たくさんの命・1b
黄明和尚の腕の中でこてんとひっくり返ったアカネは、突然すーすーと寝息を立て始めた。
「泣き疲れて眠っちまったぞ」
和尚はしめしめとばかりにアカネをベビーベッドに寝かせると、カエデと一緒に戻ってきた樹雨に声を掛けた。
「おい、これから厩舎に行ってくるから、こいつを見ていてくれ」
「アカネ、寝ちゃったの?」
「うむ、今しかチャンスがない」
「カエデがお腹空かせたみたいで、目で訴えかけてくるんだけど」
「ミルクなら台所の鍋に哺乳瓶を漬けといたから、温度を調節して飲ませてやれ。使ったら補充しておくんだぞ」
「あいよ、了でござんす」
「かわいそうに五条と八海、昨日からずっと働きづめで寝てないみたいだから、ちょっと休ませてやらなきゃな」
「今日は土屋さんと鹿島さんが動けるんだっけ?」
「ついでにわしが起こしに行ってくるよ」
ありがたいことに、スター・チャイルドの護衛のために派遣された三人のレンジャー隊員たちは、晴れて赤ん坊たちの世話役という任務を与えられたのだった。そのおかげで樹雨とおじさんたちは前よりも休憩時間を長くとることができるようになった。レンジャー隊員たちは宿舎の外に九九式装軌装甲宇宙船を移動してきて、そこで寝泊まりしていた。
今日の鐘の街は見事に晴れ渡り(という設定)、空気は澄んでいて、冬の草花にはかすかな霜が降りていた。故障していた降雨機は少しずつその機能を取り戻しつつあり、今日も朝早くに試験運転があって、ほんの少し湿度が上がっている。
九九式装軌装甲宇宙船は緑色の迷彩柄に切り替わっていて、赤土と草むらに覆われた鐘の街の田園風景に一生懸命馴染もうとがんばっている。
黄明和尚は家畜の世話をするためのゴムのエプロンを身に着け、ゴム長靴を履いている。
宇宙船の扉を叩くと、すでにばっちり作業着に着替えている土屋高志一等宙曹と鹿島春香一等宙曹が現れた。二人ともチェックのシャツにオーバーオールを着て、その上から和尚と同じくエプロンと長靴を身に着けていた。
「おはようさん、よく眠れたかい?」
「おかげさまでぐっすり眠れました」
土屋一等宙曹は若々しい笑顔を見せた。ここに来たばかりの一か月前の彼はもっと髪が長かったが、仕事するのに邪魔だとわかって、ばっさり短く刈り込んでしまった。
一方の鹿島一等宙曹は最初からベリーショートなので特に代わり映えはない。ただ、前よりもずいぶん気さくに話すようにはなっていた。
「アカネちゃんたちは無事にお注射できましたか?」
彼女がわざとからかうように訊くと、和尚は顔をしかめて首を横に振った。
「お姉ちゃんのほうは相変わらず大暴れだったよ」
鹿島一等宙曹はクールな顔をほころばせて笑った。
宇宙船の奥からは、リーダーの風間俊樹三等宙尉の大いびきが聞こえてくる。黄明和尚は気の毒そうに言った。
「リーダーはよく寝てるな。昨日から徹夜だったからな。ご苦労なこった」
風間リーダーは赤ん坊たちのために真夜中にミルクをあげたり排泄の世話をしたりと大変な思いをして、今朝がたようやく任務から解放されたのだった。
「あんたたちにはこれから家畜の世話をしてもらう。うちの二人の従業員を休ませなきゃならんからな」
「承知いたしました」と土屋一等宙曹。
「二人とも初めてじゃなかろう?」
「私は樹雨ちゃんに教えていただいて、今日で三日目です」
と、鹿島一等宙曹は答えた。「土屋は今日で二日目になります」
「じゃあ、あんたが先輩だ。お兄ちゃんにしっかり指導してやんな」
黄明和尚は二人のレンジャー隊員を連れて、宿舎の裏に併設されている家畜小屋に向かった。その途中にある納屋の前で、和尚は立ち止まった。
「ちょっと待っててな。電話を掛けてくる」
和尚は二人にそう言うと、納屋に入り、上空一万七千キロメートルのマーズ・シティにある赤川食品株式会社の火星支社に連絡を入れた。
いつものように長々とベルが鳴った後で、ようやく浅倉義夫主任が電話に出た。
「おはよう、おじさん、今日も元気で働いてるかい?」
「年がら年中元気で働いてるよ。今日は自衛官の人たちに厩舎に入ってもらうことになった。お姉ちゃんのほうは三日目だそうだ」
「それはどうも、ご苦労なことです」
「樹雨が注文しておいたミミズはいつ頃届く予定だ?」
「たぶん、いつもの定期便で月曜の朝に届くんじゃないかな」
「たぶんじゃダメだろう。こっちは緻密な計画を立てて作物を育ててるんだから」
「まあ、来週来なかったら、再来週ってことで」
「いつかは届くってことで、それは間違いないんだな?」
「ええ、もう、それはお任せあれで」
「それならいいんだが」
そもそも黄明和尚はそれ以上のことをこの上司に期待していない。「ところで、またアカネに変なことを教えたりしてないだろうな?」
「いや、別に何も」浅倉主任はすっとぼけた。
「あのクリスマスイブの一件でお前が届けたドローンのモニター、今もまだリビングに置いてあるんだ」
「そうらしいね」
「そいつを捨てようとするとアカネが大泣きするから、捨てるに捨てられないで置きっぱなしになってるんだが、お前、ときどきそれを使って変な通信をしてないだろうな?」
すると、浅倉主任は急に真面目くさった口調になった。
「神に誓って、変な通信などしておりません」
「信じていいんだな?」
「あ、和尚は坊さんだから、仏さまに誓って、と言い直したほうがいいかな」
「どっちでもいいけど、あまり赤ん坊たちに変なことを教えるなよ。ついさっき、デイトン先生にアカネが色仕掛けしようとして返り討ちに遭ったんだ。どう考えてもお前の仕業としか思えん」
「えへへ、勘がおよろしいようで」
「まったくしょうがない奴だ」
「俺はいたって真面目に、あの子たちが退屈しないように相手してやってるだけだぜ。だから断じて変な通信などではないのですよ」
「はいはい、わかったわかった」
やっぱり犯人はこいつだったか、と思いつつ、ともかくも赤ん坊の相手をしてくれて助かる部分もあるので、和尚はそれ以上強くは言わなかった。
「さあ、お待たせしました」
黄明和尚は納屋を出ると、二人のレンジャー隊員たちと共に厩舎へと向かった。そこにはたくさんの家畜たちがいて、人間たちの世話を待っている。元々は、こちらの世話だけでも手いっぱいだったところに二人の赤ん坊が加わったものだから、しばらくは混乱を極めていたのだが、最近はようやくいくらか落ち着きを取り戻してきた。
それもこれも、黄明和尚が悪知恵を働かせて、航空宇宙自衛隊に護衛の増員を要請したおかげだった。あのクリスマスイブの浅倉主任のサプライズを逆に利用した形だ。たった三人では赤ん坊を守り切れないと強く訴えたら、政府もそれを突っぱねることはできなかった。
そういうことで現在、鐘の街の外には、事情を知らされないまま街を警護している十二人のレンジャー隊員たちがいて、交代で寝ずの番を行なっている。だから、中の三人は子守や家畜の世話に専念できるようになったのだ。
 




