(のぼ)れるのか?」

「手すりに摑まったら一人で上がれるんだよ」樹雨が代わりに答えた。

 カエデは嬉しそうにちょこちょこ歩きながら、和尚たちの後ろをついていった。

「樹雨ちゃん、食器洗うの手伝って」

 と、八海さんに呼ばれたので、樹雨は心配ながらもカエデのそばを離れた。あとは和尚が見てやってくれるだろう。


 八海さんと樹雨が九人分の食器を洗っているとき、隣りの部屋(樹雨の寝室)で一人でイチゴ粥を食べていたアカネが、おそるおそるドアを開けてやって来た。その姿を見つけた樹雨は、笑顔になるのを我慢できずに声を掛けた。

「アカネ、ちゃんと全部食べれた?」

 アカネは大きく首を縦に振るが、その目は辺りを注意深くうかがっている。まだどこかに浅倉主任がいるのではないかと警戒している様子だ。その茶色い瞳の上で、長い睫毛が不安そうに震えている。


「浅倉さんなら、お師匠(っしょ)さんと一緒に二階に行ったよ」

 樹雨がそう言うと、アカネは大きくため息をついて(その姿はまるで大人のようだった)、まだ顔をこわばらせたまま、両手を伸ばして樹雨のほうへ歩いてきた。そして、アカネは樹雨の太ももをぎゅっと抱きしめて、顔をうずめた。

「どうしたの? 浅倉さんに会えて恥ずかしかったの?」

 樹雨がアカネの頭を撫でると、彼女は顔をうずめたままでうなずいた。アカネの胸の小さな鼓動が激しく脈打つのを、樹雨は自分の膝で感じていた。なんていじらしいのだろう。


 樹雨はたまらずアカネを抱きかかえた。彼女は恥ずかしそうに両手で顔を覆っている。その手の隙間から小さな鼻がのぞいているので、樹雨は思わず指先でそれをつついた。アカネはびくんと身体を震わせた。

「アカネさん、これからいろんなことがあって、浅倉さんのいろんな面を知ることになると思うけど、それでもその気持ちがいつまでも続くようでいられたらいいね」

 樹雨は、アカネにそう語りかけるというよりも、自分自身にそれを言い聞かせているような気分でいた。浅倉主任には子供の幻想を壊さないようにまともな人間でいてもらわなきゃいけない。自分がその調教を責任もってがんばるのだと、樹雨はこのとき心に決めた。


 二階に向かう黄明和尚と浅倉主任の後を、カエデは器用に手すりを使って上っていった。

「ほら、よいしょ、よいしょ」

 浅倉主任が軽薄な調子で応援する様子を、和尚は振り返って微笑ましく眺めた。こうしていつまでも平和な日常が続けばいいのだが……。和尚の胸には大きな不安が渦巻いていた。その右手には重い黄金の林檎が握りしめられている。この林檎はきっと偽物に違いないとは思っているのだが、こうしたものを使って世の中を乱そうとしている連中が動き出している気配を否応なく感じていた。


 もしもこいつが爆弾だったとしたらどうだろう? 一階のテーブルには同じものが十数個転がっているし、それらが同時に爆発したとしたらこの家は木っ端みじんだ。もっとひどければ鐘の街(ベル・タウン)自体が崩れるかもしれない。おばあちゃんとやらがターミナルで配っていたというこの物体が、単なる政治団体の宣伝活動の一環であれば、それが一番マシだ。テロの道具だとしたら最悪だ。いや、もっと最悪なのは――そんなことがあり得るとは到底思えないのだが――機械細胞(マシン・セル)と同じ働きをするコピーを大量に製造する技術を何者かが手に入れた場合だ。

 ともかく、それを確かめなければならない。


 三人は埃まみれの二階に辿り着いた。そこには黄明和尚の書斎と寝室があって、部屋の大半を古めかしいガラクタが占めている。

「よーし、カエデ殿、よく上れましたね」

 やり切ったカエデを浅倉主任が抱きかかえると、カエデは誇らしげに鼻から息を出した。ところがたちまち顔をゆがめ、「くちゅん」と小さくくしゃみした。


「あんまりあちこち触るなよ。埃を吸って病気になっても知らんぞ」

 黄明和尚は書斎の真ん中にある机へ一直線に進んだ。その動線だけは埃がきれいに取り払われているが、それ以外のすべては厚い埃が層をなしている。

 浅倉主任はそこらへんにあったボックスティッシュを二、三枚抜き取ると、カエデの鼻にあてがった。

「ちょっとは掃除しなよ、和尚」

「お前と違って、こっちは他にやることがいっぱいあるんだ」

 和尚は振り返りもせず、机の上の骨董品のようなコンピューターのスイッチを入れた。画面はすぐには明るくならず、まだ暗いままだ。


 起動を待っている間に、和尚はガラクタの山の中から、三十センチ角ほどの黒く塗られた金属の箱を取り出した。それをコンピューターの横に置くと、埃まみれの配線をいくつも繋いで、最後に箱の横にあるスイッチを押した。箱の正面が上にスライドして、銀色の空洞が露出した。和尚はそこに黄金の林檎をセットして、蓋を閉めた。

「さあ、何が出てくるかな?」

 黄明和尚はキーボードを手元に引き寄せた。

 浅倉主任の腕に抱かれたカエデは、その青い瞳をディスプレイに注いでいる。

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