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イヤイヤ期・2a

「サラダもあるよ、樹雨ちゃん」

 テーブルの向こうから八海さんが声を掛けた。時計回りにレタスとハムとゆで卵とチーズをマヨネーズであえたサラダのボウルが回ってきたので、樹雨は自分のベーコンエッグの皿にトングで取り分けた。樹雨はこいつが好物なのでちょっと多めに取ると、かなり少なくなってしまった残りのボウルを隣りの高志に申し訳なさそうに渡した。


 それをアカネが横でジーっと見ている。

「どうしたの? アカネ、サラダが食べたいの?」

 と訊くと、アカネは真剣な表情でうなずいた。

「コショウ入ってるよ、大丈夫?」

 と訊くと、アカネはそれが何か問題でも? と言わんばかりに真剣な表情でうなずいた。


 どのくらいなら大人と同じものを食べさせたらいいのかわからないので、お伺いを立てるように八海さんの顔を見ると、彼はニコニコしながら親指と人差し指をちょっと開けて、

「少しなら大丈夫だよ」と言った。

 樹雨は具の表面についたマヨネーズを削ぎ落して減らすと、それを先の丸い小さなフォークの上に集めて、アカネの口元に持っていった。

「ほら、おたべ」

 アカネは大御所のようにどっしりと構え、口だけを大きく開けた。樹雨は雛鳥の口に餌を突っ込むようにサラダを突っ込んだ。


 しばらく難しい顔をして黙々と噛んでいたアカネは、まとめて一気にごくんと飲み込むと、満足そうに顔を輝かせた。

「おいしかった?」

 と、樹雨が訊くと、アカネは鼻から大きく息を吐き出しながら「うん」と答えた。

「えらいねえ、大人の味がわかるんだね」

 その誉め言葉にアカネは「当然」と言わんばかりの得意気な流し目で答えると、再び大きく口を開けた。


 樹雨がまた八海さんにお伺いを立てると、今度の彼は真顔で首を横に振った。

「ダメだって」

 樹雨が残念そうな顔でそう言うと、アカネはたちまちへそを曲げた。

「ぶーっ」

「大人の食べ物は塩分が多いの。こっちのお粥をおたべ。アカネが食べやすいように八海さんが作ってくれたんだよ」

「ぶーっ」


 樹雨がイチゴ粥の乗ったスプーンを近づけても、アカネは一向に口を開けない。

「じゃあ、何が食べたいの?」

「ちゃらだ」

「しょうがないな、もう一口だけだよ。もう一口食べたらお粥を食べるんだよ」

「やーだ」

「やーだじゃないの。それしかあんたが食べられるものはないんだから、後でお腹が空いても知らないよ」


 スター・チャイルドの二人は、一日に普通の子供の十倍の量の食事をとる必要があるのだが、一度に摂取できる塩分に関しては普通の子供と同じだった。腎臓がまだそれほど大きくないのだ。それに加えて肝臓もまだ未発達なので、毒物に対する耐性も弱かった。


 赤毛のツインテールをぶんぶん振り回して駄々をこねているアカネの横では、弟のカエデがこちらもまた難しい状況にみずからを追い込んでいた。

「どうしたの? イチゴが嫌いなの?」

 五分刈りのレンジャー隊員土屋高志がその大きな身体を小さくして猫なで声を出しても、カエデはなかなかスムーズに言うことを聞いてくれない。高志が差し出すイチゴ粥を、カエデは断固として拒否した。

「ばなな」

 と、一言発した後のカエデは、梃子でも動かないつもりで椅子の手すりを両手でつかんでいる。その頭の上に飛び出したちょんまげヘアーのせいで、「今朝の食事は()の口に合わぬ」と言っている殿様のように見える。


「八海さん、どうしてもバナナのほうがいいみたいなんですけど……」

 高志が助けを求めると、八海さんは肩をすくめた。あんなにおとなしくて従順だったカエデですら、二歳児(実際はまだ二か月だが)のイヤイヤ期の葛藤はその性格を変貌させてしまうほどの強い力を持っているのだ。

 これは赤ん坊と大人たちとの駆け引き(ディール)だった。

 ここはカエデの性格に合わせて、彼一人の感情だけにとどまらず、より大きな公共心をかき立てる方向で説得しなければならない。それが大人たちが学んできたカエデ攻略法だった。


 高志はなんとかがんばって言葉を選び出した。伊達に双子たちと二か月を過ごしてきたわけではない。コミュニケーションスキルは彼の中でも着実に育まれてきたのだ。

「カエデさんよ、こうしてみんながありつけている食べ物は、とてもとても貴重なものなんだよ。ここは火星で、収穫できる食べ物はわずかだから、足りない分は地球から送ってきてもらわなけりゃいけない。だけど、地球から運んでくる食べ物はとてもとても高価なんだ。……『高価』って、意味はわかるかい?」


 カエデがどれほど話の内容を理解できているのかはまだ定かではないが、大人が自分に向かって真剣なエネルギーを注いでくれていることはわかっているようだ。強要でもなくわがままでもない真面目な態度で相手が接してきているときには、自分も真面目にそれに答えなければならないというルールがあることを、カエデは生まれながらにその遺伝子に刻み込まれているらしい。『高価』の意味を訊かれたカエデは、首を横に振った。


 高志は情熱を込めて説明した。

「高価なものっていうのは、手に入れるためにとてもたくさんの労力を必要とするもののことなんだよ。ここでは大勢の大人たちが働いて、毎日いろんなものを手に入れているけど、高価なものはみんなが一生懸命働かないとなかなか手に入らないものなんだ。たとえば君が欲しがっているバナナは、ここにいる和尚さんや五条さんや八海さんや樹雨さんががんばって働いて稼いだお金でようやく交換できるものなんだ。バナナは火星では育たないから、地球から運んでくる必要がある。地球から運んでくるものはどれも高価なんだ。だから君に毎回バナナを食べさせたいと思っても、それだけの量を用意するにはたくさんのお金が必要になってくる。そうすると大人たちはもっともっと働かなくちゃいけなくなるんだ。今、大人の人たちは動物の世話をしたり畑の作物を育てたりしながら、火星で作れる食べ物の種類をもっと増やすための研究もやっているんだ。その研究で成果を出さないと、会社から給料がもらえないんだよ」


給料(ちゅうりょう)?」

「そう、給料っていうのは、欲しいものと交換するお金のことだ。人間は生きるためにはお金が必要なんだ。食べ物や、生活に必要なものは、お金がなければ手に入らない。カエデさんよ、君が食べているもの、着ているもの、この家の中にあるすべてのものは、お金がなければ手に入らないんだよ。みんながそのために一生懸命働いている姿を君も毎日見ているだろう? 今ここにある、君が食べたがらないイチゴも、そうやって働いて稼いだお金で手に入れたものなんだ。このイチゴの中にも、みんなの労働が詰まっているんだよ。君はまだ働けないから、みんなが代わりに君のために働いてくれている。君もやがて大人になったら、その番が回ってくる。それまで与えられるばかりだったのに、逆に与える側に立つことになる。人間はいつまでも子供ではいられない。君が大人になったら、今度は君が子供たちのために働くんだ。そうなったときに君はわかるだろう。働きもせずにわがままを言うことがいかに恥ずかしいことかをね」


 高志の言っていることの意味が本当に理解できているかどうかはわからないが、カエデは自分に向かって語られた言葉の量と、その熱気に圧倒されて、深い感動を覚えたようだった。

「だから今は、イチゴ粥を食べなさい。こいつをちゃんと食べたら、今度はきっとバナナ粥も出てくるさ。君が正しいことをすれば、こちらも正しいことをしてそれに答える。それが本物の大人の駆け引き(ディール)だ。自分のわがままを押し通すことは、それとはまるで逆の、とてもみっともない行為なんだよ」


「ごめんなたい」

 それは無理強いされたわけでもなく、自然と心から溢れ出てきた、彼の素直な言葉だった。カエデは差し出されたスプーンに乗ったイチゴ粥を、自分から口を伸ばして受け入れた。あんなに拒んでいたものでも、食べてみれば美味しいものだということが、彼の晴れ晴れとした顔の輝きから伝わってきた。


「さすがですわ、先輩……」

 隣りでアカネを相手に四苦八苦していた樹雨は、若きレンジャー隊員の見事な説得術に舌を巻いた。

 自分に注がれた尊敬のまなざしに気づいて、高志は照れ臭そうに頬を赤らめた。

「いやあ、カエデがこういう性格だから、たまたま言い聞かせやすかっただけですよ」

 そう、カエデは大人な性格だから、大人の論理で説得できる。しかし、姉のアカネはより本能に基づいて行動を決める性格だから、大人の論理では扱えない。これはかなり高等なスキルを要求される仕事だ。このまま彼女をわがまま放題に育ててしまったら、ろくでもない大人になってしまうことは必至だ。なんとかアカネの手綱をうまくコントロールするメソッドを確立しなければならない。


 そのとき、宿舎の呼び鈴が鳴った。

「お客が来てるみたいだぞ」

 いつの間にか朝食を終えて新聞を広げていた黄明和尚が、誰へともなく言った。

「お師匠(っしょ)さん、暇なら見てきてよ」と樹雨。

「わしは情報収集と現状分析に忙しいんだ」

「まったくしょうがないなあ」

 と、どうしても貧乏くじを引きがちな性格の八海さんが、ぶつくさ言いながら席を立った。「誰か来るなんて聞いてないけど、いったい誰だろう?」

 また呼び鈴が鳴った。今度は煽るように立て続けに鳴った。どうやら普通の客ではないようだ。

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