桃井華、宇宙消防士になります!・2
まともに立っていられない。華は床に落ちる皿やグラスや食べ物をかき分けながら、妹の翼の手を握り、膝立ちになって支え合った。翼は混乱して泣きそうな顔になっていた。それがかえって華に姉としての自覚を与えて、冷静に周りを見ようという気持ちにさせた。
父と母が和服の袂をかき上げ、転がるようにやって来た。「伏せろ」と言っているようだが、騒がしくて聞こえない。両親はそのまま覆いかぶさってきた。大工の仕事で鍛えた力強い腕力で、両親は娘たちを押さえつけた。華は、床にこぼれた飲み物のぬるぬるした感触をお腹で感じた。
何かがたくさん、外からガラスにぶつかってきた。すべてを木端微塵にしたかのような激しい音が聞こえたが、ガラスはまだそこにあった。ただ、大きな亀裂がクモの巣のようにあちこちに走り、しゅうしゅうと音を立てて空気が漏れていた。華の頬を冷たい空気の流れが撫でた。
円筒形のスクリーンに映し出されていたクリスチャン・バラードの姿がかき消えた。みんなに避難を呼びかけるべきホストが真っ先にいなくなっていた。それだけでなく、広間中の照明が消えた。外でゆっくりと動いている地球の青い光だけが唯一の明かりだった。それだけでも十分足元を確かめることはできた。
泣き声と悲鳴が辺りを満たす中、父の落ち着いた声が姉妹の耳元に語りかけた。
「ここにはもうおられんぞ。救命カプセルのあるところまで避難せにゃあ」
広間を囲うように配置されたたくさんの出口の上には、救命カプセルの在り処を示すオレンジの表示板が明るく点灯している。
母は大きくうなずき、二人の娘に言った。
「さあ、華、翼、立って、走りなさい」
家族四人はひと塊になって、床に散らばった食べ物や飲み物で滑りやすい広間を、出口目指して懸命に走った。その途中で、さっき両親と談笑していた、がっちりした体格の白人の夫婦が助けを求めて叫んでいるのが目に入った。顔を血まみれにして横たわる夫人に寄り添って、男性がこちらに手を振っていた。
「怪我をされているのですか?」
立ち止まった父の呼びかけに、男性が英語で答える。どうやら夫人が頭を強く打ったらしい。
父は彼らと自分の家族を交互に見た後、大きなため息をつき、決心してこう言った。
「お前たちは先に行け。俺はあの人たちに手を貸す」
それは華がこれまで見たことがないほど感動的な父の姿だった。母は苦しそうに一瞬考えたが、結局こう答えた。
「うん、そうしてあげて」
すかさず母は二人の娘の手を引いてその場を離れた。残った父は男性と協力して夫人を抱きかかえている。その姿が混乱した群衆の中に消えて、華はなんだか泣きそうになった。
広間を抜けると、細長い廊下に出た。小さな丸い窓が間隔を空けて連なっている。その窓から差し込む地球からのわずかな明かりで辺りは薄暗く照らされている。廊下はわずかに傾斜しながら上り坂になっているように見えるが、見ようによっては下り坂のようにも見える。回転して重力を生み出している円形のグラス・リングの全貌がうかがい知れる。
救命カプセルまではほんのわずかだ。そのとき、廊下に非常警報が鳴り響き、数十メートル間隔で隔壁の扉が左右から閉まり始めた。節のように廊下を封鎖して、空気漏れを防ぐためだ。廊下に殺到していた人たちが悲鳴を上げた。華たちを追い越し、我先にと隔壁の向こうへ走り抜けようとしている。その先に見える、救命カプセルの在り処はここだと知らせる表示板のオレンジの光が、激しく点滅した後、なぜか消えてしまった。それと同時に非常警報も鳴り止んだ。ただし、隔壁は閉まり続けている。その向こうに脱出の手立てがあるのに、無情な扉が左右から閉じようとしていた。
「間に合って、間に合って」
そう繰り返し呟く母の声が、華の耳元でずっと聞こえている。他の人たちはみんな先に行ってしまった。着物を着ている母は走り辛そうで、さらに娘たちを両手でずっと握っている。それを離せばもっと速く走れるのではないかと、華はふと思った。出口はすぐ目の前だ。華の心に、何か熱いものが走った。
「お母さん、手を離して」
「えっ?」
華は母の手を振りほどき、自由になった両手で母と妹の背中を押した。二人は閉じかけた隔壁の向こうへ転がり出た。そして、華は、左右から迫る扉に挟まれた。
「華!」「お姉ちゃん!」と叫ぶ二人に、華は両手を引っぱられるも、扉の閉まる力には敵わない。安全のために、閉まる隔壁の合わさる部分は柔らかいゴムのような素材でできていて、華はそれに左右からお腹を挟まれていた。
「だめだ、腰がつっかえて抜けない」
呻く姉を見て、翼は顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「お姉ちゃん、やだよう」
「そっちに出るより、後ろに抜けたほうが早いかも」
華は、必死で引っ張っている二人の手を強く握り返した。まさかここで死ぬはずはないが、もしかしたら死ぬかもしれないという思いが、ここで初めて華の胸に浮かんだ。
「ごめん、二人で逃げて。私はこっちで助けを待つから」
母は二人の娘の顔をじっと見た後、覚悟したようにうなずき、こう言った。
「きっと、生きてまた会うんだよ。お父さんともね。四人で、家に帰るんだよ」
「うん」
華は、母と妹に微笑みかけると、両手を離した。その瞬間、母の顔に後悔が浮かんだように思えたが、すぐに見えなくなった。華の身体を飲み込むように、隔壁の合わせ目がのたうつように動いて、彼女を後ろへ後ろへと押しやり、気づいたら扉はぴたりと目の前で閉じていた。
それからどのくらいの時間が経っただろうか。窓から差し込んでいた青い光が徐々に弱まり、グラス・リングが地球の夜の側に回っているらしいことがわかる。そうなれば明かりになるものは何もなく、このままだとやがて真っ暗になるだろう。パーティが始まる前に、すべての明かりがなくなれば星がたくさん見えるかもしれないと妹と話していたときのワクワクしていた気持ちは、今はもうまったくない。心にじっとりと染み入るような寒さが、恐ろしい速度で迫ってくるのを感じた。
宇宙は真空だから、熱の伝わり方が遅く、夜の側に回ったからといってそうすぐに冷えるものではないと学校では教わった。ところが、実際には予想していた何倍もの早さで気温が下がっているのがわかる。かすかな明かりの中で、自分の吐く息が白くなっているのが見えた。壁も天井も、びっしりと結露した水滴が鈍く光を反射している。やがては冷凍庫のように凍りつくのではないかと思うと、華は恐怖で叫び出しそうになるのだった。
落ち着いて考えてみる。出発前の説明ではこう言われた。上空四百キロメートルを飛ぶ宇宙ステーションはおよそ九十分で地球を一周する、と。だからほんの四十分ほどがんばれば昼の側に回る。寒いのはわずかな時間だけだ。
しかし……、ふと恐ろしい想像が華の脳裏をよぎった。今、グラス・リングは正常な機能を失っている。夜の側に回っただけでこれだけ冷えるのだから、昼の側に回ったときにどれだけ温度が上がるのかわかったものではない。もしかしたらオーブンの中に閉じ込められているようなものかもしれない。それに、空気だっていつまで持つかわからない。ああ、だめだ、もう何も考えたくない。
汚れたワンピースの裾をかき寄せ、膝を抱えて座り、隔壁に寄り添うと、冷たく濡れた壁に耳を押しつけた。ことりとも音がしない。誰もいないのなら、向こう側の母と妹は、なんとか脱出できたのかもしれない。それとも、単に壁が分厚くて聞こえないだけかもしれない。華は試しに隔壁を叩いてみた。しかし、反応はなかった。
自分の呼吸と、震えて服がこすれる音だけが聞こえる。さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。自分は夢でも見ているのではないだろうか。本当にこれは現実なのだろうか。
ついにかすかな明かりも消え、真の闇の中に入った。窓側に行けば星くらいは見えるかもしれないが、寒くて動く気がしない。お尻が冷たくてたまらない。
大人たちはネビュラに接続すれば情報を得られるだろうが、まだ十四歳の華にはそれが許されていない。あと三か月足らずで誕生日を迎えれば、華にもネビュラが使用できるようになるのだが、果たしてそれまで生きているのかどうかすらわからなくなってしまった。
だけど……
ふと華は思うのだった。さっき、母と妹を閉まる扉の向こうに押しやったことを思い出した。そのときの自分の心の強さを思うと、誇らしさが胸に湧き起こる。自分はここで死ぬかもしれないけど、自分が最後に振り絞った力で二人が助かるなら、それで十分なのかもしれない。お父さんが示した勇気と同じものを、自分も持てたのだ。
なら、もう、いいや。
華は清々して、強ばっていた身体の力を緩め、目を閉じた。
そのとき、何かが窓を外から叩いた。