スター・チャイルド・4a
それからの二週間は、樹雨と三人のおじさんたちにとって、秘密厳守の過酷な日々だった。
子育て経験のある五条さんと八海さんは、二人の赤ちゃんを迎え入れるために必要な道具の数々をリストアップした。特に気になるのは食べ物だ。エウロパ人は地球人と同じものを食べるのかどうか、普通のミルクでいいのかどうか、それがわかっていないと事前に準備することも買い溜めておくこともできない。
火星には一週間に一度、毎週金曜日に物資を届ける船が立ち寄る。それは火星の上空一万七千キロメートルにあるマーズ・シティから宇宙エレベーターで三日を掛けて届けられる。だから手元に届くのは月曜日だ。遅くとも一週間前には必要なものを注文しておかないと間に合わないので、今週の木曜日(十二月十三日)までに必要なものの確認を取る必要があった。
「そういうわけなので、樹雨、もう一度市長の家まで行って、兄様に確認を取ってきてくれ」
「わかったよ、お師匠さん」
黄明和尚の指令を受けて、樹雨は再びマルテル市長の邸宅を訪ねた。それは兄と最初の連絡を取り合った翌日(水曜日)のことだ。
今回は茉莉おばさんたちへの対策も立ててある。生物学者の八海さんが育てた特大の鯉をお土産に持参したのだ。樹雨はキャリーカートに水を張った盥を乗せて、大変な苦労をしてそれを運んだ。
「おやおや、こいつは立派なもんだね」
おばさんはそのつぶらな瞳を大きく見開いて、小躍りしながら魚を受け取った。鯉はまだ生きていて、おばさんのたくましい腕にねじ伏せられるまでは尾ひれを大きく振って暴れ狂っていた。
「泥の臭みがまったくない鯉だから、火鍋にすると最高だって八海さんが言ってたよ」
「こりゃもう、さっそく仕込みにかからないといけないね」
すっかりやる気が漲ってきた茉莉おばさんは、外に縁台を出して昼寝していた楊昭少年を大声で呼びつけ、今すぐ近所の誰々さんのところに行って漢方薬の何々を借りてくるようにと、事細かに書かれたメモを手渡した。まだ眠たい少年はぶつぶつ文句を言いながら出掛けていった。
「さあ、いっちょ、バラすかね」
おばさんは人が寝られそうな大きなまな板と、それにぴったり合う巨大な中華包丁を台所から持ち出してくると、さっきまで少年が昼寝していた縁台の上にそれらをセットした。高さの調節のために、まな板の下に赤レンガを積み重ねた。そして、引っ張ってきた水道ホースでまな板をきれいに洗った。それらの作業は目にも止まらぬ速さで進行した。
「樹雨、その鯉をこっちへ持ってきてくんな」
すっかり存在を忘れ去られていたと思っていた樹雨は、急に名前を呼ばれたので、ちょっと嬉しくなった。さっきまで暴れていた鯉は、おばさんに抱きしめられて観念したのか、盥の中ですっかりおとなしくなっている。
「その四角い包丁で魚を捌くんですか?」
樹雨は驚いて訊いた。おばさんの手には幅広の中華包丁一本だけが握られている。
「そうだよ、魚も肉も野菜も、これ一本でなんだって料理できるのさ」
おばさんはそう言うと、突然何の予告もなく、まな板に乗せた鯉の頭を一刀の元に叩き落とした。激しい水しぶきが辺りに飛び散った。あまりの勢いに、樹雨は小さく「きゃっ」と悲鳴を上げてしまった。おばさんはガハハと笑うと、手に持った包丁をひらりと返して、今度は慎重に腹を裂き始めた。樹雨は、二振り目も同じように激しく包丁を叩きつけて、一気にぶつ切りにしてしまうものと身構えていたのだが、おばさんの手つきは意外にも繊細だった。
「内臓に傷をつけると身が苦くなっちまうから、こうやって丁寧に開いていくんだよ」
大きな中華包丁が華麗に細かい仕事をこなしていく。樹雨はつい夢中になって、おばさんの作業を見つめてしまった。そのときようやく、自分に課せられた任務を思い出した。こんなところで時間を取られていたら、何のためにお土産を持参したのかわからない。
「茉莉おばさん、市長さんはご在宅ですか?」
おばさんは手を動かしながら答えた。
「二階の執務室にいると思うよ。さっき昼飯をお持ちしたばかりだから、もしかしたらお腹いっぱいで寝ているかもしれないね。私は今、手が離せないから、樹雨一人で行っておくれ。勝手に入って構わないからね」
「はい、それじゃ、お邪魔します」
樹雨は玄関ポーチを駆け上がると、ノックすることなくドアを開け、広い居間を通り抜けて、二階へ続く階段を上った。
マルテル市長の執務室はドアが半開きになっている。今日は気温が高めに設定されているので、こうやって部屋のドアと窓を開け放って、風通しを良くするのが市長の習慣だった。部屋の中から、ペンが書類の上を走る音と、古風なタイプライターのキーを叩く音が交互に聞こえてくる。火星の人々の生活はどこか古風で、前時代的なのだ。
「マルテル市長、こんにちは、私です」
「樹雨君かい?」
椅子のバネがきしむ音が聞こえたかと思うと、腕まくりしたワイシャツ姿の市長が、耳にペンを引っ掛けながらやって来た。
「お師匠さんから連絡が来たと思うんですけど……」
「ああ、聞いてるよ」
市長はそうとだけ答えると、窓のそばへ小走りに駆け寄って、あっちの窓からこっちの窓へと移りながら、素早く外の様子をうかがった。楊昭少年が隣りのご婦人の世間話の相手をさせられているのが見えた。茉莉おばさんは大きな鯉を切り身に分けている真っ最中だ。
「例の赤ん坊たちが何を食べるのかを知りたいんだったね」
「そうなんです」
「それなら、もう確認しておいたよ。普通のミルクで大丈夫だそうだ」
「ああ、そうなんですか」
樹雨は、兄ともう一度話をする必要がなくなってホッとしたような、残念なような、ちょっと複雑な気持ちになった。
「ただ、量が普通の人間とはけた違いらしくてね、一人当たり一日七リットルが目安だそうだ」
それがどのくらいの量なのか、人間の赤ちゃんのことすらよくわからない樹雨にはぴんと来なかった。
「それは、普通の人間の赤ちゃんの何倍くらいの量になるんですか?」
「大体十倍くらいかな」
「おっきな赤ちゃんなんですか?」
樹雨は、人を見下ろすようなグロテスクな巨大乳児を想像してしまった。
市長は笑って首を横に振った。
「いいや、普通の人間と変わりない大きさだそうだよ。ただ、成長速度もそれなりに速いらしい。一か月経ったら離乳食に移してほしいそうだ」
なるほど、それは重要な情報だ。そうとわかれば、食材を前もって大量に用意しておかなければならない。
「ありがとうございました。おかげで確実な準備ができます」
「いやいや、このことは最優先で協力させてもらうよ。何かわからないことがあったら、遠慮なく聞きに来てくれたまえ」
樹雨は執務室を出る前に、ふと気になって、こんなことを訊いた。
「それで、兄貴はどんな様子でしたか?」
「お兄さんは元気そうだったよ」
市長には嘘をついているような様子がまるでないので、本当に元気だったのだろう。
「兄貴は本当に木星にいるんですか? もしかして、すぐそばの宇宙でうろうろしたりしていませんか?」
「いいや、彼は確かに木星にいるよ。正確には、衛星のイオにいる。そこには火山活動のエネルギーを利用した高重力発生装置があって、そこで妊娠中の奥さんの世話をしているそうだ」
そうなんだ、やっぱり、エウロパ人たちは地球人よりもはるかに高度なテクノロジーを持っていて、それで兄貴たちは便利で充実した日々を送っているのだと、樹雨はようやくちょっとだけ納得できた。
「ありがとうございました。また何かありましたらご連絡します。それでは、失礼します」
「いつでもおいで」
樹雨はぺこりと頭を下げると、執務室のドアをくぐり、階段を駆け下りた。
玄関から出てきた樹雨に、香辛料や漢方薬でいっぱいの盥に鯉を漬け込んでいた茉莉おばさんが声を掛けた。
「樹雨、今夜一晩、こうして下ごしらえをしておくから、火鍋パーティは明日だよ。男たちみんなで食べにおいでって、伝えておくれ。私たち三人じゃ食べきれないからね」
「母ちゃんの火鍋は格別だよ」楊昭少年も誇らしそうに言った。
「ありがとうございます。ぜひ、お邪魔させていただきます」
元気に駆け出していく樹雨の背中に、おばさんと少年はずっと手を振っていた。その親切さがなんだか胸にちくりと痛かった。あと二週間経てば、こんなコソコソしなくてもすむようになる。早く赤ちゃんたちが来てくれることを、樹雨は強く願った。




